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1、仕事に行けなかった日

 いつからだろう、電車に乗れなくなったのは。


 都心の通勤通学ラッシュ。それは戦争だ。

 スマホをいじるスーツ姿の若い男性、文庫本を読む年寄りの女性、テニスラケットの入った大きなバッグをもぎとられないようにしてギュッと持つセーラー服の少女……。

 すべて、これから始まる戦いへの準備をしていた。

 やがて暗いトンネルの向こうからライトの光が見えてきた。

 そして銀色に光る連結車両がやって来て、すっ飛ぶようにホームの中へ入ってくる。

 ドアが開くと、降車する人をかき分けるようにして気の早い人たちが車内に駆けこんでいく。

 地面に落ちた飴に群がるアリのように集まっていき、すぐにその中はおしくらまんじゅう状態になった。

 今にも破裂しそうな電車は、満腹で歩くことさえ辛そうにしながらトンネルの中へ消えていった。

 さっきまで他人の体臭が分かるほどの人口密度だったホームに、少しばかりの静けさが訪れる。


 ホームの一角に、一人の女性がたたずんでいた。

 年齢は三十歳よりはほんの少し若い。

 アイロンがかけられていないクタクタのスーツを着ていて、髪の毛はたった今起床したかのようにボサボサだ。

 女性はさっきまで、乗降する列の一番後ろに並んでいた。今も、その時とまったく同じ場所に立っている。

 乗れなかった。

 女性はバッグの革ひもを力強く握りしめた。

 それに乗らないと会社に行けないのに乗らなかった自分の今の気持ちをぶつけるように、ギュッと握った。

 彼女は、コンクリートの柱に背中を預け、涙を拭った。

 涙は一滴では収まらず、湧水が川になるように流れた。

 誰にも声をかけられることなく、異物を見つけたような目で見られただけで、一人で泣き続けた。

 五分もしないうちに、ホームに人々が集まってきて一杯になった。あっという間に、彼女は人の海に飲み込まれる。

 一回乗れなかっただけで気力はもう限界だ。女性は暗い海の底から空気を求める海洋性ほ乳類のように人の海をかき分け、改札口の方へ歩いていった。こんな所にいたら息が詰まりそうだ。


 今日もずる休み。そんな罪悪感が、駅の出口へ歩く女性に重くのしかかる。

 会社では、自分のことがうわさになっているだろうか、いやなっている。確かめてはいないけれど、確信できる。

 きっと、メンタルの弱い自分のことを、陰で嘲笑しているに違いない。

 彼女は、欠勤の電話をかけた後、スマホの電源を切った。

 駅を出ると、女性は家とは違う方へ歩きだした。

 仕事を休むのだから、すぐに家へ帰って引きこもるべきだろう。

 しかし、今誰もいないアパートの部屋に帰ったら、孤独がつらすぎて耐えられそうにない。

 だから、彼女は出勤できなかった時はまっすぐ家へ帰らないようにしていた。


 駅から十分ほど歩くと、きれいで大きな建物が見えてきた。それは区立図書館だった。駐車場は、平日だというのに八割ほど車で埋まっている。駐輪場も駅前みたいに自転車がいっぱいだ。

 女性は少しだけ軽い足取りで図書館へ入った。

 夏休み中のせいか、館内は年寄りから小さい子どもまで、幅広い年齢層の人々でごったがえしていた。ただ、人口密度が高いのに静けさがあった。たまに子どもの声が聞こえるだけだ。

 彼女は迷うことなく歩き、図鑑コーナーで足を止めた。そこには大学の資料にも使われるような本が所狭しと棚に並んでいる。

 女性はその中から、表紙がカラーのものを手に取った。それには、赤く光る太陽とそれを周回する色彩豊かな惑星が描かれている。それを見た彼女は、嬉しそうに少しだけ微笑んだ。

 彼女は惑星が好きだ。夜空をキラリと流れる星ではなく、宇宙で見えるそのままの恒星や惑星の姿の方が好きだ。金星の黄土色、火星の赤茶色など、それらがきれいに描かれているのを見るのが楽しい。

