5 惨劇の夜
残酷なシーンが登場します。苦手な方は読まないで下さい。
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私は理性ををじわじわと侵食していく、凶暴な欲望を抑える事が出来そうになかった。
「さあ、皆様がお待ちかねですわ」
和恵は食堂のドアを開け振り向いたが、同時にその首からどす黒い血飛沫が、私の顔面に降り注いでいた。
手にしたカミソリから鮮血が滴り落ちていた。
「うっ、うう!」
和恵は声にならない声を吐き出しながら飛びかかって来た。
首筋から勢いよく鮮血を撒き散らしているにもかかわらず、二つの眼球は私の首に狙いを定め、和恵の両親指が私の喉にくい込んだ。
鋭く尖った爪が皮膚をかっ切り、喉仏が剥き出しになる。私は危うく意識を失いかけたが、夢中で振り回したカミソリが和恵の頭皮を切り裂き、動きが鈍くなってきた。
和恵は頭から流れ落ちた血液で顔を真っ赤にさせ、食いしばった歯の隙間からどす黒い血糊を吐き出し、私の首を絞めたまま、ようやく動きが止まった。
「くたばれ!」
そう吐き捨て、私は和恵の手を払いのけた。
胃液が逆流してきた。喉が燃えるように熱い。一体この渇きは何なのだろうか? 目に映るあらゆるものが私の神経を逆撫でする。
正体不明の怒りを必死に堪えながら、再び和恵に目を移す。彼女は首を絞める格好のまま、仰向けになって硬直していた。
「化け物め……」
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和恵は目を疑った。窓から這い出て来た化け物が、止めを刺そうとした夫に逆襲を食らわせたのだ。
その化け物は豹変していた。虚弱な顔は鳴りを潜め、残忍な緋色の瞳孔に薄ら笑いを浮かべ、髪の毛は有り余った力を鼓舞するように逆立っていた。
夫の治郎は首元をつかまれ身動きが取れず、反撃も出来ないまま胸を拳で貫かれ、短い呻き声を発したあと、驚愕の表情を浮かべたまま事切れた。
「お、お嬢様、お逃げ下さい! ご主人様たちに知らせてまいります!」
和恵は恐怖のあまり、逃げ出すのが精一杯だった。いざとなれば自分の身が一番かわいい。雇い主への愛情など、吹けば飛ぶようなものだった。
足元には、不自然な方向を向いた尚美が、涙を浮かべて死んでいた。
(ぼくが……僕が殺した?)
しばらくの間、目の前の光景を呆然と眺め、じっとしたまま動く事が出来なかった。
「う、嘘だ。嘘だ、嘘だ!」
僕はあまりの恐怖に目が眩み、その場にしゃがみ込んでしまった。今倒れてしまえば楽だろう。でも……。
(だめだ。しっかりしなきゃ)
僕は奥歯に力を入れた。頭の奧で何かが弾け、口の中に鉄の味が広がっていく。
(僕じゃない。こんな残酷な事、僕に出来るわけが無い!)
朦朧としながら、必死に目眩を振り払った。
(早く逃げないと殺される!)
震えが止まらない。僕はきつく腕を組み、必死に体の震えを止めようとした。痺れる足を無理やり動かし、滅入りそうな自分を叱咤した。
尚美の部屋を出て周囲を見渡した。階下から恐ろしいほどの殺気を感じた。
今、階段を下りてはいけない。危険な臭いを敏感に感じ取っていた。
(外に出るか、どこかに隠れないと)
目につくドアを手当たり次第に回していくが、いずれも開かない。
ドアが、何か見えない力で塞がれているような感じがした。
鼓動が速度を上げ、息が苦しくなっていく。
僕は踊り場に置かれていた観賞用の壺を抱えて、採光用の窓ガラスに投げつけた。
大きな音を立ててガラスが割れ、固くて重い壺は緩やかなカーブを描く臙脂色の屋根を転がり落ちていった。
窓の外に出ると、空は暗闇の中に薄曇りの靄がかかっていて、霞んだ月明かりが僅かに屋根を照らしていた。僕は湿った屋根でズック・シューズが滑らないように注意しながら、ゆっくりと屋根を這い、雨樋へ進んで行く。竪樋のパイプを伝って降りて行けば、庭園から逃げる事が出来るはず。
集水器に差し掛かり、気を抜いた瞬間、背後の屋根を突き破り、そこから鬼の形相をした化け物が顔を出した。
「よくも! よくも愛娘に手を掛けたな」
猛烈な殺気の正体が間近に迫っていた。
僕の視界が再び緋色に染まる。
急速に意識が遠のいていき、何かに憑依されたような感覚だった。意識はまるで他人事のように通り過ぎていく。
目の前には、首の無い男が仰向けに倒れていた。僕の周りの屋根瓦が何枚か剝がれていて、男の胸や肩や腹に刺さっていた。
