4 覚醒
残酷なシーンが登場します。苦手な方は読まないで下さい。
●
カタン……
ドアの方から微かな物音がした。ビクリとして振り返ると、ドアの前に、私の思いもよらない人物が立っていた。私の背筋に驚愕と戦慄の電撃が走った。
「おっ、おまえは!」
扉の前に立っていたのは、家政婦の和恵だった。
「ど、どうして……」
頭の中で、あの惨劇の記憶が黒い渦を巻いて蘇った。
▲
使用人たちは僕の存在に気づいているのか、不気味な足音は何の躊躇いも無く尚美の部屋へと向かっていた。その不揃いなリズムは異様な静寂も手伝ってか、僕の耳には大音響となって響き渡った。
「こここ怖い。たたた助けて」
そう言いつつも、なぜか僕は夢見心地だった。
尚美の体温が僕を優しく包み込み、恐怖心を和らげてくれたのだ。
「間違いない……尚美様の部屋から獲物の声が聞こえる」
ドアの向こうから嗄れた声が聞こえた。
気がつくと、僕は冷たいざらざらした床に仰向けに横たわっていた。
辺りは真っ暗で、頭の先にある細かい穴から僅かな光が差し込んでいるだけだった。何も見えなかった。
あまりの寒さで、すぐにはわからなかったけど、監禁されている事は確かだった。
目が慣れてくるにつれ、置かれている状況が恐ろしく残酷なものだという事がわかった。
僕は、立ち上がる事も座る事も出来ない筒状の収納庫? に寝かされ、閉じ込められていた。
首を傾けると、頭の先には空気孔が空いた扉があった。手を伸ばして押してみたが、もちろん開かなかった。
筒の中は、寝返りを出来るか出来ないかの広さだった。置かれた状況に、恐怖で声が出なかった。
ただ、かすれた息の音が虚しく響くだけだった。
それからどれくらいの時間が経ったのだろう。五時間か。二日か。それともまだ三十分も経っていないのかも知れない。とっくに時間の感覚が無かった。
暗闇しか無い圧迫された狭い空間に閉じ込められて、落ち着いていられるほど僕は強くなかった。
泣き疲れて、涙が出なかった。喉はカラカラで、もう死んでもいいと思った。誰かすぐにでも僕を殺してほしい……。
僕は絶望しながら、何度目かの眠りに落ちていった。
「しかし獲物の方からやって来るとは、前代未聞の出来事だな」
主人の苅部が薄気味悪い笑みを浮かべて言った。
「いつもの熟成庫に閉じ込めておりますが、どう料理いたしましょう?」
使用人の鍋島が、悪代官に胡麻を擂る越後屋のような顔つきをして言った。
「尚美を手込めにしようとしたんですから、簡単に殺してしまっては怒りが収まりませんわ」
美紀が白い牙を剥き出しにして言った。
「わたし……わたし、あの子の血を吸ったの。だからあの子も仲間よ、あの子を殺さないで」
尚美はそう言ったが、彼女自身、あの醜い少年を助けようとしている事が不思議でならなかった。
目を覚ますと、僕は柔らかいベッドの上に横たわっていた。薔薇のような甘く清潔な香りがする。陽は既に落ちていた。
「気がついたのね……」
心配そうな顔をした尚美が、優しく私の髪を撫でて言った。暖かい手だった。
「僕は……」
再び目を覚ました時には、我が目を疑った。ここは尚美の部屋だ。僕は尚美のベッドに横たわっていたのだ。
僕が話そうとすると、彼女は僕の口を優しく押さえて首を振るのだった。
「わたし、耳がきこえないの」
既視感を感じた。確かに尚美は耳が聞こえるはずだ。彼女の意図が読めなかったが、とりあえず僕は筆談のジェスチュアをした。彼女は心得ていたらしく、スカートのポケットからメモ帳を取り出した。
監禁されていた疲労が残っていたが、何とか鉛筆を握って、文字を書く事が出来た。
僕はどうしてここにいるの?
「扉の前で気絶していたのよ。わたしを空き巣と間違えて、びっくりしたのね」
尚美は引きつった笑いを浮かべて言った。
どういう事だろう? 尚美の部屋の前で最初に気絶した時と、状況がそっくり再現されているようだった。すると今までにあった事は、一切夢の中の出来事だったのか。
君は耳が聞こえるはず。どうして嘘をつくの?
「何の事? わたしは生まれつき耳が聞こえないのよ!」
僕は尚美の表情から、何か不自然なものを感じ取った。
嘘は言わないで。本当に聞こえないなら、大声で叫んでもいい?
