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6.花言葉は大きな愛

 中学も終わりのある日。

 里村保は放練ほうれんを終えて、くたくたになって家に帰ってきた。食事を終えての束の間、父がビールを飲みながら話し出した。

「東塔学園中学の桑原を知っているか?」

「知ってる」

 珍しく酔っているのか、いつもより饒舌だった。

「考えたら不思議な話しだよ。桑原の親父と、木枯の親父と、お父さんは同じ大学の野球部だったんだから」

「ふーん」

 里村保はその話を、過去に聞いたことがあったが、知らない振りをした。

「花の三本柱と呼ばれていたんだ。桑原の父はエースで強打の中心バッターだった。お父さんと木枯は二番手を争っていた。花の三本柱とは笑い話だよ」

 保は黙って聞いていた。

「どうしても桑原には勝てなかったな、だけど、桑原は最後の大会を前に突然、野球をやめたんだ」

「どうして?」

「それはよくわからない。肩を壊したという人もいるし、勉強に専念する為と言う人もいるし」

「それじゃお父さんがエース?」

 保は微かに笑った。

「それが違うんだ。木枯の父がエースになった」

「へぇ、そうなんだ」

「熊の木ベアーズの監督だよ。あいつは学生時代、俺の親友だった。風変わりな奴だったが……」

 父はそう言ってから言葉を隠すように、軽く咳き込んだ。

「親友だったの」

「まぁ、昔の話だよ」

 父の言葉には友を懐かしむ感情の欠片もなく、保は違和感をお腹に留めたまま、そんなこともあるのだろうと思っただけだった。

「今、木枯は西山中学のエースだよ」

 木枯の投手としての力を、保は素直に認めざるおえない。

「父親も悪くはなかったが、息子は恐ろしい投手だ」

 言い終わって父がポツリと漏らしたひと言。

「親子そろって二番手か」

「いいよ。野球が出来れば、それでいいんだから」

 そうは言うものの、保は回りが騒ぐほど木枯の投げるボールを凄いとも、恐いとも感じなかった。

 木枯龍馬が里村保の存在を意識しているように、里村保も児童公園野球場の伝説を忘れてはいなかったのだ。

 ただ、試合で投げる木枯龍馬の勇士と、自分の存在の小ささを比較すれば、気持ちが沈んでいくのを投げるボールのようには、うまくコントロールできない。


 里村幸次郎の追憶は保がその場から居なくなっても続いた。ジエンドのボタンを押さない限りコンテニューは繰り返される。


 里村幸次郎が木枯龍馬の父のことを、詳しく語らないのには理由があった。

 桑原が野球を止めた時、力的には里村幸次郎がエースになるはずだった。監督も他の選手もそう考えていた。


 歯車は少しずつ削れ、噛み合わせが悪くなっていく。

 ある日の出来事が二人の間に亀裂を生じさせ、それはお互いの力の方向を逆転させた。


 いつものように練習を終えた木枯龍之介は野球バッグをぶら下げて部室にむかっていた。後ろを歩いていた後輩が「あれ、里村先輩じゃないですか」と校庭の隅に植えてあるにれの木陰にいる男を指さした。

「確かに、里村だ」

 龍之介は練習の途中からいなくなった里村を訝しく思っていた。

「俺は里村に用があるから、お前らは、先に行ってろ」

 後輩を先に行かせ、龍之介は足早に里村に近づいて声をかけようとした。しかし、声はでなかった。声が出なかったのは、里村の横に島村多美子がいたからだ。

 島村多美子は二人の共通の友人だった。

「私は二人とも好きです」

 木枯龍之介と里村幸次郎を前にして島村多美子は、こぼれんばかりの笑顔を見せた。

 里村幸次郎は島村多美子に好意以上のものを感じていたから、二人の間で、ゴンドラのように揺れる多美子の気持ちが理解できなかった。

 ただ、島村多美子が本当に好きなのは里村幸次郎なのだということを、木枯龍之介は知っていた。


 三日前のことだった。

 木枯龍之介が授業を終えた島村多美子を、人気のない学舎の裏庭に誘った。

 人間二人が隠れるほどの、大きな杉の木があった。

 木枯龍之介は鞄の中から缶コーヒーを取り出し島村多美子に渡すと「有り難う」といいながら受け取った多美子の手を強く握った。

 島村多美子は龍之介の行為に対して、少々驚きはしたが、それ以上の感情は湧いてこなかった。背をもたせかけていた杉の木のごつごつした感触から身を避けるように体をひねって手から逃れると、龍之介はさらに強い力で多美子の肩を抱いた。

