9.父との約束
「よーし、次はパームボールだ。次は内角をえぐる剛速球」
里村保は近沢を帰した後も、一人で壁を相手に投げ続けた。
幼い頃から、父に導かれて一緒に始めた野球。
高校野球の公式戦でまだ一度も投げていない事実。
最後になる夏の予選には一イニングでも、せめて一球でもいいから投げたい。
マウンドに立つ雄姿を父に見てもらいたい。そのために練習をするしか方法を知らなかった。
里村がグラブに入れたボールを左手に握り、前かがみになって壁をにらむ。
壁の前でミットを構える優しい父の姿がぼんやり映る。
ここに投げて来いとばかり、グラブを叩き、ニッコリ笑って構える。
里村は大きく振りかぶって体をひねると左手を素早く回転させた。
ボールは父のミットを通り過ぎて、壁に当たって跳ね返る。
ころころと戻ってくるボールを身体を屈めて捕ると、里村は泣いているのか、そのままの姿勢から崩れるように膝をついた。
悲しみは突然訪れる。
里村保が二年生の夏の予選が終わった頃、父、幸次郎は突然、この世の人ではなくなったのだ。
里村保は練習を終えると、いつものように左手に汗と土で汚れたボールを握り家に帰った。待っていたのは、玄関先で点滅を繰り返す赤い光だった。里村は胸騒ぎを静めるように、左手のボールを強く握ると赤い光に向かって走った。そして保が見たのは、今まさにストレッチャーに乗せられて救急車に運びこまれる父親の姿であった。
付き添っていた母は、保の姿を見つけると、涙でにじんだ目を向けた。
「心配しないで。大丈夫だから」
その声は、決して保を安心させたりはしなかった。母の濡れた瞳は、保の心臓の鼓動を乱れさせるに十分だった。母は救急車の後ろに付き添い、保と妹の智子は近くに住む叔父さんの車に乗って病院に向かった。
瞬く間におじさんの車を置き去り見えなくなった救急車のサイレンの音と刹那の赤い残像は、保の悲しい思い出として心に残った。
叔父さんの車は何度も信号に捕まり、病院に着いたときには、薄暗い病院の待合室で、母はひとりでソファーに座っていた。三人の到着を待っていたかのように、看護師に促されて病室に入ると、父はただ死を待つ人となっていた。
無機質な寒気すら覚える部屋だった。白い服を着た医者が無表情で父の死亡時刻を告げた。
父が死んだ。
突然の出来事に保は呆然と立ち尽くし、母は嗚咽を漏らし、妹の智子は父の手を握って大声で泣き出した。
「お父さん!」
智子の泣き声は病院中にこだました。
母は、しゃくり上げながらも、決して涙を流しはしなかった。智子を後ろから抱きしめ、横にいた保の手を握った。
保は涙をこらえる。
涙をこらえるのは、父との約束だった。
「男がめそめそ泣くな。泣くのは甲子園のマウンドの上で泣け」
笑いながら冗談半分で父は言った。それほど重くない言葉だった。だが、里村保は父の本心の吐露としてその言葉を受け止めた。
甲子園のマウンドがある限り、弱音を吐いたりはしない、泣いたりはしないと、父の言葉以上に歯を食いしばった。
泣きはしない。
しかし、悲しみは母犬を見失った子犬のように、オロオロと虚空を見つめるだけだった。
「保なら出来る」
そう言い続けた優しい父に、高校野球の公式戦で一度も投げる姿を見せられなかったことが、保の心を空っぽにしていた。
保は涙をこらえた。
行き場を無くした悲しみ一杯の涙は、空っぽの心の中を満たすことなどない。一滴の滴となってポツリポツリと落ち続けた。
「お父さんとキャッチボールできなくなった」
保は涙を堪えてベッドに横たわっている父を見つめていた。左手に握られていたボールを父のベッドに枕元に置くと、保の目からは今にも滝のように、涙が流れ落ちそうだった。
壁に向かって投げる里村は、自分の力の無さが、悔しくて手のひらから血がにじむまで投げ続けた。
ボールは壁に当たって里村の足下に戻ってくる。そのボールを左手で強く握って、これを最後にしようと振りかぶった時、突然、神崎監督の声がした。
「里村! まだ居たのか?」
「は、はい」
里村は驚いて、動きを止めた。
「お前のボールを、受けさせてくれ」
神崎監督は壁の前に立ち「俺にボール投げてみろ」と言いながら、ミットのない手を胸の前に広げて座った。
「投げていいんですか?」
里村は怪訝な表情を向けた。
「渾身のストレートが、どんなもんか見てみたいよ」
「でも監督、グラブが?」
里村は神崎監督が素手なので、戸惑う気持ちがあった。
「この手は年季がはいっている。下手なグラブより丈夫だ」
笑いながら右手で、左の手のひらをパンパンと叩いた。
「俺が参ったと言うぐらいボールを投げてみろ。少々の球では参らんぞ」
「はい!」
里村の目がメラメラと燃えて、灼熱の炎と化した。
里村は、大きく胸を張ると、息を深く吸い込んだ。
両手を天高く振りかぶり、左腕がそり返って、弓なりになった腕がしなるように振り下ろされると、指先から放されたボールはレーザービームとなって神崎監督めがけて伸びていった。
ズズッズバァーン!