僕が思い切って叫ぼうとすると、彼女は慌てて僕の口を押さえた。
「バカね。そんな事したら、今度こそ本当に殺されるわよ」
尚美はため息をついた。唇の辺りが小刻みに震え、怒りとも憐れみとも取れる複雑な表情を浮かべた。
「どうやら無駄だったようね。今までの出来事を帳消しにして、安心して帰ってもらおうと思っていたのに」
「僕は、一体……」
「そうね、やっぱり死んでもらうしかないみたい」
尚美は冷ややかな眼差しで言った。
階下では、使用人の鍋島治郎と和恵が不気味な笑みを浮かべ、談笑していた。
「やはりね。お嬢様の人の良さにも困ったものだわ」
和恵は天井を見上げて呟いた。
「フッフフ、ついにこの館の秘密を知る時が来たようね」
「思う存分に楽しんで頂こう」
鍋島は口角を上げ、嗄れた声を漏らした。皺くちゃの喉仏がドクンと動いた。
「どうして?」
僕は尚美のあまりの豹変ぶりに、驚くと同時に失望していた。
「鬱陶しいのよ。せっかく私が見逃してあげようとしたのに!」
尚美は怒りで顔を歪ませた。
「バカは死ななきゃ治らないって、本当ね。それに、そんな醜い顔だもの。生きてたって辛いだけ、死んだ方が楽よ」
「ふざけるな!」
僕は怒りに任せて、尚美の体にぶつかった。
どこにこんな力が残っていたのだろうか。尚美は予想以上に跳ね飛び、勢いよくドアにぶつかった。
「う……うう……しゃべったらダメ。声を出したら……気づかれ……る……わ」
尚美は低く呻き声をあげ、ぐったりと頭を落とした。
「お嬢様! どうされました? お嬢様!」
ドン、ドン、ドンと忙しなくドアが叩かれ、身の毛もよだつダミ声が聞こえた。
あれはまさしく殺人鬼の声に違いない。
運よくドアは、気絶した尚美の重みで塞がっている。
今のうちに、あの窓から抜け出さないと!
その窓は予想以上に小さく、しかもはめ殺しだった。僕は無我夢中でガラスを叩き割り、体を捻じるようにして外に出た。
ガラスの破片が二の腕に突き刺さっていたが、痛みなど感じている余裕はなかった。
ただ、この時ばかりは自分のモヤシのような体に感謝していた。
外壁は雨露に濡れ、滑らかな曲線を描いていたので、窓の窪みに両手でしがみつくのがやっとだった。少しでも足を動かすと、バランスを崩してしまいそうだった。腕の力が続く限り、じっとしているしかなかった。
「お嬢様! 大丈夫でございますか」
「う……うう……あの子は……どこ?」
「あそこだ! 窓を割って外に出やがった」
殺人鬼の足音が窓に向け、慌ただしく迫って来た。
「お嬢様をこんな目にあわせて、覚悟は出来ているだろうな!」
●
「おっ、おまえは!」
扉の前に立っていたのは、使用人の和恵だった。
「ど、どうして……」
頭の中で、あの惨劇の記憶が黒い渦を巻いて蘇った。
「お久しぶりです。十年たっても私の事は、お忘れではないでしょう。私もあの時のあなた様のご勇姿を忘れる事ができませんわ」
和恵は私から視線を逸らさずに淡々と言葉を発した。無表情を装ってはいるが、深く刻まれた皺が微妙に痙攣し、必死に怒りを押し殺しているのは明らかだった。
「……まさか、みんな生きているのか?」
私は混乱したが、反射的に目は化け物に一撃を食らわすための武器を探していた。
「どうぞこちらへ。皆様、あなた様のお越しを心からお待ちしておりました」
和恵は私を招くような素振りで部屋を出た。私は気づかれないように、尚美の鏡台にあったカミソリをポケットの中に入れた。
私は少し離れて和恵の後を追った。ひと思いにこのカミソリで、和恵のうなじをかっ切ってやろうかという衝動が、何度も頭をかすめたが、必死に思いとどまった。
信じられない事だが、この化け物はちゃんと私の前を歩いている。
十年前に、完全に始末したはずなのに、どうして……。
和恵は振り向きもせず、悠然と階段を降りて行った。私を信用しているのか。それとも、私がいつ襲っても反撃できるという自信があるのか。
和恵は終始無言だった。問いたい事は山ほどあるのだが、この化け物の進む先には例えようも無い殺気が漂っていた。私はただ用心してついて行くほか無かったのである。
外は陽が傾きかけていた。これからここで一体何が始まるのだろうか。
十年間の時を経て、再びあの悪夢を繰り返す事になるのだろうか。
私は理性ををじわじわと侵食していく、凶暴な欲望を抑える事が出来そうになかった。
「さあ、皆様がお待ちかねですわ」
和恵は食堂のドアを開け振り向いたが、同時にその首からどす黒い血飛沫が、私の顔面に降り注いでいた。
▲
「あそこだ! 窓を割って外に出やがった」
殺人鬼の足音が窓に向け、慌ただしく迫って来た。
「お嬢様をこんな目にあわせて、覚悟は出来ているだろうな!」
外は凍えるような寒さだった。
「もうだめだ……」
頭上から、獣の臭いがした。死にものぐるいで目線を移すと、心臓が飛び出るほど気持ちの悪い顔がそこにあった。
「こ、こ、殺してやる!」
これが本当に人間の顔なのか。僕は怒り狂った化け物を目の当たりにし息が詰まった。
化け物は、両目が飛び出すほどに目を見開き、臭い息を浴びせた。
「殺さないで……」
悲痛な声で頼んだ。化け物は興奮しているのか、僕をじっと睨んだまま、ブルブルと震え出した。
次の瞬間、僕の目の前が緋色に染まった。意識は遠のき、操り人形のような感覚で体が動いていた。
誰かが呻き、叫び続ける声が聞こえた。
●
今思えば、それが悪夢の始まりだったのかも知れない。気がついた時には、尚美の部屋に戻っていた。
窓際には、上半身に穴が空いた老人がいて、驚愕の表情を浮かべたまま事切れていた。
足元には、不自然な方向を向いた尚美が、涙を浮かべて死んでいた。




