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緋色の香り  作者: シッポキャット


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2/6

2 少女

    ●

 二〇一三年。つまり今から十年ほど前の話だ。私は小学校六年生で、卒業式を間近に(ひか)えた大人(おとな)しく目立たない少年だった。

内向的な私は、気軽に話せる友達も無く、異性は私の事を腫れ物にでも触るような感じで毛嫌いしていた。


 理由はやはり容姿の悪さだろうか。モヤシのようにガリガリの体。背は低く、顔は逆三角形でソバカス、ニキビの巣窟(そうくつ)奧目(おくめ)で嫌らしく細い眉。(いびつ)な形の鼻。

めくれ上がった上唇。数え上げると切りが無いが、そのどれもが異性同性を問わず、(みにく)(うと)ましく映ったに違いない。

 そういう事が積み重なり、私はより一層自分の(から)()(こも)るようになっていった。


 そんな傷ついた心を少しでも(いや)してくれたのは、やはり【ふわふわ館】だった。

目の前にそびえ立つ三人の裸婦たちは、私の青い欲求を解消させ、毛嫌い無く私を包み込んでくれたのだ。


    ▲

 この館に別れを告げなければならないとは、神様も人が悪い。いや、嫌いな家族や学校の(ヤツ)らと離れられる事を考えれば、仕方がない事か。

そう、僕はあと一月で大阪に行く。坂下(さかした)光一改め、石生(いそう)光一として生まれ変わるのだ。

 僕は大阪へ行く日を(エックス)デイと銘打(めいう)って、その日までに【ふわふわ館】に侵入し、残り少ない三坂村(みさかそん)での生活を有意義(ゆういぎ)なものにしようと考えた。


 三月二日。その日はいつもの肌寒さはどこかへ行って、雨が降ったり()んだりの、じっとりと生温かい気候だった。べつに今日行こうと決めていた訳ではなかった。

 ただ、姉の飲みかけのお茶を間違って飲んだ事が、そもそもの発端だった。


腹を立てた姉は、過去にも僕が湯呑みを舐めるところを見たなどと、あらぬ疑いをかけ、あげくの果てには家族全員から変態扱いにされ、早くこの家から出て行けと、家を追い出されてしまったのだ。

 僕は目眩(めまい)に似たものを感じ、助けを求めるように、足は自然と【ふわふわ館】の方へ向かっていた。


 ようやく衣坂(ころもざか)を上りきると、霧雨がかかった三人の裸婦たちは、風呂上がりのような(あで)やかさで僕を迎えてくれた。

しかしそれでもなお、頭の中のモヤモヤは消えなかった。


「ふわふわ館よ、僕を(なぐさ)めてくれ」

僕は力なく(つぶや)いた。その時思った。今日入らねば。今日入らねば、僕は壊れてしまうかも知れない。

ふわふわ館は僕に『おいで。いらっしゃい』と言った。ように感じた。

僕は見えない糸に引かれるような思いで、館の門をくぐったのである。


 門をくぐってすぐ目についたのは、館にしがみつくように生えている松の大木だった。

少しばかり下品な人間なら、この松の木を男性に見立て、良からぬ事を考えるだろう。

 僕は自分を(たな)に上げ、いじめっ子の顔を思い浮かべて、あいつなら考えそうだな、などと思うのだった。

 そして僕はまた、その美しい庭園にしばらく心を奪われてしまった。

手抜かりなく切り揃えられた瑞々(みずみず)しい芝生(しばふ)は、踏むのが躊躇(ためら)われるほどに柔らかく、そして恐ろしいほどに青かった。


 ……誰かに(のぞ)かれている。僕はむず(がゆ)くなるような視線を感じた。

きょろきょろと目をばたつかせ、何度も何度も回転し辺りを目が回るほどに見渡したが、一向(いっこう)に傍観者は見つからなかった。

 しだいに僕のノミのような心臓は縮み上がっていった。ぐるぐる回ったのが(たた)ったのか、気持ちが悪くなって、ほんのりと湿った芝生の上に倒れた。芝生は優しく僕を受け止め、後頭部の衝撃を吸収してくれた。