 星がどのような誕生の仕方をしたか、寿命が尽きたらどうなるか、そっちの方も興味がある。学生時代、天文部に所属していたほどだ。

 しばらくそのコーナーの本を読んでいた。

 そして、気がついたら昼過ぎになっていて、次の本に手を伸ばそうと思ったが、お腹の虫が鳴き始めた。


「借りよう」


 小さくつぶやき、図鑑を持ってカウンターに向かった。

 午前中だというのに、カウンターには三人並んでいた。先頭がお年寄りの男性、二番目がサラリーマン風の男性、そして三人目は子連れの若い女性だ。

 女性は惑星の本を脇に抱え、片方の手でバッグから貸出カードをとりだした。そのカードには、寺崎綾菜てらさきあやなと書かれている。

 すると、肩にかけてあるバッグの革ひもが肩からずれ、重力に従って落ち、中身をタイルの床にぶちまけてしまった。乾いた音が響く。

 カードと本に気をとられていたせいだろう。綾菜は散らばった化粧道具やスマホをかき集める。自分の後ろにいる人の足元にも何か落ちていた。


「はい、どうぞ」


 それが拾われ、目の前に差しだされた。その人は小学校高学年っぽく見える男子だ。半袖にジーパンを着ている。


「ど、どうも……」


 緊張する。知らない人が自分に何かしてくれたことが申し訳ないが、何より生理用品を拾われたのが恥ずかしい。

 綾菜はひったくるように受け取り、バッグに突っ込んだ。軽く会釈し、カウンターへ向き直る。


「……さん。……菜さん」


 遠くから声が聞こえる気がする。


「綾菜さん!」


 ハッと綾菜は我に帰った。目の前にいたはずの三人はいつの間にかいなくなっていて、すっかり顔なじみになった若い女性の職員が、カウンターで手招きしていた。


「ごめんなさい、考えごとしてた……」


 綾菜はそう言うと、ペコッと頭を下げた。そして本を職員に渡す。

 佐藤千春さとうちはると書かれたネームプレートを下げた職員は、本をひっくり返して裏表紙に貼られたバーコードをスキャンした。

 すぐ近くに置かれた、手の平二つ分のサイズの小型のプリンターから、返却日の書かれたしおりサイズの紙が出てきた。それを手慣れた様子で本の中心に挟む。


「どうしたんですか。何か悩みごとですか」


 千春は本を差し出す。


「うん。最近色々あって……」


 本をバッグに仕舞いながら答える。この場では言いにくいから、曖昧な返事になる。


「あたしで良ければ、メールで相談に乗りますよ。あ、今は仕事中なので、夜でお願いします」


 千春はニカッと笑った。彼女は二年前大学を卒業した二十四歳で、童顔のおかげで笑顔が子どものように可愛らしい。

 彼女の声を聞くと安心するし、まぶしい笑顔を見ると癒やされる。


「ありがとう。いつも助かってる」


 気にしないでくださいよ~、と千春は照れた表情をする。そして、次の方どうぞーと綾菜の後ろにいる少年に呼びかけた。

 少年の対応をしながら、千春は綾菜に笑顔で手を振った。

 綾菜も手を振って、その場を離れ、図書館を出る。

 炎天下の中家に帰ると、ドアのカギをかけるのを失念するほど疲れていた綾菜は、すぐに服を全部脱いで裸になった。とても片づけられているとは言えないワンルームの部屋に、脱いだものを放り出す。外はもう三十度を超えているから汗だくだ。

 シャワーを浴びて下着だけ付けて、ベッドに転がる。室内は蒸し焼きになりそうなほど暑いが、エアコンをつける元気もない。彼女はそのまま眠りについてしまった。



 夕方頃、玄関のチャイムが鳴った。


 ピンポーン、ピンポーン。

 夕日の光が照りつけるドアの前で、千春は綾菜の部屋のインターフォンを押していた。


「おかしいなぁ。なんで出ないんだろ……」


 彼女はせっかちである。インターフォンを押したら住人には五秒くらいで出てきてほしいと思っているから、まったく反応がない二十秒というのは苦痛だった。


「もしもーし」


 ドアを拳でドンドンと叩いてみる。手が痛くなって、息をふーふーと吹きかける。


「暑いよぉ」


 弱々しい声でそうつぶやいた。手の甲でほっぺたと額の汗を拭う。汗で化粧が少し落ちてしまっている。

 少し考えて、千春はピンときた。有名な推理マンガで、今と似たようなシーンがあった。部屋を訪れた客がインターフォンを押してもまったく返事がなく、カギのかかっていないドアを開けたら、中に住人の死体が転がっていた……。よくある展開だ。

