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もうひとつの世界

作者: 鰯田鰹節
掲載日:2023/04/24




目が覚めた瞬間、ナルミは違和感を感じた。

(何かが変だ…。)

なのに、その『何か』が分からない。

起きてからもベッドにいると、玄関のドアが開く音がした。

ーガチャッ。

(ママ?)


違った。アキラだった。

アキラはナルミの同僚で、一回り以上年齢が違う。ナルミはまだ20代だが、アキラは40歳を超えている。

活発で、いつも明るく優しくて…。アキラほどの人なんていない。自然とそう思えた。

外見だって溌剌としていて、30代前半と言って通じるほどだった。

でも、そのあまりの年の差から、付き合うことに周囲から猛反対されていた。

特にママは絶対に許してくれなかった。

だから、家にあげたことは無かったはずだ。


(それに、アキラは…。ええと…。何だっけ…。)

変な感じはあるのに、続きが出てこない。

でも、アキラとは付き合えない、絶対的な理由が確かあったのだ。

なんだか、アキラの向こう側に人が見える気がする。あれは誰だろう。思い出せない…。


ナルミが渡した記憶のない合鍵を、彼は持っていた。人差し指に引っ掛けて、クルクル回している。

合鍵には、あるアーティストのキーホルダーがついていた。この間、ライブに行ってナルミが買ってきたものだ。

でも、誰と行ったんだっけ…?


「階段から落ちたんだって?大きな怪我がなくて良かった。」

ナルミのベッドに腰掛けて、頭を撫でてくれるアキラ。

「ホットケーキを作るよ。」


ナルミは、ベッドから動けなかった。

カチャカチャとボウルを泡立て器でかき回す音を、ただ聞いていた。

(何がおかしいのか、わからない…。)

キッチンからバニラの香りがフワッと漂ってきた。

「ナルミ、メープルシロップでいいの?」

アキラがヒョイッと顔をのぞかせた。ナルミはビクリとした。

「え、う、うん…。」

(メープルシロップは、使っちゃいけないんじゃなかった…?)

一瞬そんな考えがよぎった。それでも、どうしてそんな風に思ってしまったのかが、わからない…。



ーガチャッ。

また玄関の開く音がした。


今度こそ、ママだった。

「ただいま! アキラさん! ごめんなさいね、会議が抜けられなくて。」

「いえ、どうってことないですよ。大事なナルミのためですから。」

「ホットケーキ?美味しそう。ありがとう!」


そんな会話をした後、すぐナルミの部屋に来てくれた。

「マ、ママ…。」

ママは、言葉を言うより先にまず抱きしめてくれた。

(あ、ママのにおいだ…。)

ママは、柑橘系の香りが好きで、香水もハンドクリームもレモンの香りなのだ。

「今日は、調子はどう?」

ママの穏やかな瞳に見つめられて、ナルミは慌てた。

ママはいつも魅力的で若々しく、知的で美しい女性だ。

(1人で混乱して、1人で空回っていたんだ…。

何も変なことなんて、無いじゃない…。

大人なのに…。恥ずかしい…。)

ナルミはうつむいてしまった。


「ナルミ、顔色が悪いわね。ベランダまで歩ける?外の空気を吸った方がいいかも。」

ママは心配そうにナルミの頬を撫でてくれた。頷いて、ゆっくりとスリッパを履く。

(…私のスリッパって、こんなにフリルがついていたっけ…?)


確かに、肩やおしりの横などが痛む。階段からは、本当に落ちたらしい。

ベランダの鍵を開けた。

「え…。」

そこは、ナルミの知っている我が家ではなかった。


(私の家は、大きな通りに面したマンションの3階だった。

あの日、真上の4階の部屋から、子猫が落ちそうになってたんだ。爪をひっかけて、かろうじてぶら下がっていた。

私はたまたま、リビングからそれを見て…。

そうだ、急いでベランダの手すりにのぼって、子猫を抱いた…。

そのまま、ベランダから落ちた…。)


「ナルミ? ホットケーキ、アキラさんが作ってくれたわよ。食べましょう?」

後ろからママが言う。

でも、ナルミはそれどころでは無かった。おかしな汗が止まらなかった。


(そうよ、私はマンションから落ちた…!

確かに落ちたわ!植え込みに背中から落ちた!

意識を失う前に、救急車の中で隊員に、子猫を手渡した!)

あの、小さくてゴツゴツとしていて、けれど確かに命の温かみがある感触! 覚えている!