 少し安心して、ゆっくりと目を開けると、眼下には館の数少ない小窓が見えた。

よく見ると黒いカーテンが心なしか開かれ、中から小さな目が覗いていた。

その目は僕の視線に気づくと、すぐにそこからいなくなった。僕は覗き見していた者の存在を発見でき、ほっとした。

しかし館の住人に僕の存在を気づかれたのだ。新たな不安がまたもや心臓を圧迫した。


 (まぎ)れもなく僕は不法侵入者だった。幼い僕でもそれくらいは分かる。

しかし、このまま逃げ帰ってしまうのは、あまりにも惜しい。ここまで来たからには、ぜひ館の中にも入りたかった。

 そこで僕は道に迷った少年を装い、疲れた振りをして、館内で御休憩(ごきゅうけい)にあずかろうと考えた。

 恐る恐る玄関に行くと、頭上に洋風建築には似つかわしくない大きな鬼瓦(おにがわら)が見えた。

それはこの世の者とは思えぬ、鬼とも悪魔とも言いがたい身の毛もよだつような恐ろしい顔だった。


 入り口にインターホンは見当たらなかった。しかし、これまたグロテスクな獣の顔をしたドアノッカーがあったので、何とか心を落ち着かせてから、それを叩いた。


 しばらくの間、相手が出て来るのを待っていたが、一向に返事がない。

この館に人がいるのは間違いないのだ。少なくともさっきの傍観者がいるはずだった。

 僕は(いら)つきながらも、飽きる事なくドアノックを叩き続けた。

しかしそれでも応答はなかった。


(ひょっとするとさっきの奴は、空き巣かもしれないぞ)

しびれを切らしていた僕は、きっとそうだと自分を納得させ、ドアノブに手を回した。

驚いた事に、ドアノブは抵抗なく回転し、難無くドアが開いた。

僕は空き巣を捕まえに来た善意の第三者なのだと励まし、館の中へ侵入した。


 綺麗に磨かれた格子模様の床にズック・シューズが引っ掛かり、キュッと音を立てた。

僕は息を飲んだ。館内は外観とは打って変わって、黒を基調とした室内装飾が(ほどこ)されていて、何とも崇高(すうこう)な、足を踏み入れてはいけないような厳粛(げんしゅく)さを感じずにはいられなかった。


「誰かいませんか?」

周囲に気を配りながら、恐る恐る言葉を発した。やはり返答はない。

 玄関を進むと、まず目の前にリビングがあった。中央にはレンガ造りの暖炉があり、火は(とも)っていなかった。しんと静まりかえった十畳ほどのこの部屋には、長年人が住んでいるような匂いは感じられなかった。


 向かって右手に扉のない入り口があって、そこからいかにも大邸宅にありそうな曲がりくねった大きな階段が覗いていた。僕は今まで以上に神経を張り巡らせ、注意深く足を進めた。


 階段を通り越して廊下を進んで行くと、まだ部屋は幾つかあったのだけど、例の傍観者をどうにかしないと落ち着いて探検も出来ない。僕は恐る恐る階段を上って行った。


 一段一段、息を殺して上った。今度はタイルの床と違って、チカチカするような真紅の羅紗(らしゃ)が敷いてあったので、ズックの耳障りな音が鳴る心配はなかった。

階段を上りきると、正面は突き当たりで、左右二手に廊下が分かれていた。


 僕は一瞬戸惑ったが、芝生のあった場所から位置関係を辿(たど)ってみると、傍観者がいたのは右側の部屋に間違いなかった。

しかし、そこには部屋が三つあった。一体どの部屋なのだろうか。しばらく迷ってから、それぞれの扉に大きな鍵穴があるのを見つけた。音を立てないよう細心の注意を払いながら忍び足で歩き、まず最初に一番奥の扉の鍵穴を覗いた。


 真っ暗で、何も見えなかった。ここは違う。窓があれば、カーテンを閉めていても、少しは光が入るはずだ。

 次に、真ん中の部屋を覗いてみた。電灯はついていなかったが、真っ暗というわけではなかった。どこからか光が差していて、部屋全体が薄暗い色に染まっていたのだ。


(ここだ。ここに違いない)

