7.鬼の神崎幸三
里村保は地元の県立大豪高校へ進学し、当たり前のように野球部に入部した。
どんな大会でも、ほとんど一回戦で負ける実績のない野球部だ。
しかし、その年大豪高校野球部に吉村隼人という快腕投手が入部してきた。
中学時代の吉村隼人を知る人のほとんどが、大豪高校への進学を驚きの眼差しで見つめた。
野球の名門高校に進学するものと思っていたからである。それほど力のある投手が入部してきたから大変。にわかに監督も選手たちもやる気がおきた。
吉村隼人もその期待を裏切ることなく、一年生の夏から大豪高校のエースとしてマウンドに立った。
一方、里村保は投手志望にも関わらず、大きすぎる吉村の影に隠れて、ほとんど試合に投げることのない幽霊投手として練習に参加するだけの存在になっていた。しかし吉村隼人は一年生の頃こそ、それなりに力を入れて練習もしたし、他の選手との連係も上手くこなし、さすがに快腕吉村だとまわりを唸らせるに十分な活躍をみせた。
それも二年生になると、大豪高校でいくら頑張ったところで、甲子園出場の夢が叶わないのが分かったのか、肝心要の練習も休みがちになる。さらに、強豪高校と練習試合では、まるで対戦を避けるかのように、肩が痛い、腕に張りがあると監督に申し出て試合に出場しないことが多くなった。
大豪高校野球部の選手のレベルの低さが、吉村を腐らせてしまったのだ。
一年間それなりに頑張ってきて、思い返すまでもなく、何の結果も残っていない現状をふまえ、気持ちが切れていた時期だったのかもしれない。
見方を変えれば、それは吉村隼人の精神の脆弱さだった。
弱さ故に大豪高校の快腕投手吉村隼人のことを人知れず硝子のエースと呼んだ。
ガラスゆえに砕けてしまうと、再生することは不可能なのだ。
吉村自身が腐ることなく、自らが率先して引っ張って行く気迫があれば、夢は叶わなくても、それに近づくことは出来たかもしれない。大豪高校をさらなる高みへと導けたはずだ。それほどの力と技を合わせ持った投手だった。
快腕吉村の入部があって、吉村に憧れた運動会系の体格の優れた生徒が入部し、それなりに大豪高校の野球部も変わっていった。確実にレベルアップし、少々の強豪と対戦しても試合になるようになった。しかし、里村保はそんな中にあっても、やる気喪失気味の吉村の代役を仰せつかることもなく、淡々と練習をこなす日々が続いていた。
吉村の活躍を見ること無く、二年生の夏も曇天の雲のように、知らず覚えず流れていく。
そして、最上級生となって最後の夏を迎える吉村隼人、里村保にとっての新チームが結成されることになり、新チームを束ねる新しい監督が同時に発表された。
高校野球に少しでも詳しい人なら、その名を、誰もが知っていた。
過去に甲子園初出場初優勝の離れ業をやってのけ、それ以後は幾度も甲子園を経験し、甲子園の隅々まで知り尽くす男、神崎幸三であった。
甲子園に飄然と現れ、神崎旋風を巻き起こし、ある夏を境に突如、霞の如く姿を消した。
今や伝説となりつつある、鬼の神崎、その人だった。
秋の気配が、緑の葉を色づかせていた。
風は強いが監督の気迫の前では、飛ぶ鳥を落とすようなわけにはいかない。
練習初日の挨拶で神崎新監督は戸惑うことなく言った。
「甲子園を目指す!」
大豪高校野球部員一同、思わずため息をもらす。
神埼監督の指導のもとで始まった練習はハードを極め、甲子園を目指すという言葉の意味を、野球部員一同は体いっぱいに感じることとなる。
大豪高校のグランドでは、野球部の気合いのこもった声が飛び交っていた。
「ガッチコイ! オウ!」
大きな声で気合をいれる。
