2.伝説の金網直撃
「ナイスボール!」
それは、野球好きの父とともに始まった。
早朝、近くの神社の境内で里村保の父親の声が飛ぶ。まだ幼い保はその声ににっこり笑う。
それは、誰よりも野球が好きだった里村保の幼い頃からの日課だった。
朝早くに起きて、近くの神社まで走る。神社には長い階段があった。階段を息を切らして駆け上り、眠い目をこすりながら父親のグラブめがけて全力投球。
里村幸次郎は仕事前のひと時だったが、毎日、毎日、休むことなく繰り返された。
雨が降ろうが、雪が降ろうが、一日も休まない。
里村保は投手になりたかった。小柄ながら大きく振りかぶるフォームからストライクが父のグラブにおさまった。
「いいぞ!」
嬉々とした声がはずんだ。
ピッチャーはコントロールが命、幸次郎の信念だった。
小柄な保は父の言葉を信じ、スピードを抑え、どこへ投げるべきかを考えた。
身体が大きくなり、力がつけば自然とスピードはついてくる。
父はそう言い続けた。
里村保の腕が振り下ろされると、父親の構えたところをめがけ、糸を引くようなストレートが伸びる!
「よっし!いいボールだ」
父の声が跳ねた。
「父さん、遅いよ。早く、早く」
保は父をせかせる。
幸次郎も保のために、その身を省りみることはなかった。
「保の体のことも考えてね。擦り傷だらけなのよ。この前なんか熱があるのに無理させて……」
母は保の体を心配して父親に苦言を言うこともあったが保は平気だった。
毎日ボールが握れることが嬉しかったのだ。
練習を重ねていく日々は、光陰の如く、瞬く間に過ぎてゆく。
小学校四年生の頃になると、町でも野球の上手な少年として注目されるようになり、リトルリーグが主催する少年野球大会では、リーグに所属する近くの商店街ガイドツアーズの選手として活躍していた。
里村は投げてよし、打ってよしの野球少年のヒーローに成長していたのだ。
そんな日曜日の昼下がり、里村のライバルとなる少年と偶然出会うことになる。
里村保は練習試合のために、近くの広場に急いでいた。
住宅街の曲がり角を駆け足で曲がったとき、自動販売機前で立ち止まっていた見知らぬ少年の足に、里村保のスポーツバッグが当たった。
バッグは里村の手を離れ、少年の足元に落ちた。
少年はいきなり足に当たったバッグに身体をよろけさせながら、恐い顔をして里村保をにらみつけた。
「ごめんなさい!」
里村は反射的に謝った。そして、少年の足下に落ちたスポーツバッグを拾おうとしたとき、少年はスポーツバッグを、右足で二度三度と踏みつけてから、目の前の里村を突き飛ばすと「見えない目なら、抉り出したらどうだ。バカ」と悪態をついて立ち去った。
里村は踏みつけられたバッグを拾うと、少年のうしろ姿を目で追った。怒りのこもった大きな背中が里村を威圧する。
里村はバッグを脇に抱えて、少年と同じ方向へ歩き出した。
近くの家の玄関口で、植木に水をやっていたお爺さんが、里村保に声をかける。
「今日も試合かい?」
「はい、そこの公園で」
「そうか、それは大変だ……これが終わったら直ぐに見に行くか」
ホースからはじき出される水の音が涼しげに聞こえ、水泡があたりに散らばって、松の木の葉を輝かせた。
町の一角に高い緑色のフェンスに囲まれた草野球場があった。
「里村のお兄ちゃんは野球が上手だね」
試合のあるグランドに、里村保が姿を見せると子供たちが一斉に集まってくる。
近所の子供達とっては野球の上手な保はヒーローで憧れだった。
里村保のチームは地元の商店街の子供ばかりの、商店街ガイドツアーズというチームだ。
対戦相手の熊の木ベアーズは、地元でも力のある少年が目標を持って集まっている強豪チーム。
里村保が何気なく見た相手チームの中に、さっきの少年がいた。少年も里村に気づいたのか、睨みつけるような視線を向けていた。
試合開始だ。
ぱらぱらと少ない観客から、拍手と歓声が響いた。
守備につく選手たちがグランドに散って、里村保がマウンドに登った。
太陽が照りつけ、汗が目に入らぬように吹き出る汗をタオルで拭いた。
