もうひとつの世界
目が覚めた瞬間、ナルミは違和感を感じた。
(何かが変だ…。)
なのに、その『何か』が分からない。
起きてからもベッドにいると、玄関のドアが開く音がした。
ーガチャッ。
(ママ?)
違った。アキラだった。
アキラはナルミの同僚で、一回り以上年齢が違う。ナルミはまだ20代だが、アキラは40歳を超えている。
活発で、いつも明るく優しくて…。アキラほどの人なんていない。自然とそう思えた。
外見だって溌剌としていて、30代前半と言って通じるほどだった。
でも、そのあまりの年の差から、付き合うことに周囲から猛反対されていた。
特にママは絶対に許してくれなかった。
だから、家にあげたことは無かったはずだ。
(それに、アキラは…。ええと…。何だっけ…。)
変な感じはあるのに、続きが出てこない。
でも、アキラとは付き合えない、絶対的な理由が確かあったのだ。
なんだか、アキラの向こう側に人が見える気がする。あれは誰だろう。思い出せない…。
ナルミが渡した記憶のない合鍵を、彼は持っていた。人差し指に引っ掛けて、クルクル回している。
合鍵には、あるアーティストのキーホルダーがついていた。この間、ライブに行ってナルミが買ってきたものだ。
でも、誰と行ったんだっけ…?
「階段から落ちたんだって?大きな怪我がなくて良かった。」
ナルミのベッドに腰掛けて、頭を撫でてくれるアキラ。
「ホットケーキを作るよ。」
ナルミは、ベッドから動けなかった。
カチャカチャとボウルを泡立て器でかき回す音を、ただ聞いていた。
(何がおかしいのか、わからない…。)
キッチンからバニラの香りがフワッと漂ってきた。
「ナルミ、メープルシロップでいいの?」
アキラがヒョイッと顔をのぞかせた。ナルミはビクリとした。
「え、う、うん…。」
(メープルシロップは、使っちゃいけないんじゃなかった…?)
一瞬そんな考えがよぎった。それでも、どうしてそんな風に思ってしまったのかが、わからない…。
ーガチャッ。
また玄関の開く音がした。
今度こそ、ママだった。
「ただいま! アキラさん! ごめんなさいね、会議が抜けられなくて。」
「いえ、どうってことないですよ。大事なナルミのためですから。」
「ホットケーキ?美味しそう。ありがとう!」
そんな会話をした後、すぐナルミの部屋に来てくれた。
「マ、ママ…。」
ママは、言葉を言うより先にまず抱きしめてくれた。
(あ、ママのにおいだ…。)
ママは、柑橘系の香りが好きで、香水もハンドクリームもレモンの香りなのだ。
「今日は、調子はどう?」
ママの穏やかな瞳に見つめられて、ナルミは慌てた。
ママはいつも魅力的で若々しく、知的で美しい女性だ。
(1人で混乱して、1人で空回っていたんだ…。
何も変なことなんて、無いじゃない…。
大人なのに…。恥ずかしい…。)
ナルミはうつむいてしまった。
「ナルミ、顔色が悪いわね。ベランダまで歩ける?外の空気を吸った方がいいかも。」
ママは心配そうにナルミの頬を撫でてくれた。頷いて、ゆっくりとスリッパを履く。
(…私のスリッパって、こんなにフリルがついていたっけ…?)
確かに、肩やおしりの横などが痛む。階段からは、本当に落ちたらしい。
ベランダの鍵を開けた。
「え…。」
そこは、ナルミの知っている我が家ではなかった。
(私の家は、大きな通りに面したマンションの3階だった。
あの日、真上の4階の部屋から、子猫が落ちそうになってたんだ。爪をひっかけて、かろうじてぶら下がっていた。
私はたまたま、リビングからそれを見て…。
そうだ、急いでベランダの手すりにのぼって、子猫を抱いた…。
そのまま、ベランダから落ちた…。)
「ナルミ? ホットケーキ、アキラさんが作ってくれたわよ。食べましょう?」
後ろからママが言う。
でも、ナルミはそれどころでは無かった。おかしな汗が止まらなかった。
(そうよ、私はマンションから落ちた…!
確かに落ちたわ!植え込みに背中から落ちた!
意識を失う前に、救急車の中で隊員に、子猫を手渡した!)
あの、小さくてゴツゴツとしていて、けれど確かに命の温かみがある感触! 覚えている!