神崎のシートバッティングは容赦なく選手を襲う。
選手は走った。
右へ、左へ、前へ、後へと。
ボールはマシンガンのように間断なく飛んでくる。
時には地を這う土風のように、時には空を飛ぶ雷光の如く。
「三塁手中西!」
神崎監督の声が吐く息もろとも、グラウンドを叩く。
ボールが唸りをともなって中西に襲い掛かる。やや肥満気味の中西は身体を一杯にのばし頭から飛び込んだ。グランドの土が八方に乱れ散った。
ボールは中西のグラブをかすめ、後ろに転がっていった。
「なにやっとるんじゃ!」
監督の怒号が天を突いた。
休む間もなく疾風迅雷の如く、降り注ぐノックの雨。
差し出されるグラブ。
その先を抜けていくボール。
飛び散る汗。
キーン、キーン、カーン。
ボールが炎を吐きながら中西に襲いかかる。
右足が跳ねた。
グラブが横に飛ぶ。
掠めていくボール。
腕が伸びる。
中西の体が回転した。
手の中に反応している手ごたえ。
グラブを高々と上げた。
「よし! ナイスキャッチ!」
監督の声が轟く。
「次、ショート近藤!」
その声と同時にグラウンドの泥がはねた。
近藤は小柄な身体を回転させて頭ごと土に突っ込む。ボールが遥か遠くに消えてゆく。
大豪高校は秋からの神崎監督の指揮のもと練習は一変した。時間の長さもさることながら、厳しい練習メニューに根をあげる選手がほとんどだった。
神崎監督は守備を重点的に鍛えた。
毎日、毎日、守備練習の日々が続く。
まったく打たせてもらえない。
バットは縄で縛って封印されていた。
泥んこになりながら、暗くなるまで、いつ終わるともなく守備練習が続けられた。
「鬼か蛇か知らんが、今度の監督は何を考えているんだ。大豪高校を甲子園の名門とでも勘違いしてるんじゃないか?」
練習が終わり、部室の中でファーストを守る城戸が怒りの表情をあらわにして言った。
「守備練習ばっかじゃ、面白くないよ」
ショート近藤も不満顔だ。
練習が終わって選手が集まると決まって愚痴を言った。
もともと楽しむ為に入った野球部だ。練習はそこそこで仲間とわいわい騒げたら良し。
甲子園など異世界の出来事。
甲子園を目指せるような高校ではないので、神崎監督が甲子園を目指すと言った言葉に選手一同は一瞬しらけたものだ。
勿論、そんなことは百も承知、二百も合点の神崎監督である。
しらけさせてから始めようと、あえて言った一言だった。
神崎監督は伊達や酔狂で無名である大豪高校の監督になったわけではない。
神埼監督は中学時代の吉村を知っていたし、その底知れない力を高く買っていた。
有名高校のスカウトが吉村の家を訪問していたので、当然、高校野球の名門に行くものだと思っていた。
高校野球の世界から身を引いていた神崎監督は、吉村が野球の名門に進まず、無名の大豪高校へ進学し、やる気をなくしていると人づてに聞いては、いても立ってもいられず、三年生になった吉村の最後の夏を、文字通り熱い夏にしてやろうと、自ら志願して監督になったのだ。
銀傘にこだまする熱狂、熱い涙、歓喜のジャンプ。
吉村のためでもなく、自分のためでもなかった。
甲子園がそうさせた。
神崎監督は記憶の末端から消したはずの火がくすぶり続け、再びチリチリと燃えだした。もう一度だけ、甲子園に夢をかけるために、中学時代は快腕を欲しいままにしていた吉村隼人の最後の夏に賭けたのだ。
吉村が本来の力を出せば、打てるバッターはいない。
しっかり守り、失点を少なくすれば、大豪高校であろうと甲子園に出場できると、神崎監督は本当にそう思っていたのだ。
読んでいただき有難うございます。
次回は神崎野球に戸惑う大豪高校野球部です。