第90話 戦闘の胎動
第90話
『それでね! 連絡先は手に入れたのに、一言目が出ないの。うみ、最初は何て送るのが正解? 最初の一文字って、山みたいに重いね』
その夜。食事を終えた美優は、制服のまま自室で宿題をしていた。
片耳では、自称・恋バナ探偵のりこからの恋相談。
微笑ましい――けれど、少し心配でもある。説教にならないよう、声はできるだけ柔らかくした。
「無理しなくていいわ。『今日はありがとう。おやすみ』で十分よ」
『ええ~。それじゃ進展しないよ~!』
「最初の一歩は、短い方が安全よ。
だって、まだその人のこと、ほとんど知らないんでしょう?」
美優は計算式を解くペンを置いた。
「それより、その人、大丈夫? けどまあ。連絡先はもう交換したんだし、仕方ないか。まず“見極め”を優先するしかないわよね」
『そーだけどー……』
「いい? りこ」
『はい』
りこは素直に返事をする。
「相手は大人でしょう。大人が女子高生に近づくのは、世間的には危ない。そこは分かるわね」
『……うん……でも、すごく紳士的だったの』
「分かってる。だからこそ、会ったばかりで心を開かないで。進むなら、時間をかけて“知り合い”からよ」
『そりゃ……そうだよね』
「りこの恋を応援したいのはやまやまだけど……今回ばっかりはねえ。年上好きだってのは知ってたけど、大人かあ。私ら、まだ高一だよ」
『そう……だよね……』
ちょっと落ち込んでるりこ。
その声を聞いて、美優もちょっと悪いかな、という気持ちが湧き始めていた。
仕方ないな、と美優は開き直った。
「次に会えたら、私にも見せて。二人で“検品”しましょ」
『ほんと!? 恋バナ探偵に副長が……!』
「副長になった覚えはないっ。……それに、私が副長なら厳しいよ?」
『だよね。こういうの、他の人にも見てもらった方がいい。特に美優は考え方が大人だし』
少し安堵する。
これで、舞い上がったりこの気持ちも、少しは冷めてくれるだろう。
そう思っていたところで、美優は、この話が他人事ではなかったことを突然、思い知らされることになる。
『あ。そうだ……あの人、美優のこと、最初から知ってたよ』
「……え?」
胸の奥が、ひやりと冷えた。
ひとまず、深呼吸をする。
父や母の知り合いだろうか。
いや、母からは芸能事務所の人たちを紹介されたぐらいで、母の友人らしい人とは会ってない。
父は友人が多い上に、国際魔術会議関連の知人も大勢いる。
じゃあ親戚……確かに、親戚は何世帯もこの水城市内に住んでいる。
それらのうちの誰か……
(でも私……親戚には、言っていない)
思い当たる顔を、片っ端から頭の中に並べる。
けれど、どれも決め手にならず、像がぼやける。
──あっ!
いや、知っている人が、一人だけいた。
──大熊英治。
国際魔術会議のエージェントだ。
ヴ。ヴ。ブ。ヴ。
考え事をしていた、そのタイミングだった。
LINESじゃない。通話の着信だ。
画面の表示は――
『大熊のおじさん』
「りこ、ごめん。ちょっと電話入っちゃった。続きは、また明日ね」
『え……、いいけど……。ねえ、うみ。もしかして怒ってる? 私、やっぱまずいことしちゃった?』
「大丈夫。怒ってない」
美優はいつもより極めて優しく語りかける。
「心配してるだけよ。安心して、ゆっくり休んで。……大好きだよ、りこ」
『……うん』
りこが落ち込んだ様子で通話を切った。
即座に、美優は電話へとスマホを切り替える。
そして大熊へと話しかけた。
「もしもし。大熊のおじさん?」
『よお、嬢ちゃん。悪いな。飯は済んだか?』
相変わらず陽気な声だ。
今すぐにでも問いただしたいはやる気持ちを抑える。
「うん。もう終わったわ。それより、どうしたの? いつもは家に突然押しかけてくるのに、珍しいじゃない」
『いやあな、ちょっと気になることがあってな』
大熊が後頭部をボリボリとかいている姿が思い浮かぶ。
この感じは“ちょっと”どころではなさそうだ。
『調べたいことがあるんだ。嬢ちゃん、今から出て来られるか?』
「今から?」
美優は時計を見る。
午後十一時を少し回ったところ。街は寝静まっている時間だ。
怪異のかかわる事件が多すぎて、市には緊急事態宣言も出されている。
にもかかわらず、大熊がこんな時間に呼び出しをかけるなんて。
『遅い時間に悪い。だが急ぎだ。
お父上の書庫、名坂にあっただろ。探しものの手がかりが、たぶんそこにある。
ただ、鍵がなくてな……明日までに動かないと手遅れになる。今、来られるか?』
「うーん」
『頼む。嬢ちゃん。本当に、急ぎなんだ。なんなら護衛もつける』
大熊の声には焦りが滲み出している。隠しきれていない。
悩む。悩んだが、りこのその相手について、大熊に聞いてみるいい機会でもある。
「分かった。行くわ。
私も聞きたいことがあるの。護衛はいらない――待ってる時間がもったいない。すぐ出る」
