17.試合開始
「エースが投げられないんだ!」
神崎監督はきっぱり言った。
「守って、守って、守りぬけ! 今までの練習を無駄にするな」
神崎監督の声に魂の力が宿った。
選手たちはベンチの前で思い思いにキャッチボールを始めた。
吉村は4番でファーストを守る。対する東塔学園にはプロからドラフトで上位指名が確実視されている超高校級の桑原学が、その桑原と並ぶ二本柱、魔人球の木枯龍馬、そして中学の時、吉村とバッテリーを組んでいた捕手の大浦大輔がいた。
太陽の日射しは雲に隠れ、灰色のペンキをぶちまけたような空から、小粒の雨が間断なく降り注いでくる。その雨にも負けず超満員のスタンドには、一本の傘も開いていなかった。3塁側では一糸乱れぬ東塔学園の応援が続き、超満員に膨れ上がった球場の全てが、それに呼応するように動き続けた。大豪高校の応援団がいる一塁側ですら、東塔学園を応援するファンが紛れている。それでも一塁スタンドの上では、大豪高校の学園旗を打ち振られ、数少ない応援団の中には里村の母と妹の姿もあった。しかし東塔の整然たる大応援団の中にあっては砂浜に落とした一粒の砂に過ぎなかった。
捕手の田代が試合前のトラブルで指を負傷して、二年生の近沢に変更された。
大歓声の中、試合開始のサイレントともに試合が開始され、大豪高校の先発の城戸が、第一球を投げた。
城戸が投げた球はキャッチャーの上を大きく越えてバックネットに当たった。
気持ちを落ち着かせるようにキャッチャーの近沢が要求したボールだった。
二球目投げる城戸の表情がぐっと引き締まる。
小雨をはじき城戸の指先から、白いボールが水しぶきを弾きながら離れた。
気迫の一球はそのままキャッチャーミットに吸い込まれていく。
刹那!
先頭バッターのバットが旋回!
ボールは弾丸ライナーとなって弾き返された。
ピッチャー返し。
ピッチャー城戸の足元に強烈なライナーが襲うと、ボールはピッチャーの右足首に当り、ボールはショートの前に転がっていた。
大歓声はどよめきにかわる。
マウンド上で、うずくまったまま立てないピッチャー城戸が、苦悩の表情を浮かべていた。
(神崎監督の守りの野球。俺はそれが嫌で仕方がなかった。あの時、それを信じて練習していれば、今のボールは取れた)
大豪高校の内野手が、一斉にマウンドの城戸の元に集まってきた。
ベンチの中では里村が心配そうに見つめている。
城戸投手は立ち上がると屈伸運動をしてみた。
「大丈夫、大丈夫」
大声で言うと、内野手は守備位置に戻り、城戸は再びひとりでマウンドの上に立った。足首が痛むのか、二度三度軽くストレッチをしてから、内外野を向いて大きく手を広げた。
監督は一年生の灰谷と2年生の中尊寺に投球練習をするように指示をだした。
マウンドの城戸はキャッチャーに対する前に、一塁を守る吉村にチラッと目をやった。
吉村はただ無言で前を見ていた。
ノーアウトランナー一塁。
城戸の気持ちを弄ぶように、一塁ランナーは大きなリードをとり、走る構えを見せる。城戸はたまらず、牽制球を一塁に投げた。大豪高校のエースである吉村の気持ちを鼓舞するような速い球だった。それを受けた吉村は驚いて城戸を見たが、すぐに何もなかったようにボールを返球した。
城戸も素知らぬ振りで受け取ると、バントの構えをしている二番バッターに対して外角へボールを投げた。
二番バッターはバットを伸ばして、うまく一塁前に転がすと、素早く反応したランナーは二塁に進塁した。
城戸は足に痛みを感じていたが、高揚する気持ちと吉村に対する複雑な思いが絡まって、いけるところまでいこうと開きなることで、気持ちを奮い立たせていた。
東塔学園の三番打者の木枯龍馬が、鋭い目つきを城戸に向け、威嚇するようにバットを高々とかまえた。
ネクストバッターズボックスでは桑原学が大歓声を背に素振りを繰り返すと、ベンチ前では5番を打つ大浦大輔がバットを手にして、中学時代の吉村を懐かしむかのように、一塁方向に目を向けていた。
城戸はチラリと桑原に目をやった。長身の体からは自信が漲り、輝くような光を放って城戸の神経を攪乱する。まぶしさに目をそむけると、二塁ランナーを牽制してから、振り下ろされたボールは桑原に負けてなるかと熱気をはらんで指先を離れた。
