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12.鬼面の仏

 場末の赤ちょうちんでは珍しい車海老のおどりが神崎監督の前にでた。

「冗談じゃないよ。こんな高いもの注文してねえぞ」

 神崎監督の声がした

「俺のおごりだ! 今、捌いたばかりの生きのいいやつだ」

 他に客はいなかった。大将は仕込みをしながら、神崎の方を見て言った。

「その海老と一緒なんだ。あいつは、さっきまでみたいに跳ねちゃいないが、生きのいい美味い海老だ」

 大将の言葉に、意味を探る二人は、お互い顔を見合せた。

「海老が美味いのは分かるが、あいつとは誰のことだ」

 大同寺崋山はおでんのコンニャクを箸で突き刺した。

 神崎は車海老を前にして見つめるだけで、箸はまだ出していない。

 下手に手は出せない。一ヶ月の小遣いが吹っ飛んでしまう。

「吉村のことか?」

 神崎が上目使いに、店の大将を見上げた。

「桑原のことだろう」

 大同寺が納得顔でコンニャクを口に運んだ。 

 店の大将は包丁を小気味よく動かしていた。

「大豪の里村のことだよ」

「里村?」

 神崎は意外という表情を作った。

「五、六年前、この商店街に少年野球のチームがあった。その頃、里村はヒーローだったよ」

「なるほど、昔は神童だったという話か」

 神崎が煙草を探すように服のポケットを叩いた。

「これでよけりゃ吸いなよ」

 大将がハイライトを手渡した。神崎はそれを受け取ると、一瞬、戸惑いの表情を表した。

「そうだ。煙草は止めたんだった」

 大将は差し出した手を、持て余し気味に引っ込めると笑みを目に受かべた。

「しけた男だぜ。まったく」

 大将はその煙草を無造作にズボンのポケットに押し込んだ。しけたと言われた神崎は一応反論を試みる。

「昔はどうか知らないが、今じゃ吉村の控え投手、それも三番手、いや四番手……」

 少し酔っているのか、神崎は赤くなった顔をしばたかせた。

「さぁ、遠慮せずに食べな。その動かない海老に箸をつけると、生きの良さに驚くって寸法だ」

 戸惑う神崎を後目にして大同寺は海老の尻尾を掴んだ

「これは美味い。本物だ! 口の中で跳ねてやがる!」


 狭い店だ。うまそうな煮炊きの臭いが立ち上っている。その時、表のガラス戸が音を立てて開いて、若いアベックが入ってきた。

「いらっしゃい」

 生きのいい声が店に充満した。

「若いお客様が来たんだ。賞味期限の切れた吉村じゃ、桑原なんてのたまう暇があれば、さっさとうまい海老でも食えよ。金はいらねえから心配するな」

「吉村が賞味期限切れとは、聞き捨てならん」

 神崎は赤い顔をして大将を見た。その時すでに大将は若いアベックの方に顔を向けていた。

 しばらくして大同寺は神崎の肩を叩いて、勘定を払うと店を後にした。


 数日後、神崎監督は大豪高校野球部の練習中にキャッチャの田代を呼んだ。

「吉村はどうだ?」

「吉村は何か吹っ切れたのか、やる気が出てきたみたいです」

「そうか、里村の調子は悪くないか?」

「里村?」

 予想外の言葉に田代はちょっと戸惑った。

 田代はこの高校には珍しく真面目に野球に取り組むタイプの捕手だ。

 物事を正確に分析し正直に伝えた。

「使えるか?」

「左のワンポイントなら使えないことはありませんが」

「そうだろうな」

「相手を威圧するボールがありません。見極められると、相手は見下してかかります。バッターに余裕ができ、里村に負い目がでます」

「そうだろうな」

 神崎監督は同じ言葉を繰り返した。

「俺もそう思っていた。だから里村をほとんど使ったことはなかった。公式戦のベンチにすら入れなかった」

「それは里村に力がないからです。試合に出たければ、力を示さなければならないと思います」

「ただ、今年の夏は里村を使ってみようと思う」

「ベンチに入れるのはいいですが、大豪のエースは吉村です」

「東塔の桑原、木枯の二枚看板の向こうを張って、吉村と里村の二枚で行きたい」

 神崎監督が冗談なのかニヤリと笑った。

「看板にはならないかも知れませんが、豪の右腕吉村と柔の左腕里村のワンポイントは面白いかも知れません」

 田代は里村を使うと言った監督の言葉に感じるものがあった。

 田代自身、熱心に練習をする里村に、何とか晴れの舞台を踏ませてやりたいと思っていたからだ。分析は冷静かつ正確だが、その内なる思いは違っていたのだ。

 田代が頭を下げて、その場を去ろうとしたとき、神崎は珍しく神妙に話し出した。

「こんな俺も昔は四番バッターだった。お山の大将で相手をいつも見下していたものだ。だがある試合で飄々と投げてくる無名の投手に全くかすりもしなかった。これはなぜだか分かるか?」

「監督の調子が悪かったからではないですか」

「調子云々のレベルではなかった。おそらく千回対戦しても打ち返すことは不可能だった」

 田代は咄嗟に返す言葉がない。

「相手は俺の頭の中を覗き込んでいたのだ。俺が力を入れると力を抜いたボールが来て、力味かえった俺のバットは空を切った。さらに気合いを込めて振り抜いたら、はぐらかされたようにボールがくる。馬鹿な! 俺がこの程度の投手が打てないわけがない。そんな思いは九回まで続いた。気がついたら完璧に押さえ込まれてしまった。俺は何がなんだか分からなかった。それがなんであるか気がついたのは、その男がプロ野球でエースと呼ばれ、相変わらず飄々と投げていた姿を見た時だった」

 そこで監督は言葉を切った。田代は直立不動を崩さず聞いていた。

「俺は里村のボールを受けたことがある。コントロールはいいが、真っ直ぐは伸びないし、変化球は平凡だ」

 監督は里村とのキャッチボールを思い出しながら、ゆっくりと話した。

「ただ、その時は何とも思わなかったが、今、思うと里村の投げたボールは、あの投手の投げたボールに重なる」

「プロでエースと呼ばれる人と、里村がですか」

「あの投手はボールを投げている振りして、本当はボールなど投げていなかったんじゃないか」

「何を投げていたのですか?」

「それは俺にはわからん。おそらく本人にも分からんことだ」

「では、里村は何を投げているのですか?」

「それも分からん、おそらく里村自身も……」

 神崎監督の言葉を聴いて、田代は潮時だと思った。

「監督、そろそろ練習に戻ります」

「今の話は、まだ誰にも言うなよ」

「はい! 吉村を出し抜くには十年かかります」

 田代はそのままグランドに走っていった。

「十年か……たぶん無理だろうが、三年間頑張った里村に、チャンスをやるか」

 監督はポツリと言った。

 甲子園を知り尽くす鬼の神崎は鬼面の下に、仏の面を隠していた。

読んでいただき有難うございます。

次回はついに一回戦の相手が東塔学園に決まります。

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