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14.吉村隼人の選択

 東塔学園の大浦おおうら捕手は吉村の同じ中学出身でエース吉村の女房役を担っていた。


 中学の練習が終わった帰り道、本通りに通じる土手道を歩いているとき、友人同士でもあった吉村と大浦に見知らぬ男が近づいてきた。

「私は東塔学園野球部広報担当の大山田と申します」

 男はにっこり笑うと、腰を低くして二人に話しかけてきた。

「東中学野球部の大浦君と吉村君ですよね」

 やや高めの声が鼻を通して聞こえる。

「そうですが、何か?」

 吉村が素っ気なく言うと、大浦は驚いたように声をあげた。

「まさかスカウトされちゃうとか」

「そのまさかのために、私はここにいます。この地区では、大浦君と吉村君のバッテリーの力は抜けていますから」

 スカウトの大山田は資料なのか、使いこまれているノートをのぞき見ながら話し、相手に警戒されないように、決して笑顔は絶やさない。

「まじですか?」

 吉村の顔と大山田の顔を交互に見る大浦の表情は、興奮に満ちていた。吉村は表情を変えることなく成り行き任かせと佇んでいる。

 吉村は東塔学園のスカウトと聞いて嬉しくはあったが、それを素直に喜べない理由が吉村のクールな一面を際だたせた。

「この日、日曜日かな……私と東塔学園の関係者がお宅を伺います。それまでご両親と相談しておいてください」

 一枚の紙を無造作にちぎって大浦に渡した。

 スカウトの大山田は直ぐに吉村の方を見た。

「君のストレートは東塔学園のレギュラーでも打てないと思うよ。一年からエース候補ナンバーワン!」

「ちょっと、吉村目当てかよ」

 大浦はオーバーに嘆いた

「いや、大浦君あっての吉村君だろう」

 スカウトの大山田は大浦をみてニヤリと笑った。


 白い雲がぽっかり空に浮かんでいる。

 河川の土手で寝そべっている二人の気持ちも、雲のように空中にふわふわ浮かんでいた。

「吉村、東塔学園だぜ」

 大浦は嬉しさに、少し声が震えた。

 吉村は何かを考えているように黙っていたが、頭の中ではいろんな思いが錯綜していた。

「東塔の練習は、寝る間もないくらい厳しいらしいぜ」

 東塔学園で野球をするという事は地獄の練習に身を投じることだった。大浦はともかく吉村はそれに耐え抜く自信はない。中学3年生の半ば頃から感じ始めた肩の痛みは、時に勢いを失うボールとなって大浦のグラブに収まった。たぶん一過性のものだろう、いつか直るだろう と大浦にも言わずに黙っていたが、失速する吉村のボールに首を傾げた大浦は、その事を追求すると、吉村は渋々肩の痛みを伝えた。痛みが吉村の総合的な減点となるほどの大げさなものではなかったが、吉村のモチベーションを下げる要因のひとつだった。このことは大浦だけが知る吉村の秘密だ。

「東塔の練習の厳しさは有名だ。俺もそれを考えると、嫌にもなる」

 吉村の言葉の真意を、受け損ねた大浦は厳しい練習に根をあげる自分の姿を想像した。吉村は肩の痛みを道ずれにして東塔学園の練習をこなすのは、到底無理だと思っていたのだ。それ以上に吉村の胸には、わだかまる母と子の暮らしがあった。