 まさか……。

 嫌な予感がして、ドアノブをひねってみる。どうか開きませんように。

 その願いはむなしく、カギはかかっていなかった。チェーンもされていない。


「暑っ!」


 部屋の中は、異様に温度が高く、蒸していた。

 なんでクーラーがついてない……? 千春は首をかしげる。

 だが、千春は理由を深く考えることはせず、靴を脱いでさっさと入っていった。


「うわぁ……」


 彼女は、部屋の中を見た後、鼻をヒクヒクさせた。

 脱ぎっぱなしの服、コンビニの弁当箱、残飯、ちり紙、それらが散乱していて、部屋の暑さで発酵している。

 部屋の一番奥にベッドがあって、綾菜はそこでうつ伏せになって寝ていた。下着姿である。

 千春はズンズンと足を踏み鳴らして歩いていき、ベッドのすぐ横に立った。


「綾菜さーん! 起きてくださーい!」


 耳元で、近所中に聞こえるような大きな声で言った。

 突然の声に、綾菜はガバッと跳ね起きた。慌てて辺りを見回す。


「耳痛っ……」


 綾菜は右耳を押さえる。耳の穴に太い棒をねじ込まれたかのように痛む。


「あ、起きた。おはよーございます」


 千春は、右手を軽く上げて二カッと笑った。


「来てたの……。いらっしゃい」


 か弱い声で言う。


「いらっしゃい、じゃないですよ。女の一人暮らしでカギをかけず、しかも下着姿でベッドに寝てるなんて……。『いつでもどうぞ』ってアピールしてるみたいじゃないですか。あっ、もしかして、誘ってるんですか?」


 眉をひそめたり、ニタニタ笑ったり、千春の表情筋は忙しい。


「ち……がう」


 綾菜は口を尖らせた。足を下ろし、ベッドに腰かける。


「それはそうと、一週間前にここへ来てせっかく掃除してあげたのに、また汚れてるのはどういうことですか。あの時約束しましたよね、ちゃんと自分で整理整頓するって」


 部屋の中をグルッと見回して千春はため息をついた。


「ごめんなさい、どうしてもやる気が起きないというか、元気が出ないというか……」


 そう言って、綾菜はベッドの上に放置してある洗濯物をつかみ、畳み始める。

 すると、千春はそれをひったくって部屋に放り投げた。


「これは、あたしがやっておきますから、綾菜さんはシャワー浴びてきてください。臭ってますよ」


 鼻をつまんでもう片方の手でシャワー室を指さす千春を見て、綾菜はがっくりとうなだれる。

 面倒だな、と綾菜は思った。もう夕方だ。このまま眠って、朝を迎えたいところなのだが。でも、千春はそうさせてくれないだろう。でも、眠たい。だるい。寝てしまえばいいのだ。そうすれば、千春にもどうすることもできない。

 そんなことを考えていると、千春がしゃがんで綾菜を正面から抱きしめる体勢をしてきて、綾菜のブラのホックがすばやく外され、ブラがはぎ取られた。


「キャッ!?」


 我に返ったように、綾菜は両手で胸を隠す。

 その隙をついて、千春はパンツに手をかけて勢いよく引き下ろした。足首に引っかかるが、無理やり取る。


「今、このまま寝ちゃおうかって思いませんでしたか? あたしが許しませんから。いいから浴びてきてください」


 綾菜の片腕を引っ張るが、その場を動こうとはしない。全裸になって体を縮こまらせているから、余計に力が入っている。


「仕方ないですね。強行作戦に出ます。えいっ!」


 綾菜のわき腹をくすぐった。


「キャン!」


 子犬みたいな声を上げて、綾菜は飛び上がる。

 綾菜の腕が胸から離れた。千春は全裸女性の両脇に手を入れて、腕力で立ち上がらせる。


「もう、おばあちゃんは腰が重たいんだからー」


 千春は綾菜よりも身長が低いが、そんなのおかまいなしだ。

 綾菜がバンザイした状態になった時、千春はあることに気づき、彼女の脇を人差し指でなぞる。


「うひゃん!」


 すっとんきょうな声で驚く。


「綾菜さん、これアウトですよ……。最近剃ってます? なんなら、あたしが剃ってあげますよ」


 何回も綾菜の脇をなぞりながら、彼女の顔をニヤけながら覗きこむ。


「じ、自分でできるから……!」


 綾菜は顔を真っ赤にして、徒競争の選手のようにシャワー室へ駆けこんだ

2へ続きます。

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