 その時、島村多美子の口から出た言葉に、木枯龍之介の胸は嫌悪の痛みに満ちた。

「誤解しないで、私は里村君が好き!」

 木枯龍之介の全身から力が抜けて、表情には戸惑いの笑顔があった。しかし、それも束の間、戸惑い笑顔が嫌悪の痛みに覆われると、再び手に力がこもる。多美子の表情が苦痛に歪み、手にあった缶コーヒーが地面に落ちた。


 翌日、突然エース桑原幸之助の引退が発表された。


「桑原君が引退したら、二人のどちらかがエースになるでしょう。私は今度エースになった人とお付き合いするわ」 

 桑原幸之助の引退を知った島村多美子が、二人を前にして冗談のように言った。

 里村幸次郎が次のエースになると、誰かが教えてくれたからだ。

 木枯龍之介は、その言葉を呪文のように何度も唱えた。何をしてもチームのエースとなって、島村多美子を我が物にしてやろう、我が勇姿をその目に焼き付けてやろうと、邪心を道連れの決心だ。


 楡の木陰で語らう二人を見て、龍之介の頭に血が逆流し、心臓の鼓動は皮膚一枚を飛び出すほどに激しく打った。龍之介は怒りと妬みのために、そこから一歩も前へ進むことができず、島村多美子の白いブラウスが木漏れ日に光っているのを、意識の端に刻み込んだだけだった。


 数日が過ぎたある日、どんよりとした雲が空を覆った。

 練習が終わった後、木枯龍之介は里村幸次郎を学舎の裏に誘った。

「何があるんだ?」

 里村幸次郎は怪訝な表情のまま後をついていく。

 今までも、風変わりな木枯龍之介は平気で人を驚かすようなことをしていたので、この時も何を企んでいるのだろうぐらいに思っていた、

 学舎の裏はもともと湿り気のある陰気な空気に満ちている。気持ちが沈んでいくのを感じながらも、枝が何本も分かれている一本の大きな木の近くまで来た。

 何気なく置かれているブロックに腰を下ろして、木枯はいつもと変わらず野球の話題を持ち出した。桑原引退の話題に会話が弾んだものの、言葉が途切れた時、木枯龍之介は大きな木を見上げるように立ち上がった。