しかし、今ナルミの目の前に広がっているのは、豊かな緑となだらかな芝生の斜面だった。
ベランダだってウッドデッキだった。手すりも金属製だったはずなのに、今は木製になっている。
マンションの前のコンクリートの道やツツジの植え込みも、無い。
そう、無いのだ。あるはずの建物も公園も人の気配も、何もかも。
つまり、ここは、マンションの3階ではなかった。
まるで映画に出てくる別荘のような、静かなコテージだった。
周りは森だった。
ナルミは後ずさった。
(待って。私がおかしいの?この記憶は嘘なの…?)
「ナルミ…?ねえ、体が冷えるわ。」
ママがそっと後ろから抱きしめてくれた。
「冷蔵庫から飲み物をとっていらっしゃいよ。ナルミの好きなジャスミンティーもあるわ。」
「う、うん…。」
リビングには、出来たてのホットケーキが湯気を立ててお皿に乗っていた。
ナルミ、ママ、アキラの3人分のお皿。
(誰かがいない…!)
ナルミは強い思いに駆られ、冷蔵庫に急いだ。決定的な証拠が欲しかった。
冷蔵庫を開けると、ラップをかけられたチーズケーキが1切れ。同じように、ラップをかけられたお好み焼きが1枚。なぜか、目についた。
いや、目が離せなかった。
(…ルイ!!)
ケーキは、妹のルイが作ったものだ。
そうだ。あの日。あの子猫を助けた日。
ルイは朝からチーズケーキを作ってくれたのだった。
「あとで食べる!嬉しい!」
と言ったのに、食べられないまま、ナルミはマンションから転落した。
目が覚めると、この家にいた。
いや、この『世界』にいた。
ここは、元いた世界と限りなく似ている世界。
なのに、微妙に全部がずれて、異なっている世界。
ルイがいない世界…。
震える手で、今度はお好み焼きのラップを外す。
ベタッと塗られていたソースに、はがれたラップが模様を作った。
『where?』
ーどこ?
直感的に、「ルイだ!」と思った。
今きっと、向こうの世界で書いているに違いない。そうだとしか思えない。
爪楊枝のようなものでソースを引っ掻いているのか。
細い線が、お好み焼きの上に出来ていく。ナルミの見ている目の前で、茶色のソースに文字が書かれていく…!
『comeback』
ー帰ってきて
「…!!」
やっぱり、ここは私の生きてきた『世界』じゃない。
ここは、もうひとつの世界なんだ。
思い出した。
このフリルのついたスリッパは、元の世界でルイが履いていたものだ。
メープルシロップはルイの大好物だ。使わないでね、お姉ちゃんはハチミツねといつも言われていたのだ。
ライブはルイと行ったのだ。キーホルダーだけじゃなくて、お揃いでTシャツも買った。
ナルミはお好み焼きのお皿を、調理台に落とすように置いた。ガチャンとお皿が不愉快な音を立てた。
ママのところへ走ろうとしたか、足がガクガクして、よろめいた。
「ナルミ!先に食べちゃってるわよ!」
ママが笑顔でホットケーキを頬張っている。隣にアキラが座っている。
「ママ…。あの…。」
ヨロヨロとテーブルに近づく。
「ねえ、あなたが元気になったら、そろそろ私たち、入籍してもいい?」
(…え…?)
声が出なかった。
「もうお付き合いし始めて、私たち3年になるし。
実はね、赤ちゃんが出来たの。女の子だって!」
幸せそうにママが笑う。
ママの肩に、アキラが照れたように笑顔で手を置いた。
(アキラには、奥さんと子どもがいたはずじゃ…!? )
ママがアキラとの交際を絶対に認めなかったのは、年齢差以上に、そこだった。
ナルミとアキラは、社内不倫をズルズルと続けてしまっていた。
ナルミは泥沼の状況に落ち込んだ。そんな姉を励ますために、妹のルイはチーズケーキを作ってくれたのだ…。
そうだ。
全部、思い出した。
そしてまた、今目の前にいるアキラの左手の薬指に、指輪はなかった。
「高齢出産になるけど、ママ、頑張りたい!ナルミも応援してくれるでしょ?」
冷蔵庫を開けっ放しだったらしい。ピーピーと音が鳴り出した。
「赤ちゃんの名前は、『ルイ』にしようかなって、アキラさんと話し合ってるの!可愛いでしょう?」
ピーピーピーピー…。
このママは、私のママじゃない。
このアキラは、私の知ってるアキラじゃない。
この世界は、私の生きてきた世界ではない。
だが…
ここが本当に、もうひとつの世界なら、どうやったら元の世界に帰れるのだろうか。
冷蔵庫の呼出音が、遠くから私を手招きしているように感じられた。