◆ ◆ ◆
「……と、いうわけで、出かけるわ」
美優はリビングのソファーに寝転がっている翔太と、キッチンに立っているデルピュネーに言った。
「こんな時間に? ちょっと危なくないか?」
翔太は身を起こしながら言う。
それはそうだ。
事件続きなのだから。
「大丈夫。そう長くはかからないはずよ」
「いや、もう夜中だ。俺も行くよ」
「護衛は、わたくしにも、お任せください」
デルも警戒心をあらわにしている。
「いまは、前回の『カスケード』によって、よく分からぬ怪異が跋扈しております。
翔太さまが行くのであれば、わたくしも着いていかなければなりません」
確かに。
この半年で、いろいろなことが起きすぎている。
瑚桃の別荘で見た、地蔵と子どもたちの怪異。
さらに直近では、人体溶解現象。
いわゆる「ゴスロリ少女」事件だ。
翔太とデル、この二人がいるに越したことはない。
(それに……翔太くんがいてくれたら、暗い道でも安心できる)
その考えが浮かんだ瞬間、美優の頬が熱くなった。
彼女は慌てて首を振り、追い払う。
◆ ◆ ◆
「じゃあ、出かけてくるわね」
美優は、玄関まで迎えに来たシャパリュに言った。
「うん、安心して行っておいで! 大丈夫。ベッドの芽瑠と、この家は、僕が守っておくから」
シャパリュは相も変わらず、脳天気だ。
だが確かに、この布陣はありがたい。
家と芽瑠については、英雄殺し・怪猫シャパリュが守る。
自分と翔太は、デルが守ってくれる。
そもそもシャパリュはデルと違い、この結界内での行動を好む。
なんでもベレスやデルピュネーとの交信をするのに、最も障害が起こりにくいからだそうだ。
そのデルピュネーにシャパリュが言う。
「いいかい、デル。この土地にある強烈な結界──それは栗落花淳事件後、ベレスさまが自身の固有結界で、上書きの要領でカスタマイズしてある。あの時のように突然、誰かがさらわれないようにね。よって、結界はより強固。地下にはこれまた固有結界の退避路。ただ……」
「承知しております。緊急回線はシャパリュさまと常時接続で」
「分かってるじゃないか、デル」
シャパリュはにっこりと笑う。
「帰ってきたらプリン用意しとく。あくまででも勝利条件は、『無事で帰還』だよ~」
◆ ◆ ◆
翔太と美優は、移動に徒歩を選んだ。
名坂は、津羽井山の麓にある為、結構な上り坂になっている。
自転車ではきつい。歩きのが、楽だ。
夜の坂道に、人影はなかった。
街はすやりと眠っている。
警邏の赤色灯だけが遠くで瞬いた。
静かな夜に、二人の足音だけが小さく響いた。
「でも、大熊さんにしては珍しいよな。どんなに急ぎといっても……」
翔太が美優に問う。
美優も頭をひねる。
「知らないわ。とにかく探している資料があるみたい。それ以外は聞いてないもん。でも、水城がこんな危険な場所へと変わった今……呼ぶには、相当な理由があるはずよ」
国道に出たが、人通りどころか、車の姿もほとんどない。
寂れ行くだけの一地方。
このままだと転居者の増加で廃墟ばかりの町になり兼ねない。
ただ地元に根を生やした住民は多い。
自身の土地を売りたくない高齢の方も多い。
ゆえにギリギリで成り立っているところも水城には、あった。
「それに大熊さんの声、いつもより硬かった」
「……美優がそう言うなら間違いないな」
「おじさんはお父さんとかなり仲が良かったからね。物心ついた頃から、大熊さんの記憶はある。あの頃はまだ、刑事だったけど」
「あの人、元刑事なんだ」
「そうよ。言ってなかったっけ」
美優は両手を後ろに回して、夜空を見上げた。
「かなりの敏腕。その腕を買われてね。刑事時代から国際魔術会議から声がかかっていたの。あの人、魔術師的素質を兼ね備えていたから。本人はまったく気づいてなかったみたい。今は刑事は完全に引退」
「あの相棒の高木って人は?」
「あの人はよく知らない。でも大熊のおじさんが相棒にしてるぐらいだもの。腕は確かなはず。それは私の『マグス』の素質が告げている。相当、出来るはずよ」
「そっか……」
──翔太は改めて思った。
美優は多くのことを知っている。
だが俺はどうだ。
自分は何も分かってない。
知っているのは自身が太陽神ラーの転生体であり、
同時に、
──世界を滅ぼす破壊者・666の獣と呼ばれる存在であること。
「俺は、まだ分からないことだらけ……」
──だがそれは、言葉になる前に消えた。
急に、夜の空気が冷たくなった。
殺気が、風より先に来る。
周囲に不穏な空気が張り詰めた。闇がさらに深くなる。
「翔太くん!」
美優が遮ったのだ。
だが、その美優の声色で、翔太も身構えた。
”危険”の色を帯びていると、即座に感じた。
美優の『マグス』の素質の力は伊達ではない。
そして美優の警戒通り。
この広い坂道の途中に、それは現れた。