「東塔学園は学費が高いので有名だろう……」

 吉村の本音がもれた。

「吉村は母子家庭だったな、でも、スカウトされるって事は学費免除の特待生かも」

 大浦は吉村の気持ちを察した。

「それはどうかな……」

 吉村の複雑な気持ちが大浦には理解できたが、東塔学園で吉村隼人の球を受けたい気持ちが強い。

「一緒に東塔へ行こうぜ」

 大浦の言葉に吉村は即座に答えられなかった。

「大浦と一緒に野球をやりたいのは、俺も同じだよ」

 少しの間を置いてから、吉村は答えた。


 吉村の家は母一人、子一人の母子家庭だった。

 母は朝早くから、夕方近くまで働き、それから家に戻って食事の用意をし、練習が終わって夜遅く帰ってくる息子を待った。

「俺は東塔が誘ってくれたことを素直に嬉しいし、チャンスだと思って東塔へ行くよ」

 大浦は強い決意を吉村に披露した。迷っている吉村に一緒に行こうとの強い誘いでもあった。




 その夜、吉村は母親と遅い夜食を食べていた。

 吉村は冗談のように母親に言った。

「東塔学園がスカウトにきたらどうしようかな」

「東塔学園って?」

「何人もプロの選手が出ている、全国でも有名な高校野球の名門」

「そんな高校が隼人をスカウトするかしら」

 母は微笑んでいたが、話しには乗ってこなかった。

「もし、スカウトが来たらって話だよ」

「そうね、そういう話なら」

 母は何となく天井の揺れる蛍光灯を眺めた。

 古い文化住宅の天井はミシミシと音を立てていた。

 二階の住人が動くたびに、足音が振動となって響いてくる。

「東塔学園に行ったらいいじゃない」

「でも、あそこは金持ちの学校だから、学費が高いので有名だよ」

「大丈夫! そんな事なら心配しないでいいから」

「ほんと? 行っていいの?」

 吉村は嬉しそうに母を見た。

 母はそんな吉村の声を聞きながら、お茶を入れるために立ち上がって狭い台所へ向かった。

 母はお茶を入れながら、霞む目で隼人を見つめた。

 身体の大きな吉村隼人が食事をする時は、四畳半の部屋が小さく見える。奥には吉村が寝ている六畳の部屋があった。

 目指せ、甲子園!

 吉村が書いた手書きの文字が壁に貼ってある。

 甲子園が吉村隼人の夢なのだ。


 母は涙が出た。

 それを吉村に見せないように後ろを向いた。

「もし、来たらって話しだから……それに正直、東塔学園に行きたいと思わないよ」

 隼人の大きな声が台所の母に聞こえた。

 母は東塔学園が吉村を入学させようとしているのを知っていた。昼に東塔学園のスカウトが吉村の家を訪ねていたのを、隣の住人が教えてくれたからだ。学費のことを気にして、東塔学園に行かないと考えている息子の気持ちを思うと、母は涙がでてくるのだった。

 しかし、学費が高いと有名な私立の名門、東塔学園に入学するだけのお金を工面する事は現状では無理な話だった。

「美味しいお茶が入ったわよ」

 台所から母の声が聞こえた。


 そして、約束の日曜日が来た。

 吉村はスカウトの事を母には言っていなかった

 いつもなら、友達と遊びに出かけるのに、今日は家にいる隼人に母は不思議そうな眼差しを向けた。

「どうしたの、今日は遊びに行かないの? 熱でもあるの?」

 昼になってもスカウトは来ない。

 確か、昼までには来ると、言っていたのにと吉村は苛立ちを感じながら、ぼんやりした頭の中を整理していた。

「隼人いるの」

 外から飯田英子の声が聞こえた。

「ちょっと待ってね……」

 母が声をかけて振り向くと、吉村隼人は玄関に出ようとしているところだった。

「なんだよ」

 玄関の戸を開けると、そこには飯田英子が黄緑色のトレーナーを着て立っていた。

「なんだよ、はないでしょう。部屋に閉じこもってるって聞いたから、私のお気に入りのトレーナーを着て見にきてやったのに」

「別に閉じこもっているわけじゃ……それに、大して似合ってないし」

 英子は憮然とした表情で吉村を睨んだ。

「さっき家の前を通った時、隼人いるって聞いたら、寝てるって」

「そりゃ寝るよ。休みの時くらい」

「で、私を見て、眠気も吹っ飛んだかしら」

「眠気どころか、寒気がしてる」

 二人は家が近かったせいで、小さい頃からの遊び相手、吉村は飯田英子には冗談が言えた。二人はしばらく玄関のところで喋っていたが、英子が友達と約束があるとかで、その場で別れると、吉村は玄関口に立ったまま、遠ざかる英子の姿を目で追った。