商店街ガイドツアーズは無難に一回を抑え、保がマウンドからベンチに帰えろうしたとき、背後に鋭く射抜く目を感じた。保が何気なく振り返ると、あの少年がマウンドに足をかけようとしている。
無表情にバッグを踏みつけた少年の氷つくような表情を思い出し、保の心が沈んでいった。
別に優しさなど望んではいない。
どうしたらあれほど冷たくなれるのだろうかと、まだ少年の里村保には分からなかっただけだ。
一回の裏の商店街ガイドツアーズの攻撃。
簡単にツーアウトをとられたあと、三番バッターは内野のエラーで出塁。
四番を打つ里村保は試合が始める前に、監督に言われた言葉があった。
「ベアーズのエースは木枯龍馬だよ。ストレートが速いから振り遅れるな」
里村は驚いた。
木枯龍馬は少年野球では知らぬ者がいないほど有名だったからだ。
里村は木枯の挑むような目線を避けながら、ゆっくりと左バッターボックスに入った。
木枯はマウンド上で右足を二度三度踏みつける仕草をして、右手のボールを一度上に投げてからキャッチャーに対した。
里村はバッグを踏みつけられた思いがよみがえり、自信満々の木枯に気負けしている自分を振るいたたせるために一度バット振った。
木枯は一塁ランナーを牽制してから、里村に対して第一球を投げた。
里村の胸元を抉るようなストレートはホームベースの一角をかすめた。
里村がバットを振ることができないほど伸びのある速い球だった。
続く二球目は里村がボールと判断して見送った。
ストライクが一つ、ボールが一つ。
悠然と見送った里村に対して、木枯のプライドに火がつき、目が厳しくなった。
そして、伝説となる三球目が、木枯の手から投じられた。
木枯の火を吐くようなストレートが、今まさにキャッチャーミットに吸い込まれようとしたとき、里村保のバットが風音すらたてず、静かに弧を描いた。
乾いた音がして、バットから弾き返されたボールは、外野の遥か後方へ飛んでいった。
刹那、木枯龍馬は打球の行方を振り返ること無く、膝に手を置いたまま動こうとはしなかった。ボールはそのまま、センターの金網の最上段に鈍い金属音を響かせて突き刺さった。そして金網にめり込んだボールは二度と再び地上に舞い落ちてくる事はなかった。
野球少年たちは信じられないという表情で、センターの金網のボールを見上げた。それは草野球場の伝説のひとつとして、いつまでも語り継がれていく事になる。
里村保はその感触を決して忘れないと思った。
木枯龍馬の人を刺すような目と、心の中を抉り、霊気すら感じるボールとともに。
木枯龍馬は唇を噛んだ。信じられないという思いは、消すことが出来ない記憶として、心のどこかに隠されることになった。
試合は続いた。
時々、歓声が轟き、塁上を少年が駆け回る。
道を急ぐサラリーマンが足を止め、試合の経過とともに動けなくなった。ピザの配達員が時間を気にしながらバイクを停めていた。
足音が騒がしくなる夕刻。
道路を往来する車の数も増していく。
試合はそんな時刻に終わった。
「なんであんな奴に‥‥」
輪になって喜んでいる商店街ガイドツアーズの選手たちを、その中心にいる里村保を、木枯龍馬は悔しそうに睨みつけていた。
大きな板を張り合わせて作られているスコアボードには3対0で商店街ガイドツアーズの勝利を知らせている。
3点はことごとく里村に打たれた失点だった。
木枯龍馬は里村保の投げるボールにかすりもせず、完璧に抑えられてしまった。
里村の大して早くもないボールが、なぜ打てなかったのか。
木枯の自信は揺らぎはしなかったが、気分は落ち込んだ。
熊の木ベアーズの他の選手達は思いのほかさばさばとしていた。
「里村ってそれほど大きくないし、凄いボールでもないのに、なぜか打てないんだ」
「あのフェンス直撃のホームラン見たか?」
「まあ、上には上がいるって事じゃない」
木枯龍馬をちらっと見て誰かが笑った。
「何であんなやつに‥」
木枯龍馬には、誰の声も聞こえていなかった。
口を強く結び黙って里村を見ている目は、悔しさに震えているようだった。
「気にするな。今度勝てばいいんだ」
熊の木ベアーズの監督が木枯の肩を二度ほど叩いてから、里村のところにゆっくり近づいた。