「あら。想像より、ずっと感じやすい、のね」
鈴を水に沈めたような女の声。
甘く、冷たい。
翔太の背筋が凍る。
その声の主を見る。
坂の上。
二人から二十メートルほど離れた先。
坂の上に、美しい髪を揺らす美少女がいた。
けれど――その目は、最初から閉じたままだった。
問題は、その美少女の背後にある巨大な影だった。
身の丈、三メートル近くはあるのではないか。
そう思われる半裸の筋骨隆々の男の姿が、あったのだ。
これだけで、相手が人間ではないことが分かる。
美少女は、その半裸の怒りの巨人の腕に、手を触れながら言った。
「目を閉じていても、分かる。あなたたち、夜に溶けきれていない、わ。
あの教会から、わざわざ、離れてくれ、た。だから、今が好機」
「翔太くん、後ろッ!」
美優が、翔太をかばうように前に立った。
これに対して、翔太は後ろから、美優の肩を掴む。
そして無理やり自分の背の後ろに回すようにする。
「え、ちょ、翔太くん……狙いは、あなたなのに……!」
「下がってろ。これは……ヤバイやつだ」
「そんなの言われなくても分かるわよ!」
かばい合う二人を見て、美少女が、目を閉じたまま、ころころと笑った。
「あら、痴話喧嘩?」
「違うっ!」
「そんなんじゃないっ!」
二人同時に叫んでしまう。
そして互いを見つめ合う。
いや、そんなことをしてる場合じゃない!
「美優は、俺が、守る……!」
翔太はそう言うと、自身の体内にある魔術回路にイーナリージアを流し始めた。
爆発的に肉体強化を得る秘術。
その翔太から発せられる熱気に、美優は思わず退く。
(あの……神社での喧嘩の時よりも、強くなってる……)
日々の鍛錬を怠っていなかったことが、美優でも分かる。
元崎先輩に、手も足も出なかった自分を恥じていたのだろう。
それを見て目を閉じた美少女はため息をついた。
「仕方ないわね。素直に、着いてきてはくれ、ないらしい、わ」
そして、隣の巨人にそっと、寄り添っていった。
まるで恋人同士のようにその屈強な腕に身を預けている。
その姿勢で甘い口調で言った。
「ねえ、その、私の首をはねたその力」
そして、目を閉じたまま、こちらに向き直った。
「今度は、私に貸して、ね」
これに反応するかのように。
これまで肩で息をするだけだった、三メートル級の怒りの巨人が、
空に向かって豪快に吠えた。
『グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!』
吼え声が空を裂き、周囲の窓ガラスがビリビリと鳴った。
翔太も美優もその激しい振動に耐える。
この後、翔太と美優は、信じられない者の名を耳にする。
それは、目を閉じた、その少女の口から、
確かに、発せられた。
「お行きな、さい。ペルセウスよ」
──ペルセウス!?
次の瞬間、三メートルの巨体が跳んだ。空から落ちてくる。
こちらへ向かって降ってくる。
影になってよく見えない巨大な凶器。
それが、振り下ろされる前に。
翔太は叫んだ。
「来いっ!」
体内のイーナリージアを輝かせながら。
「デェェェルゥゥゥゥゥ!!」
それとほぼ同時だった。
エメラルドグリーンの光が空へ飛ぶ。
デルピュネー。
ギリシャ最恐の怪物・テュポーンに認められし、洞窟の番人。
ギリシャ神話の闇に隠れた最強クラスの魔物。
その槍が、空を舞う巨大な影へと向かう。
空中で相まみえる二つの影。
「まさか、ペルセウスって言ったの!?」
さすがの美優も驚いている。
「だって、ペルセウスって、あの……」
影が振り下ろす不思議な形をした武具の攻撃を、
デルピュネーの槍が、ギン! と激しい音を立て受け止める。
大人と子どもの差どころではない。
まるでダンプカーと三輪車。
それほど、影とデルピュネーの間には体格差がある。
「ギリシャ神話の大英雄じゃない!」
美優が言う通りだった。
ペルセウス──ゼウスを父に持つ半人半神の英雄。
神々から授かった魔術的な武具を駆使してメドゥーサ殺しを成し遂げ、
巨人アトラスを倒し、海の怪獣ケートスから、
生贄にされた少女・アンドロメダを救い出したギリシャ神話屈指の兵。
対してデルピュネーは、バラバラにされたゼウスの肉体の、
腱の部分を隠した洞窟を守っていた強靭な番人である。
神と魔。
だが、どちらも“天空の父”=ゼウスの影を宿している。
その二体がぶつかった。
そして、目の前の、目を閉じたままの美少女が言う。
「私の首を落とし、た腕前、今夜は私の、ために……」
目を閉じたままなのに、笑っているのが分かった。
「存分に振るいな、さい! 英雄ペルセウスよ!」
『グオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!」
──神話上ではあり得なかった、二体の強者の闘いが今、始まる。