 東塔学園には行かないと否定していても、どこかでスカウトがくるのを秘かに期待していた。行く行かないは別にして、それは東塔学園が吉村の力が認めた事になるからだ。

 英子の着ていたTシャツの黄緑色が東塔学園のスカウトの被っていた帽子の色と同じで、東塔カラーだと気がついたのは、夜遅くなってからだった。


 夕方になった。

 母の「ご飯食べる」の声で我に返った吉村はさっぱりしたように立ち上がった。

 同時に四畳半の電話が鳴った。

 大浦からだった。興奮気味な声が弾んだ。

「東塔のスカウトが来ただろう」

 吉村に一瞬の間があった。その間に大浦は何かを感じた。

「来なかったのか……」

「ああ」

 吉村の声は沈んだ。

「嘘だろ」

「お前は」

「今日来た」

「決めたのか」

「決めた、でもお前がいかないのなら」

 大浦の言葉の続きを遮るように

「もともと俺は行かないと言ってたろう」

 と吉村は言った。

「それは、そうだけど」

「気にしないで東塔に行けよ」

「でも、俺は吉村のボールを受けたいんだ」

「せっかくのチャンスだから」

「吉村目当てなのに、どうしたんだろう」

 大浦の不安げな声が聞こえた。

「気にするなよ、どこでも野球はできるから」

「でもさ、吉村が相手チームとなったら、俺は吉村のボールを打つことなど絶対無理だよ」

 実際、大浦は吉村のボールをジャストミートで打ち返す事ができなかった。

「心配するなよ。万が一、大浦と対戦することがあっても、その時は、真っ直ぐだけで勝負してやるよ」

「その、真っ直ぐが打てないんだよ」

 吉村は大浦の当惑した笑い声を合図に電話を切った


 電話を終えた吉村は台所にいる母に話しかけた。

「大浦が東塔学園にいくんだって」

「同級生の大浦君が? 隼人も行きたいなら東塔学園に行ってもいいのよ」

 その時は吉村の気持ちはすっかり切れてしまっていた。

「東塔学園には行かないよ」

「野球やりたいのでしょう」

「どこでもできるよ。野球なら」

「甲子園はどこでも出られないでしょう」

「いいんだ、決めたから」

「甲子園が夢だったでしょう」

「県立の高校へいくよ。そこで甲子園を目指す」

 吉村は東塔学園に未練を残してはいたが、これ以上、母に気苦労をかけるのは心苦しかった。

 これが快腕吉村隼人をして、無名の県立大豪高校へ進んだ経緯だ。


 この出来事が東塔学園に対する、吉村の陳腐なこだわりとなり、東塔学園へのコンプレックスだと飯田英子は里村に伝えたのだ。

 素質はあっても、目的に向かって遮二無二に突き進んでいこうとする粘りの欠如と、すぐにあきらめる淡白な性格が、どこか脆さを感じさせる。

 里村保に吉村の素質の一欠けらでもあれば、とんでもない選手になっていたかも知れない。また、吉村に里村の粘りの一握りでもがあれば、結果は違ったものになったのだろう。

 不思議な天の配剤ではあった。


 時はこうして、人それぞれの行く道を定め、高校野球最後の選手権大会へと進んでいく。

 白球の、それぞれの胸に去来する、特別な意味を有する大会が、里村にも、吉村にも、神崎監督にも、もうすぐ訪れようとしていた。

 それは何の気配も無く訪れては去ってゆく、美しくも残酷なセレモニーなのだ。

 一球、一球にこめられた、数え切れない高校球児の勝者と敗者。

 光と影。

 グランドに這いつくばって嗚咽する、泥にまみれたユニフォーム。

 そこにはただ、汗と涙があるだけだ。

 大空に舞う一球の白い球、一瞬の静寂と、その後に待つ歓喜と落胆。

 それは一球の、たった一球の白い球がなせる業であった。

読んでいただき有難うございました。

次回はいよいよ甲子園に向けベンチ入りのメンバーが発表されます。

この物語も終盤にさしかかることになります。

今しばらくのお付き合いをお願いします。

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