16.許された15球
三年生最後の夏。
エース吉村は悔しい思いを腹の中に包み隠した。それは、俺は投げたいという強い気持ちを封印したのとなんら変りはない。
吉村が肩の痛みを感じ出したのは、高校に入学する前からだった。
今思えば、東塔学園が吉村をスカウトしなかったのは、その辺りの確かな情報を持っていたからだろう。
最近は肩を休ませながら、騙し騙し投げてきた。
今度は医者から完全ストップがかかったのだ。
診察室の浅黄色のカーテンがクーラーの風に微かに揺れていた。
窓際に置かれているモンステラの葉は、吉村隼人の心を見抜いたように、ボールを握った手の形をしている。
「無理するな。今、無理すれば全てを失うことになる」
パソコンに向かう医者のうしろ姿が吉村には苦々しく感じた。
「全てを失うんですか」
「そうだ。乱暴な言い方をすれば右肩が壊れると思え! 私は君の肩を中学生の時から見てきたんだ。今、無理したら一生を棒に振ることになる。甲子園が君の夢なのは分かるが、野球人生をここで終わらせたくはないだろう」
小さな丸い椅子に座っていた吉村は、そのとき立ち上がりたい衝動にかられた。
「初戦の東塔学園の試合だけは、何とか投げたいんです」
速球を投げ込むいきおいで声にも力がこもる。
「東塔学園だろうが、ニューヨーク・ヤンキースだろうが同じだ。私の知った事じゃない」
「ここを避けたら一生悔いが残ります。肩が壊れてもいいから投げたい」
壊れてもいいと言う吉村を不思議そうに見つめた医者は、その右手を取った。
その手の人さし指と中指にはマメが固まりタコになっていた。
「君がそんなことを言うなんて、不思議なこともあるもんだな。これまでは私の指示に従って、一度だって無理したことなんか無かっただろう」
「ここで逃げたら、二度とボールは握れない気がするんです」
「そんな、安っぽい感傷は君らしくない。もっと理性的に物事を判断できるはずだ」
「いつも、先のことを考えていた。でも先のことなんか考えない奴もいるんです。今、その時を精一杯生きてる奴が。他の事は何も考えないで……」
吉村の頭には暗くなっても一人で壁に向かって投げ続ける、一度も公式戦のマウンドを踏んだことが無い、一人の投手の顔が浮かんでいた。
「先を考えない奴は結局損をする。一時の感情で動いても、そんなものは誰もは見ていないし、人として大して評価されないからだ。見ているのは看板なんだ。医者という看板、プロ野球選手という看板なんだ。君の言う高校野球の一回戦で花と散ったところで何が残る。
この先ボールが握れない男が一人、霞みの中にいなくなるだけだ。それに君は母子家庭だろう? なおさら身体に気をつけてプロ野球を目指せ! 君にはそれが出来ると思うからあえて言っているんだ。お母さんを楽にさせてやれ!」
吉村は身体を震わせていた。ぐっと目をむいて狭い診察室の中でキーボードをぎこちなく叩く医者を見ていた。
目に涙は無かったが身体が泣いていた。
そんな吉村を医者は真剣な眼差しで診た。
心の中の、さらにその奥を。
吉村隼人が何を感じているのかを探ろうとした。
「これを見ろ!」
医者は左手を見せた。その手には一本の五寸釘が握られていた。
「鬼になるために私はこれを握っている。甘い言葉が出そうになったら、この釘の先で手のひらを刺す。その痛みで私は鬼になれる。そうでもしないと私のような人間には医者は勤まらんよ」
医者の手がきつく握られた。
指の間から一筋の血が流れた。
里村保は練習を終えた帰り道、外科病院から出てくる吉村を見た。
その病院は大豪高校の指定病院ではなかったが、吉村は肩の故障を知られたくないために、少し離れた病院に通っていた。
里村は少し前を歩く吉村に声をかけようか迷ったが、病院から離れたところで声をかけたほうがいいと思い、しばらく距離をとって歩いた。
「吉村」