魔人木枯龍馬のスイングは城戸の気迫を打ち砕き、弾丸ライナーとなって再び城戸の足下を襲った。咄嗟に反応した城戸は左足を前に出し、体をくの字に曲げて差し出したグラブの先っぽにダイレクトにボールは収まっていた。城戸はグラブを差し上げるや直ぐに振り向いて三塁へ走っていた二塁ランナーを刺そう、左足に力を入れて体をセンター方向へ向けた。
ベースについていた二塁手にボールを投げた瞬間、城戸の左足の側頭部に激痛が走り、ボールは力なくショートの前で跳ねた。二塁ランナーはヘッドスライディングをして無事に帰塁した。ショート近藤はボールを捕るとランナーを牽制しながら城戸のところまで近づき、心配そうにボールを渡した。
城戸はボールを受けとると、駄目だと言うように顔を歪め、キャッチャーの近沢を呼んだ。球審も近づいて来た。城戸が左足を指差した。一見しただけで分かるほど城戸の左足は大きく腫れていた。
城戸は治療のためベンチに下がったが、そのまま投げることは出来なかった。
神崎監督は投手交代を告げた。
マウンドに向かったのは一年生の灰谷一だった。
灰谷は神崎監督を慕って大豪高校に入学した、期待の一年生投手だ。
試合の前日、神崎監督は捕手の田代と吉村を除いた四人の投手を集めた。二番手投手のファーストを守る城戸、一年生の灰谷、二年生の中尊寺高志と、そして里村保である。
「明日、出番があるかも知れんぞ。そのつもりで今日はゆっくり休め」
「吉村はどうしたんですか?」
城戸が聞いた。
「メンバーは試合前に発表する。俺の頭は吉村も君たちも同じだ。いつでも投げられるように体調を管理しておくように」
吉村のことには直接ふれず、神崎監督はそれだけを言って立ち去ったことを城戸から聞いた田代は訝しく思った。これまで通り吉村は東塔学園への登板拒否したに違いない。神崎監督がそのことに何故受け入れたのかを深く考えず、田代はここにいない吉村の身勝手な行動と考えの甘さに怒りを覚えた。監督の話しが済むと全員が練習に戻ったが、灰谷ひとりが監督を追った。
「監督! 東塔に投げたいです。抑える自信があります」
灰谷は神崎監督に自信満々に言った。
神崎監督は自己を強烈にアピールするぐらいの投手が丁度いいと思っていたし、灰谷のように自信を漲らすタイプを嫌いではなかった。
投げる球の強さほどに強くない吉村の気持ちを考えると、投手はそうあるべきだとの思いは強くなる。
監督の前にたつ灰谷の姿は、恐い者知らずの心意気が体中から漲っていた。自己陶酔の自信過剰だけではなく、全国へ名前を売った中学時代に培われた経験と実績が縦糸としてあった。
「自信?」
神崎監督は灰谷の目を睨んだ。
「はい」
目を背けず力の宿った灰谷の目は、今にも火を噴きそうに見開かれていた。
「考えておく」
神崎監督の一言は灰谷を上気させた。
一年生ながら東塔学園を抑えでもしたら、俺は一躍甲子園のヒーローになる。そう思うと自然と笑みが漏れた。
灰谷はベンチ前の投球練習の時も冷静だった。監督の指示を受けマウンドに立った時も高ぶる気持ちと、適度な緊張感が心地良かった。
投球練習が終わって捕手の近沢が走りよった。
「あとは先輩が控えてるから、思い切っていこう」
灰谷はハイと答えるかわりに、にやりと笑った。
「大丈夫です。僕が抑えますよ」
近沢は自信をみなぎらせる灰谷に不安を覚えたが、その場は背中をポンと叩いて戻っていった。
神崎監督は一年生とは思えない灰谷の落ち着きぶりと、三年生に混じっても見劣りしない体格に、頼もしげに目を細めた。
ツーアウトランナーは二塁。
局面を確認した灰谷はセットポジションから二塁ランナーを牽制して、四番バッターの桑原学に対して第一球を投げた。
近沢は外角へボールを要求した。しかし、灰谷の手を離れたボールはベースの外一杯をかすめて、小気味いい音とともに捕手のミットに突き立った。
「ストライク」
審判の手が高々突き上げられた。
桑原のバットは一瞬、律動したが、それ以上は動かない。
二球目は内に落ちてくる落差のあるカーブに桑原はタイミングが合わず、バット波打つように空を切った。
ツーストライク。
灰谷は三球目を投げようとした時、それまで経験したことのない、後頭部が燃えるような戦慄をともなった視線を感じた。はたして桑原がバットを強く握り、さあ来いとばかり灰谷をにらみつけていた。
近沢は闘志を表に出した桑原の気勢を削ぐように、ホームベースを大きく外れて構えた。
近沢は灰谷の自信とは裏腹に捕手としての冷静な判断から、桑原をツーストライクと追い込んだが、真っ向勝負は危険だと判断していた。桑原は歩かせてもいいつもりで、三球目を外すと、四球目もボールを要求した。