怒涛逆巻く剛速球に、キャッチした姿勢のまま1メートル近く押し出され、その足跡は映画のワンシーンのように赤い炎に燃えていた。
呆然とする神崎監督は我を忘れ、手の中ではボールが煙を吐きながら回転していた。
「さ、里村! お前!」
神崎監督の声が絶唱とともに裏返った。
そんなことを想像しながら里村は、やはり胸を張ってオーバーハンドスロー。左手から離れたボールは構えた監督の手の中に、精一杯のストレートが音もなく消えた。
「ナイスボール」
神崎監督の声が聞こえた。
「よし! 次は内角低めに真っ直ぐだ」
里村の大きく振りかぶった左腕から、神崎監督の構えた低め一杯に、ハエすら止まれそうな勢いでストレートが力なく吸い込まれた。
「よし! いい球だ! 次は変化球だ。ボールになるカーブ」
神崎監督がそう言った時、一人の女子生徒が走ってきた。
「監督! キャッチャミット持ってきました」
女子マネージャの片山緑だった。
「助かった。さすがの俺の鉄の手も、里村の剛速球にはお手上げだ」
「あとで冷えた麦茶をもってきます」
片山緑は一礼すると、少し下がって二人を見ていた。
「片山さんありがとう」
里村は礼を言うと、再び神崎監督めがけて投げた。
片山緑は一年の時から、野球部マネージャをやっていた。同級生の里村の事もよく知っている。
練習熱心でもあまり目立たなくて、話すのは苦手みたいだけど文句ひとつ言わず、後片付けも最後まで手を抜かずにやるし、なんとなく気になる存在だった。
里村も気さくな片山緑とは話しやすいのか、時には冗談を言っては笑いあった。
片山緑がジーと見つめるなか、里村は時間が経つのを忘れ、監督めがけて投げた。
「ようし。今日は十分里村の球を見せてもらった。ここまでにしよう」
神崎監督はそれだけ言って、グラブを片山に渡すと、里村の肩を揉む仕草をして「いいボールが来てる」と言いつつ、無意識に小首を傾げて練習は終わった。
監督の言葉に嘘はないと思ったが、決して里村を力づける言葉とはならなかった。最後に小首を傾げたのは、まだ使い物にはならない、もっと何かをつかんで来いと、言いたかったのだろうと里村は思うことにした。
何を掴んだらいいのだろう。
自分に足らないものは何だろう。
里村は、それが分からない。
帰り道、練習で遅くなった片山緑を家まで送るため、学校の前の土手道を二人はお互い自転車を押しながら歩いていた。
二人が並んで歩いたら犬さえ通れそうもない広さの道だ。
「レギュラになれたらいいのにね」
片山緑は言った。
「吉村がいるから無理だよ」
里村は淡々とこたえる。
「どうして」
「どうしてかな」
「自信ないの」
片山緑がそう言った時、里村は思案気に星ひとつない空を見た。
「一番セカンド山本だろ。二番は?」
里村は指を折った。里村の言葉を受けて、片山緑が笑顔で受ける。
「二番センター白井君」
里村は続けた。
「三番ファースト城戸」
「四番ピッチャー」と片山緑が言って、声を止めた。
「吉村!」
里村が続けた。
「やっぱりね」
「五番は?」
里村が聞いた。
「そうね、ショートの近藤君」
「六番は?」
「キャチャー田代君」
「七番は?」
「レフト、安井君」
「八番は?」
「サード中西君」
「九番は?」
「ライト福島君」
ここまで言うと片山緑がクスと笑った。
「ごめんね、里村君がいなかった」
バツの悪そうにあやまる片山緑に、里村は笑いながら頷く。
「ほら、やっぱりレギュラじゃないだろ」
肩を寄せ合うように歩いた土手道を抜けると、街灯が明るい歩道に出た。しばらく歩くと片山緑の家の前に着いた。片山緑は家の中に入らずに、里村をガレージの中へ誘った。
とまどいとときめきが里村の脳を交差する。そんな里村に片山緑は明るい声で言った。
「四番は誰だった?」
とまどいとときめきが消え、彼女が何を言いたいのかを考える間もなく、鸚鵡返しで言葉をつなぐ。
「四番はピッチャー」
里村がそこまで言ったとき。
「四番ピッチャー里村君」
片山緑は笑顔で続けた。
しばらく二人は黙った。
熱く感じる沈黙だった。
「頑張ってね! 里村君。私は野球部のマネージャーだから選手全員を応援するけど、里村君は十の十乗応援する」
片山緑はガレージを出て玄関のドアのノブに手をかけた。
「今日は送ってくれて、ありがとう、じゃまた明日、さよなら」と言うと玄関戸の向こうへ姿を隠した。
「十の十乗?」
里村の頭は混乱して、胸の動悸は緑の声と共にしばらく静まらなかった。
読んでいただき有難うございます。
次回は謎の男が登場し、寒風吹きすさぶ山中で里村保の特訓が始まります。