里村から声をかけられた吉村は、別に驚いた様子も見せず振り返った。
「よう、里村。練習の帰りか?」
「居残り練習をして、今帰りなんだ。暗くなると練習にならないから」
里村は吉村に近づくと、なおも続けた。
「最近投げてないみたいだけど、どうしたのか、皆が心配してる」
「俺が逃げるんじゃないかと、心配しているわけか」
「そういう意味じゃ」
里村は罰が悪そうに頭に手を置いた。
「まぁ、当たらずとも遠からずだ。じゃな」
吉村はそう言って里村と別れ、角を曲がっていった。
里村は手を振ってからも、しばらく吉村の姿を目で追った。いつもと違い吉村のうしろ姿が揺れているように見えたからだ。
里村保が小さくため息をつき、歩き出そうとした時、飯田英子が里村の肩を叩いた。
「なんか言ってた、あいつ」
吉村の事を飯田英子はあいつと言った。
里村にはそれが親しみの表現に聞こえる。
「俺が逃げるんじゃないかと、笑っていたよ」
里村は吉村の言葉にフォギーをかけた。
飯田英子はもう見えない吉村の姿が、まだそこにあるようにつぶやいた。
「あいつが病院で何を言われたのか知らないけど、今まで、どうだったのか知らないけど……信じて欲しいの。今度の東塔学園の試合には無理してでも投げたい、あいつの気持ちを。もしも投げなかったとしても、それは、決してあいつの本心じゃ無いという事を」
「勿論、信じるよ。大豪高校のエースは吉村だから」
「エースなんだ、あいつ! でも壊れやすいガラスのエース」
「いや、吉村は」
「あいつは壊れやすいから、壊れたら里村君に頑張って投げて欲しいわ」
飯田英子の言葉の一つ一つに吉村を心配し、励まそうとする想いがあった。
里村は心底、羨ましいと思った。
「三年生の最後だから、何とか投げたいけど、出る出ないは監督の決めることだから」
「あいつが言うのには、里村君の球は見かけより、すごく美味しいって」
「美味しい? それは吉村に一杯食わされてるよ」
「甲子園って遠いように思ってたけど、そうでもないかも、たった5回勝てばいいんだから」
「そう、そうしたら甲子園に行ける」
「あいつに作ったお守りを里村君に預けとくわ。もし、あいつが投げることがあったら、渡してあげて……」
飯田英子は鞄から、可愛い花の刺繍をあしらったお守りを里村に渡した。
「直接渡せば喜ぶのに」
「受け取らないのよ。俺は投げないからって」
二人の影は吉村の姿が角から消えても、陽炎を見るように、電灯の灯りの中に映し出されていた。
吉村はその足で神崎監督の家に行き、医者の言葉と投げられない自分の胸のうちを語った。ただ、医者に訴えたように、どうしても投げたいという切なる思いは隠していた。
「そうか、じゃピッチャーを、ひとり入れないと駄目だな」
神崎監督の言葉に、吉村は戸惑うことなく答えた。
「里村は駄目ですか?」
「里村か……」
「里村をピッチャーとしてベンチに入れてください」
吉村の珍しく直向な表情に神崎監督の気持ちが動いた。
「わかった、それは考えておくが、ここに来て吉村が投げられないというのは、私の一生の不覚だ。それは君の肩のことを、気にかけなかった私の至らなさが招いた事だが」
静かな時間が過ぎ去っていく。
神崎監督は肩を落として帰っていった吉村を、自分も含めて運のない男だと思った。ただ、悩んでる時間はない。
時は一分たりとも止まってはくれない。
その時、自らを運の無い男とあきらめるには、少しばかり早すぎたことを神埼監督は知るはずもなかった。
「吉村、一イニングだけならいいだろう、いや二十球、いや十五球だ」
医者は手から血を流しながら、微かに頷いていた。
吉村はニッコリ笑った。
別に駄目だといわれても投げる気だった。
「里村は一球でも投げたいと言う。俺には十五球、投げる球があるんだ」
読んでいただき有難うございます。
次回は、いよいよ東塔学園との試合が始まります。
奇跡の幕開けです!