灰谷は首を横に振った。
近沢はしょうがないと外角低めへ構え、ミットを下へ落とし、高めへは投げるなと指示を出した。さすがに自信の塊である灰谷のボールは力のこもった球だった。近沢の指示通りに外角低め一杯にスピンのかかった真っ直ぐが、風を切り裂いてストライクゾーンに飛び込んでくる。右手の先に残る手応えに灰谷はマウンド上で踊っていた。
捕手の近沢は桑原のバットが鋭く振り出されるのを見るまでもなく、灰谷投手の指をボールが離れた瞬間に目を瞑っていた。目を開けると桑原のバットから弾かれたボールは鋭いライナーとなって灰谷の頭部をかすめ、前進守備のレフト前に弾んでいた。レフトの安井は素早くボールの処理をすると三塁へ投げた。当たりが良すぎて二塁ランナーは三塁へ進塁したが、ホームに帰ってくることはできなかった。
ツーアウト一塁、三塁。
大豪高校はいきなり大ピンチを向かえることになった。
灰谷投手は自信満々で投げたボールを軽く打ち返されたことに、内心肝をつぶした。バッターボックスに入ろうとしていたのは大浦大輔だった。中学時代の盟友である吉村に視線を投げてから投手を睨みつけるようにバットを構えた。大浦の眼光と構えたバットから放出されるエネルギーに灰谷は冷静さを失いかけていた。自信は一歩高見に上って自らを信じること、それが木っ端微塵に粉砕されて、二歩も三歩も下がっては、後は風に舞うカンナくずと同じだ。
捕手の近沢の耳にはつんざくような東塔学園の大応援の声が絶え間なく聞こえ、マウンド上の灰谷が別人のように落ち着きのない態度に見えた。
近沢捕手はタイムを取り、監督のサインを見てから灰谷に近寄った。
「このバッターは桑原以上に危険だ。歩かせるぞ」
灰谷は頷くと、肩から力を抜くように息を吐いた。完全な敬遠ではなく、大きく外しながら歩かせる。
近沢は右バッター大浦のバットが届かない、ホームベースの外にグラブを構えた。さらにグラブを外へ外へと動かした。灰谷は大浦の外角へ外すべく投げたストレートは、スライダーのように外へ流れ、あわてた近沢が横っ飛びでボールを取った。灰谷投手は勝負を避けたボールすらコントロールことができなくなっていた。神崎監督の指示で近沢は立ち上がり、大浦大輔は敬遠の四球で出塁した。東塔学園はツーアウト満塁の大チャンスを迎えた。
近沢が監督を見るまでもなく大浦大輔に四球を出したところで、再びピッチャーの交代が告げられた。
大豪にとっては、頼みの綱であった城戸が負傷退場し、あわやの期待で送り出した灰谷投手が自滅し、投手にかかる重圧が大きな場面での交代は、残る投手の力から考えれば、試合になるかならないかの試練の場であった。
この時、大豪高校には格好をつけることのできる投手は吉村しかいない。大豪高校の選手の誰もが吉村に投げてほしいと期待した。だが一塁から吉村は動かない。
神崎監督は吉村を見ることなく伝令に小声で告げた。
「ピッチャー中尊寺」
ベンチ前では中尊寺と里村が投球練習をしていた。
神崎監督はピッチャー中尊寺と告げた時、落球の痛みに耐えられず、最後の夏を知ることなく野球を止めた一人の選手の姿と、同じ二年生である中尊寺を重ねていた。
中尊寺には、まだ来年がある。
最後の夏がある。
神崎監督は交代を伝えようとした伝令の肩を抱いて、今度は誰にでも聞こえるような大きな声で言った。
「ピッチャー、里村。背番号18番」
勿論、監督の声は里村にも届いた。
神崎監督は里村に近づき、ご苦労さんの意味を込めて、肩を二度叩いてから送り出した。
土壇場に追い込まれ、修羅場に向かおうとする里村に、言葉など必要がなかった。
一塁ベンチ前から、里村は駆け足でマウンドに向かった。
走る里村の姿を神崎監督は一塁を守る吉村とダブらせて見た。
「俺の最後の夏が終わる。終わるというのはこういうことなんだ。結局、最後まで俺らしい」
独り言のように呟いた。
里村はファーストの吉村と交差した時、飯田英子から預かったお守りを吉村に渡した。
「飯田さんから、預かった」
吉村はお守りを受け取るとズボンの後ろポケットに入れ、里村を見ることなく天を仰いだ。その耳に小さな雨粒とともに微かな声が降り注いでくる。
「今投げたら肩を壊すよ。医者として断固としてストップをかける!」