「あの枝に飛びつけるか?」

 木枯の唐突な言葉に里村は首を振った。

 木枯龍之介はそれではとばかり二度、三度ジャンプするが、全く手は届かない。

「お前ならジャンプ力があるから、飛びつけるんじゃないか」と息を切らして里村幸次郎をそそのかす。

 里村幸次郎も真に受けて立ち上がり、両足に力を込めてジャンプすると、あと僅かなところで届かない。木枯龍之介は近くにあったブロックを引きずってきて枝の下に置く

「これなら届くだろう」

 里村幸次郎はブロックの上に乗り、軽くジャンプしてから勢いつけて跳んだ。指の先が枝に引っかかると、そのまま力を入れて枝をつかんだ。

「さすが! 里村、懸垂けんすいやってみろよ」

 木枯龍之介の声が聞こえ里村幸次郎は「良し!」とばかり両腕に力を入れて身体を持ち上げた時だった。折れるような細い枝ではない。

 その枝が一刀の元に断ち切られたみたいに根元近くから折れた。

 里村幸次郎は虚空を掴む思いで、そのまま後ろ向きに倒れ、ブロックに右肩を打ちつけ、右足を地面に叩きつけられていた。

 霞む視界の先で木枯龍之介は驚いたように、手を差しだし里村幸次郎を介抱した。幸次郎はその龍之介の行為に友人としての感謝の気持ちと、その奥に潜む陰惨な企みを見た。


 なぜ、人気のない学舎の裏に俺を誘ったのだ。

 なぜ、ブロックを置いてまで、あの枝に飛びつかせたのだ。

 なぜ、細くない枝が、あれほど簡単に折れたのだ。


 里村幸次郎の頭は練り込められた灰色の粘土のように強ばり、里村幸次郎の疑念の思いはいつまでも消えなかった。

 事故でないとすれば、それを立証することは、一人の友人を失うことになる。

 木枯龍之介が自ら何も語らない限り、その事実は永久に闇の中だ。

 どんな時でも、危険を回避できなかった自分が悪いと、里村幸次郎は目を瞑った。


 入院生活は、そう長くはなかった。

 島村多美子は一度だけ、見舞いに訪れた。

 立派なカサブランカブーケの花束を、胸いっぱいに抱えて。

「どうして、ここに来たんだ?」

 里村幸次郎は動けない身体をベッドに転がしたまま、多美子を見ることなく言った。

「どうしたの?」

 カサブランカの花を花瓶に入れ、島村多美子は小首を傾げながら囁いた。

「どうもしない」

「そう、でも、どうかしてるわ」

 静かな空気が、ぎこちなく流れていた。

「有難う。花束」

 幸次郎は首を動かし、多美子を見た。

「そういうことじゃないと思うけど」

「その花の名前は?」

「どうでもいいんじゃない。そんなこと」

 島村多美子が、笑顔で幸次郎を見つめた。

「どうして……ここに来たんだ?」

 その目を見て、里村幸次郎は再び言った。

「来たらいけなかったの」

「来ないと思っていた」

「そんなこと、勝手に思わないで」

 島村多美子は、白い花の横で腰掛けた。

 白いカサブランカに負けないくらい、透き通るような白い肌。

 長い黒髪が真っ直ぐに伸びていた。

 清楚で美しい顔立ちの中で、凛とした目だけが気持ちの強さを物語っていた。

「その花は、カサブランカだろう」

「そうよ。花言葉は大きな愛」

 島村多美子は大きな愛だけを残して、そこを去っていった。

 

 退院して自宅療養の結果、大学の野球生活には終止符を打たれた。

 枝から落ちて怪我をした里村幸次郎が大学野球の最後のシーズンを棒に振り、木枯龍之介がエースの称号を賜った事実だけが残ったのだ。

 その後、大きな愛が枯れてゴミ袋の中に捨てられたように、島村多美子が里村幸次郎の前に姿を見せることは二度となかった。

 親友だった木枯龍之介も、その姿を隠すように里村幸次郎の前から消えた。

 木枯龍之介と島村多美子の二人が結婚したのを知ったのは、ずいぶん先の話になる。



「おい、里村、いい加減に投手なんか止めて、球拾いに専念しろよ!」

 練習後の片付けをしていた里村保に木枯龍馬が声をかけてきた。

 里村保は、いつものことだと、内心腹立たしかったが黙って聞いていた。

「まあ、今でも球拾いみたいなもんか、はははっ」

 木枯はそう言うなり、里村の足元にあったボールの入っているバケツを足で蹴り上げた。バケツはひっくり返り、中に入っていたボールは四方八方に転がった。

 里村や下級生が片付けたばかりのボールだった。

「木枯! せっかく集めたボールを、なんで蹴るんだ」

 里村は珍しく声を荒げた。

「いや、バケツがあるのが見えなかった」

 ニヤニヤ笑う木枯龍馬の声は里村保の胸をえぐった。

「ごめんごめん。悪いけど、片付けてくれよ。 俺は今から監督と東塔学園に行かなきゃならないんだ」

 里村は何を言っても仕方がないと思った。

「どうしたんだ? ここにはもうお前しかいないだろう。さっさとボールを片付けないと日が暮れるぜ」

 木枯龍馬はグランドを横切り、転がっているボールをサッカーのように蹴ると、ボールは綺麗に弧を描いて飛んでいった。

「きっちり探せよ。ボールが足らないと監督がうるさいぜ」

 木枯龍馬は、もう里村なんか見ていない。

 そのまま校庭を横ぎると、校門から出て行った。


 里村保の顔は悔しさと、情けなさにきっと歪んでいたに違いない。

 木枯が消えた校門を見ながら、ぽつんと佇む里村に小さなボールが転がってくる。

「里村先輩! 捕ってください」

 後輩が投げたボールを里村は受け取ると、そのままバケツに入れた。

 気がついたら、何人もの後輩が散らばったボールを拾っている。

「先輩! ボールが足元に一杯ですよ」

 里村の足元には、たくさんのボールが転がっていた。

 里村は腕を伸ばしてボールをとった。

 その先に写る後輩の小さな姿が、意味なく霞んで見える里村だった。

 木枯龍馬は気がついていない。

 上手い下手ではなく、好きか嫌いかであることを……。

読んでいただいて有難うございます。

次回からいよいよ高校野球が始まります。

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