鍵穴の視界が許す限り、その部屋を探った。

 ふっくらとした柔らかそうなベッド。あさっての方向を凝視する馬鹿でかいフランス人形。視界ギリギリの右手には大きな鏡台があった。

 そういえばこの部屋から、心なしか甘い匂いがする。きっと女性の部屋だ。さっきの傍観者はひょっとして変質者なのではないかと考えを改めた。


(変態め。どこに隠れているんだ)

眼球を充血するほど動かした。

すると突然、鏡台に人影が映った。


「あっ……」

慌てて口を(おお)った。世にも美しい、いや愛らしいと言った方が妥当だろうか。

僕よりも少しばかり年上の少女が、鏡に映ったのだ。

 肩のあたりで切り揃えた(つや)のある黒髪。知的な細くはっきりとした眉。リスのように大きくつぶらな瞳。美しい陰影を形作っている鼻。吸い込まれるような紅い唇。そのどれもが僕の今まで持っていた女性観を(くつがえ)したのだ。


「だれ?」

少女は僕の気配に気づいたのか、振り返って僕の方を向いた。逃げようとしたが、体が言うことを聞かなかった。心臓が忙しく暴れだし、頭が混乱した。目の前が真っ白になって、意識が遠のいて行った。


 気がつくと、柔らかいベッドの上に横たわっていた。薔薇(ばら)のような甘く清潔な香りがする。

小窓からは暮れかかった(わず)かな夕陽の光が差し込んでいた。

「気がついたのね……」

心配そうな顔をした美しい少女が、優しく僕の髪を撫でて言った。

「僕は……」

僕が話そうとすると、彼女は僕の口を優しく押さえて首を振った。

「わたし、耳がきこえないの」


 どうやら気絶していたのは数分間だったようだ。例の傍観者は彼女だった。彼女はすでに小窓から僕を見ていたので、扉の前に倒れていた僕を見ても、さほど驚かなかった。

彼女は親切にも僕を自室に引き入れ、看病してくれたのだ。


「あなた、しょっちゅうわたしの家を(なが)めているでしょ?」

 僕が(うなず)くと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。

「今日はいつもと違ってとても悲しそうだったから、心配していたのよ」

 彼女がずっと以前から僕の事を知っていたという事実に驚いた。


 手ぶりでものを書く仕草をすると、彼女は素早くメモ帳と鉛筆を差し出した。筆談が習慣になっているのだろうか。


 助けてくれて、ありがとう。窓から僕を見てたのは、君?


「……ええ。わたしよ」

彼女は僕のメモを見て、恥ずかしそうに笑った。


 ドアを何度もノックしたけど、返事がなかったよ


「当たり前よ。耳がきこえないんだから」


 君を空き巣と勘違いして、取っ捕まえてやろうと家の中に入ったんだ。

 でも、勝手に入ってごめんなさい。


「それって、家宅侵入罪よね」

彼女は、くすっと笑った。唇の端から僅かに八重歯が顔を覗かせた。少し特徴のある形だったが、彼女の容貌をひき立たせるものに間違いはなかった。


 僕は初対面の彼女に、正直に自分自身を語る事が出来た。

学校での事、家庭での事。あと数日で養子に行く事……。彼女は嫌な顔一つせず、熱心に僕の書いたメモを読んでくれた。


    ▽

「たすけてあげる……」

誰かが私の耳に、ぴたりと唇をつけて(ささや)いた。甘い口臭と気高(けだか)い香りが、私の嗅覚をくすぐった。大人の女性だ。雨に濡れた唇は(なま)めかしく(うるお)っていて、吐息(といき)()らすごとに私の耳は敏感に感じていた。


「君は……?」

彼女は私の問いには答えず、ゆっくりと唇を重ねた。僅かに鉄の味がする唾液が私の舌に絡まった。

うっすらと目を開けてみたが、近づき過ぎて彼女の顔は分からない。

 彼女は名残惜しそうに唇を離すと、おもむろに手首を差し出した。


「さあ、飲んで……」

私は彼女の勧めるがまま、その柔らかく熱い手首に唇をあてた。


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