少し離れた所には瓦と一緒に千切れた左腕が転がっていた。血糊の跡が軒先まで続いていて、目を移すと、転げ落ちた生首が庭園の外灯に照らされていた。
殺気が去り、落ち着きを取り戻した僕は、再び採光用の窓から階段の踊り場へ戻った。
僕は自分の体が変化している事に、薄々気づき始めていた。危機が迫ると視界が緋色に染まり、意識が遠のく。操り人形のように自動的に防御本能が働いて、目の前の敵を迎撃するのだ。
軽い気持ちで館の探検をしたのが、そもそもの間違いだった。触れてはいけないものに触れてしまった。そして、最も大切な物を見つけた途端に、自らそれを手放してしまった。二度と手に入らない所へ……。
開け放たれた尚美のドアの前で呆然と立ち竦む僕の背後に、再び鳥肌が立つような殺気が迫っていた。吸い込まれるような漆黒のドレスを纏った妙齢の婦人と、手に大きな鎌を持った家政婦らしき老婆が、音も立てずに階段を上って来る。
婦人は殺意を剝き出しにし、背筋が凍りつくような眼差しで、僕から目を離さなかった。
「大切な娘に手を掛け、主人までも。許さない! お前を許すわけにはいかない!」
殺意に支配された二匹の化け物が、ジリジリとにじり寄って来た。僕は廊下の突き当りの壁に追い詰められ、逃げ場を失った。
婦人は僕に向けて掌をかざし、不思議な力で圧力を掛けていた。もがいて必死に抵抗するが、金縛りに遭ったように体が言う事を聞かない。
「和恵、私が抑えておくから止めを刺しなさい」
婦人が大きく目を開き、白い牙を出して微笑した。老婆は薄ら笑いを浮かべ、大きな鎌を振り被った。
目の前が緋色に染まり、血潮が騒いだ。僕は驚くような素早さで、老婆から大鎌を奪い取り、背後からその首を刎ねた。切り口から鮮血が噴水のように勢いよく飛び出し、支えを失った頭はゴトリという鈍い音を立てて羅紗の上に転がった。
婦人は目の前の出来事に理解が追いつかず、唖然としていた。
「なっ、なっ」
婦人が言葉を発する間も無く、振り被った大鎌が婦人の頭に、根元まで突き刺さっていた。
廊下の壁には和恵の弾け飛んだ血がベットリとこびり付いていた。僕は大鎌を床に落とし、まるで他人事のように死体を見つめた。
僕の中で何かが壊れてしまったようだ。気味の悪い化け物の死体を見ても、何も感じなかった。むしろ、害虫を駆除した時の安堵感のような感覚が勝っていた。
▽
私は女性の長い髪を優しく撫で、ぼうっとした感覚のまま呟いた。
「君は……尚美? ……なのか?」
女性は一瞬びくりとしたが、やがて唇を離し、俯き加減で言った。
「そう、わたしは尚美よ。あなたに復讐するために蘇って来たの」
「復讐するため……か」
「そうよ」
尚美は私をまっすぐに見据え言った。
「なぜ……じゃあ、なぜ助けた?」
「簡単に死んでもらっては困るの。あなたには私たち家族と同じ目、いえ、それ以上の苦痛を味わってもらうわ」
尚美は私の額を、土で汚れた靴の踵で踏みにじった。このか細い足から、どうしてこんな力が出るのか。砂利にめり込んだ後頭部が私の頭蓋骨を痛めつけた。
「ぐっ!」
私は思わず呻き声をあげた。
(く! ……化け物め)
私は複雑な思いで尚美を見上げた。この女も、所詮は化け物の嫡子なのだ。十年間抱いていた私の熱い思いは脆くも崩れ去った。妄想が妄想を膨らませ、いつの間にか化け物が女神に見えるようになっていた。
私は自分の愚かさを恥じた。そしてその感情は、徐々に化け物に対する怒りへと変化し、尚美をズタズタに引き裂きたいという欲望が渦巻いた。
私は尚美に不意打ちを食らわそうと飛びかかったが、尚美は慌てる素振りも見せず、淡々とした口調で言った。
「暴れても無駄よ。どんなに野蛮な化け物でも、鍵が無かったら、その手錠は外せない」
「ぐぐぐぐぐぐぐぐぐ!」
手錠は、両手両足をしっかりと拘束していた。極度の疲労で今まで気づかなかった。
両手は後ろ手に拘束されていて、手錠を外そうとすると、両手首は勿論だが、両肩にも激痛が走った。
「崖から飛び降りた時に、あなたの人生はすべて終わった。死ねなかったのが運の尽きね。これから始まる地獄の苦しみを思い知るがいいわ。あなたは私の玩具になるのよ。思う存分に可愛がってあげるわ!」
尚美は瞳に涙を浮かべて言った。私に対する憐れみだろうか。いや、この復讐の鬼と化した化け物に、そんな人間的な感情が残っているとは思えない。恐らく、私が蹴散らした化け物たちの死に顔でも思い浮かべているのだろう。
『そんな事はどうでもいい!』
私の中で何かが叫んだ。
『この女を引き裂けば、オマエはこの逃げ場のない悪夢から解放されるんだ!』