「どんな薬でもいいです。痛みを止める薬をください。投げたいんです。この試合はどうしても……」
「気持ちは分かる。最後の夏だから、だから君には投げてほしくない。最後の夏を感傷とともに終わらせたくないんだ。今回無理をすれば、二度と投げられなくなる可能性だってある」
吉村はマウンドに立った里村を静止できなかった。経験の少ない里村が強豪東塔の強打線につかまり、火だるまになる姿だけが目に浮かぶ。スタンドは小柄な投手の登場に期待と落胆が交じり合い、失笑にも似たざわめきがウエーブのようにスタンドを巡った。
「投手の交代をお知らせします。灰谷君に変わりましてピッチャー里村君、背番号18」というアナウンスに里村の母と妹は驚き、お互い見合いながら胸をドキドキさせた。
母の手のなかには死んだ保の父の遺影があった。
それを胸の前に当てて「お父さん、保を助けてあげて、お願い」と小さく呟いた。
東塔学園のスタンドからは「エース吉村はどうした?」と大きな声が飛んでくる。
スタンドには入らず球場の外で、霧雨をしのぎながら友人と談笑していた飯田英子はそのアナウンスをぼんやりと聞いていた。
「へぇ、里村君が投げるんだ」
英子の独り言は友人の言葉によって遮られた。
「ねぇ、英子。、ソフトクリーム食べない?」
「いいね、食べよう、食べよう」
飯田英子は友達の後を追って売店へ向かった。
センター後方のあらかしの木の下にいた黒ずくめの男は、里村が登板するアナウンスを聞くと小さく頷き、人混みの隙間へ足を踏みだした。投球練習をしようとしている里村の姿を見つけ、サングラス映る投球フォームを見て、黒ずくめの男の表情は穏やかに変化した。
男は手に持っていたクルミを強く握ると、ガリガリという小気味いい音がした。
里村が投球練習を終えると、マウンドに内野の選手が集まった。
「落ち着いて行け」
「打たせろ。あとは守ってやるから」
「相手は東塔だ。気楽に行こう」
内野手が声をかけると、捕手の近沢がにこりと笑った。
「里村先輩、今日は名刀菊一文字の切れ味で勝負しましょう」
これには里村も苦笑いだ。
気合いを注入した里村だったが、なぜか一塁手の吉村だけは、一歩離れて輪の中には入ってこない。
里村は入院した片山緑から貰ったお守りをグラブに縫いつけていた。そのグラブに顔に当てて、目をつぶった。
一回が始まったばかりだというのに三人目のピッチャーを送りだした大豪高校。
ツーアウト満塁の大ピンチ。
どんな大投手でも、気の滅入る場面だ。
里村はマウンドの上で大きく深呼吸をした。
そして天国の父に届けとばかり上をみた。
あのとき耐えた涙がひと筋、父の笑顔とともに流れた。
里村はそっと汗を拭くそぶりで涙をぬぐうと、ロージンバックに手をおいてキャッチャーのサインをみた。
近沢のサインは外角へストレート。
ゆっくり振りかぶった里村は、外角低めヘ第一球を投げた。
近沢が構えたところへ、やまなりのストレートがきた。
バッターは強振。
ボールはそのままキャッチャーの構えたところにストンと納まった。
空振り。
東塔のベンチからは「ボールは遅いぞ、当てて行け」と声が飛ぶ。
第2球を里村が投げた。
左投手特有の大きく外角に逃げるカーブが低め一杯に入った。
第3球目は外角に大きく外し、近沢は勝負の第4球目を内角に外す指示をした。
里村は外角に外そうと思っていたから、一瞬の迷いは内角に甘いボールを呼び込んだ。
それを見のがす東塔の6番バッターではない。
快音とともに弾き返したボールは左翼ポール目がけて伸びていった。
満塁ホームランか。
歓声とため息。
右か左か。
ボールはポールの僅か左に切れていった。
大豪高校には心胆寒からしめる大ファールであった。
「余計なことを考えずに、投手は捕手のグラブ目がけて投げろ」
背筋に電流が走った里村に、父の声が聞こえたような気がした。
近沢はやはり、右バッターの内角に低めにボールを要求してきた。
今度は里村に迷いは無かった。
内角低めに力一杯のストレートがきた。
バッターはバットに残っているあわやホームランの感触を頼りに強振すると、バットはクルリと回転しバッターは東塔大応援団のため息の餌食となり悔しそうに膝を折った。
大豪高校の応援団から、にわかに大歓声が上がった。その大歓声の正体が何なのか、球場の人垣の外でソフトクリームを食べている飯田英子には勿論分るはずはなかった。
読んでいただき有難うございました。
次回は読んだからのお楽しみ