しかし、今ナルミの目の前に広がっているのは、豊かな緑となだらかな芝生の斜面だった。

ベランダだってウッドデッキだった。手すりも金属製だったはずなのに、今は木製になっている。

マンションの前のコンクリートの道やツツジの植え込みも、無い。

そう、無いのだ。あるはずの建物も公園も人の気配も、何もかも。

つまり、ここは、マンションの3階ではなかった。

まるで映画に出てくる別荘のような、静かなコテージだった。

周りは森だった。


ナルミは後ずさった。

(待って。私がおかしいの?この記憶は嘘なの…?)


「ナルミ…?ねえ、体が冷えるわ。」

ママがそっと後ろから抱きしめてくれた。

「冷蔵庫から飲み物をとっていらっしゃいよ。ナルミの好きなジャスミンティーもあるわ。」

「う、うん…。」

リビングには、出来たてのホットケーキが湯気を立ててお皿に乗っていた。

ナルミ、ママ、アキラの3人分のお皿。

(誰かがいない…!)

ナルミは強い思いに駆られ、冷蔵庫に急いだ。決定的な証拠が欲しかった。


冷蔵庫を開けると、ラップをかけられたチーズケーキが1切れ。同じように、ラップをかけられたお好み焼きが1枚。なぜか、目についた。

いや、目が離せなかった。


(…ルイ!!)

ケーキは、妹のルイが作ったものだ。


そうだ。あの日。あの子猫を助けた日。

ルイは朝からチーズケーキを作ってくれたのだった。

「あとで食べる!嬉しい!」

と言ったのに、食べられないまま、ナルミはマンションから転落した。

目が覚めると、この家にいた。

いや、この『世界』にいた。


ここは、元いた世界と限りなく似ている世界。

なのに、微妙に全部がずれて、異なっている世界。

ルイがいない世界…。


震える手で、今度はお好み焼きのラップを外す。

ベタッと塗られていたソースに、はがれたラップが模様を作った。


『where?』

ーどこ?


直感的に、「ルイだ!」と思った。

今きっと、向こうの世界で書いているに違いない。そうだとしか思えない。

爪楊枝のようなものでソースを引っ掻いているのか。

細い線が、お好み焼きの上に出来ていく。ナルミの見ている目の前で、茶色のソースに文字が書かれていく…!


『comeback』

ー帰ってきて


「…!!」

やっぱり、ここは私の生きてきた『世界』じゃない。

ここは、もうひとつの世界なんだ。


思い出した。

このフリルのついたスリッパは、元の世界でルイが履いていたものだ。

メープルシロップはルイの大好物だ。使わないでね、お姉ちゃんはハチミツねといつも言われていたのだ。

ライブはルイと行ったのだ。キーホルダーだけじゃなくて、お揃いでTシャツも買った。


ナルミはお好み焼きのお皿を、調理台に落とすように置いた。ガチャンとお皿が不愉快な音を立てた。

ママのところへ走ろうとしたか、足がガクガクして、よろめいた。


「ナルミ!先に食べちゃってるわよ!」

ママが笑顔でホットケーキを頬張っている。隣にアキラが座っている。

「ママ…。あの…。」

ヨロヨロとテーブルに近づく。


「ねえ、あなたが元気になったら、そろそろ私たち、入籍してもいい?」

(…え…?)

声が出なかった。

「もうお付き合いし始めて、私たち3年になるし。

実はね、赤ちゃんが出来たの。女の子だって!」

幸せそうにママが笑う。

ママの肩に、アキラが照れたように笑顔で手を置いた。


(アキラには、奥さんと子どもがいたはずじゃ…!? )


ママがアキラとの交際を絶対に認めなかったのは、年齢差以上に、そこだった。

ナルミとアキラは、社内不倫をズルズルと続けてしまっていた。

ナルミは泥沼の状況に落ち込んだ。そんな姉を励ますために、妹のルイはチーズケーキを作ってくれたのだ…。


そうだ。

全部、思い出した。


そしてまた、今目の前にいるアキラの左手の薬指に、指輪はなかった。


「高齢出産になるけど、ママ、頑張りたい!ナルミも応援してくれるでしょ?」

冷蔵庫を開けっ放しだったらしい。ピーピーと音が鳴り出した。


「赤ちゃんの名前は、『ルイ』にしようかなって、アキラさんと話し合ってるの!可愛いでしょう?」


ピーピーピーピー…。


このママは、私のママじゃない。

このアキラは、私の知ってるアキラじゃない。

この世界は、私の生きてきた世界ではない。


だが…


ここが本当に、もうひとつの世界なら、どうやったら元の世界に帰れるのだろうか。


冷蔵庫の呼出音が、遠くから私を手招きしているように感じられた。





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― 新着の感想 ―
[良い点] この不思議感。 ちょっと…怖い。 最後… 私だったら…一度冷蔵庫に入ってみます。 ドアしめてー( ´口`)
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