「いや、フェンス直撃のあのホームランには驚いた」
笑いながら声をかける。
里村は恥ずかしそうに、帽子を取って頭を下げた。
「うちの木枯のボールを、あんなふうに打ち返えしたのは君が初めてだよ。何年生かな」
「小学4年生です」
「じゃ、木枯と同じ年か。ホームランも凄かったが、とにかく今日は打てなかった。君の投げるボールは魔法がかかっているみたいに、ベアーズの選手のバットをかすらせなかった。こんな選手が商店街ガイドツアーズにいたなんて、驚嘆に値する」
誉め言葉を連発するベアーズの監督に、里村は首が痛くなるほど上を向き続け、笑顔を返すことが精一杯だった。
「なんなら熊の木ベアーズにスカウトしたいよ」
嘘か誠か、ベアーズの監督の笑顔は破顔一笑とはほど遠く、里村保には素直に共感できる素敵な笑顔とは言い難かった。
「そんな……」
後込みする里村の肩を、熊の木ベアーズの監督は強く抱いた。
「そうだ! 来月、リトルリーグの強豪チームから練習試合を頼まれているんだけど、一度、うちのチームの一員として出場してみてくれないか。今のベアーズの実力では勝てる確率は極めて低いんだ。いくら練習試合でも勝ちたいからね。君が投手として出たら勝てるかも知れないよ。熊の木ベアーズの秘密兵器になってくれよ」
「秘密兵器って……」
「いやいや、もう一度見てみたいんだよ。君のプレーを」
「はい、僕は別にいいですけど‥‥お父さんに聞いてから」
里村保の目が少し離れたところに立っている父親、里村幸次郎に向いた。
「そうかい……それは嬉しいな。今日の君のプレーは本当にグレートだった」
熊の木ベアーズの監督はそう言いながら、保が視線を向けた方へ歩きはじめる。少し歩いたところで驚いた様子で足を止めた。里村幸次郎も近づいてくる熊の木ベアーズの監督の姿を曰くありげに眺めていた。
相対した男同士、途中で足を止めるわけにはいかない。
二人はお互い健闘をたたえ合い、軽く握手をしてから、熊の木ベアーズの監督が言った。
「久しぶりだな幸次郎。俺だよ、木枯龍之介だ」
「木枯龍馬君は君の息子だと思っていたよ」
「そうか、俺に似てるからな」
「そうじゃない、島村多美子に似ていたからさ」
木枯龍之介は里村幸次郎の言葉に、ことさら反応しようとしなかった。今になって昔話を持ち出す男に、これ以上ない笑い声で答えた。
「商店街ガイドツアーズのエース里村って、君の息子なんだろう」
里村幸次郎は、保のライバルとして現れた一人の少年の父親が、大学野球の同期だった木枯龍之介だったとは、因果は巡る不思議さを思った。
「そういうことになるかな」
「相変わらず、はっきりしない男だな。まぁ、今日は完敗だ。君の息子に完璧にやられたよ」
木枯龍之介は鋭い目を幸次郎に向けた。久しく会った旧友とは思えない凍えるような表情だ。幸次郎は視線を合わせることなく言葉をつないだ。
「まぐれだよ」
「俺の息子は、将来はプロの選手するつもりだ。そのためなら何でもやる。君の息子に邪魔される訳には行かないんだ」
「気にしなくてもいいさ。少年野球の世界で木枯は有名だよ。もうすでに、立っている場所が違うんだ。ただ卑怯な真似だけは、止めてくれよ」
幸次郎が最後に言ったひとことに、一瞬、龍之介は体を硬直させ、眉間のしわが震えた。
しばしの間があって、硬直した体をほぐすように木枯龍之介はぎこちない笑顔を作ると真顔になって切り出した。
「里村保君の力を借りたい」
木枯龍之介はことの詳細を簡単に説明をした。
別に断っても良かった。どちらかといえば、次に続く言葉を聞くまで、断る方に比重を置いた。
「相手は桑原幸之助の息子、桑原学のいる轟キッドスターズだ」
対戦する相手の名前を聞いて、幸次郎は横に振ろうとしていた首を否応なく縦に振った。
轟キッドスターズの桑原学。
世界選抜でエースの称号を賜る少年野球の神童だ。
そして、その父、桑原幸之助は里村幸次郎、木枯龍之介と同じ大学で野球をした仲間だった。
木枯龍之介は親しげに手を上げると、不遜な笑顔を里村幸次郎に見せることなく、そこを立ち去った。
読んでいただき有難うございます。
次回は桑原学に里村が挑みます。




