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1 ふわふわ館

    ▽

 私は死のうとしていたのかも知れない。

『雨が、頬に、唇に……けれど心地いい、あかくあまいかおり……』


    ●

 二〇二三年一月十九日、午後二時三十五分、山口県猫毛郡三坂村。

三坂村(みさかそん)はいつになく晴れわたっていた。村の名の由来である三つの坂は、生い茂った銀杏(いちょう)(もみ)の木の木漏(こも)れ日に照らされ、私につかの間の安らぎを与えてくれるようだ。


 三つの坂にはそれぞれ名前が付いていて、山の(ふもと)から順に「恵坂(めぐみざか)」「露坂(つゆさか)」「衣坂(ころもざか)」という。

 この村も、昔は盛大な祭りや行事が行われ、老若男女(ろうにゃくなんにょ)が上へ下への大賑わぎだったのだが、近頃は目まぐるしく過疎化が進んだのか、何処(どこ)彼処(かしこ)もすっかりと(さび)れきっていた。


 私はポケットからタバコを取り出した。

くしゃくしゃになった箱の中を見ると、三本ほど折れていて、中の葉っぱが鉛筆の(けず)(かす)のように散らばっていた。

「ふふふ。なんだか懐かしいな」

私は独り言を言って、意味もなく笑った。


 衣坂(ころもざか)……この坂を上ると、すぐにあの奇妙奇天烈(きみょうきてれつ)(やかた)が見えるはずだ。

私は(かつ)てその館を【ふわふわ(かん)】と呼んでいた。

 私の名前は石生光一(いそうこういち)。年齢は二十二歳。幼いころ養子に出され、この村に帰って来たのは十年ぶりだった。


 ふわふわ館か……。私はしみじみとその館を見つめた。ああ、ここは少しも変わっていない。

 象牙色(ぞうげいろ)(にぶ)く光る壁……まるで(けが)れの無い少女の柔肌(やわはだ)のような。建物全体が女性的な丸みを()びていて、想像力を広げると、三人の娘が()(どもえ)になって抱き合っているようにも見える。


 それぞれの髪に相当する部分には、うまい具合に(つた)(から)まり、その姿をより妖艶(ようえん)に演出していた。そこから垂れる雨露が(たと)えようも無く官能的で、私の心を嫌が応にも熱く揺さぶるのだ。

 かく言うこれが【ふわふわ館】なる愛称を、私に名付けさせた由来だった。


 私は躊躇(ためら)いながらも、その館に近づいて行った。沸き立つ鼓動とは裏腹(うらはら)に、(あた)りはしんと静まり返っている。住居が寄り集まる集落は露坂(つゆさか)の辺り。

つまり村を構成している山の中腹(ちゅうふく)に位置しているので、苦労してここまで上ってくる物好きは私くらいの者なのかも知れない。人気(ひとけ)が無いのは当たり前、という訳である。


 土塀の内部は私の予想に反し、随分と変わり果てていた。腐りかけの門柱。館にしがみつくように生えていた松の大木は、雷にでも撃たれたのか、昔の姿は見る影もない。

 何人(なんぴと)をも館に寄せつけまいと見下ろしていた鬼瓦(おにがわら)も、今の私には頼り無く映るばかりだった。あの頃は美しく立派だった庭園も、雑草が一面に生え、所々土が(えぐ)れていた。


 しかし館の影は、私を包み込むように落ちていた。

この館は十年もの間、私の帰りを待っていたに違いない。


 庭園の見すぼらしさから考えてみると、ずっと以前から空き家である事に間違いはなさそうだった。

 私は意を決して玄関のドアを開けた。

その瞬間に、例えようも無い寒気が背中を襲った。体中から汗が吹き出していた。膝は恐怖のために痛みを感じるほど震えていた。


「だれか、誰かいるのか?」

 室内は庭園とは打って変わって手入れが行き届いていて、今にも人が出て来そうな雰囲気である。一体、これはどういう事なのだろう。まさか……。


 十年前。坂下光一(さかしたこういち)は、三日に一度はこの【ふわふわ館】にやって来て、何時間もの間、時には冷静に、時には惚れぼれとその外観を見つめていた。

 自宅のある集落からこの場所に来るのは、たとえ大人であっても一苦労(ひとくろう)である。

それでもなお、彼の足を運ばせた理由は何だったのか。

 村の大人たちは、この【ふわふわ館】について多くを語ろうとはしなかった。

ただ、嫌らしい。不気味だ。子供は近づくな。などと言うばかりだった。


 ある日、坂下光一は大阪の石生(いそう)家へ養子に出される事になった。

日頃から両親や二人の姉とも仲が悪く、四六時中(しろくじちゅう)外に出て遊んでいた彼にとって、その話は大いに彼を喜ばせたのだが、ただ一つ、あの【ふわふわ館】と離ればなれになる事が心残りだった。


(大阪へ行く前に、一度あの中に入ってみよう……)


 坂下光一はこの三坂村(みさかそん)を離れるにあたって、自分自身にケジメをつけるために【ふわふわ館*探検計画】を(くわだ)て、それを実行する事によって【ふわふわ館】との関係にピリオドをうつ予定だった。

 果たしてその計画は実行され、慌ただしく大阪へ旅立った彼だったが、その館で会った奇々怪々(ききかいかい)な住人たち、またそこで起こった戦慄(せんりつ)の事件が、彼の脳裏に深く焼き付いて離れなかった。


 石生光一は十年の歳月を経て、再びここへやって来たのである。


    ▽

 私は死のうとしていたのかも知れない。

『雨が、頬に、唇に……けれど心地いい、あかくあまいかおり……』


「たすけてあげる……」

誰かが私の耳に、ぴたりと唇をつけて(ささや)いた。

甘い口臭と気高(けだか)い香りが、嗅覚(きゅうかく)をくすぐった。

大人の女性だ。雨に濡れた唇は(なま)めかしく(うるお)っていて、吐息(といき)()らすごとに私の耳は敏感に感じていた。

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