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11.もう一つの甲子園

 選抜野球大会が終わり、夏の大会までに行われた春の県大会では吉村隼人の不調で大豪高校は一回戦で涙をのんだ。

 里村は正月から始めた猛特訓も身を結ぶことなく、神崎監督の目にも留まらなかった。

 吉村隼人がいる限り、里村の出番はない。

 里村もそう感じていたし、誰もがそう思っていた。

 春の大会後、大豪高校野球部は夏の大会に向けてのチーム編成が行われた。

 吉村がエースで三塁手の城戸が二番手ピッチャー、期待の一年生の灰谷が後につづき、里村は蚊帳の外に置かれた。

 里村保の投げるボールが目の届かないところで、静かに進化を遂げていた、にもかかわらずである。

 連日のランニングと、黒ずくめの男による精神的な内息の強化、フォームの改造、筋肉トレーニングで体力もついた。

 誰が甲子園やねん無心球九号まで完成した。

 悲しいかな、それに誰一人、気づかない。

 甲子園を知りつくす男、鬼の神崎ですら……。

 

 嚢中の(のうちゅうのきり)という言葉がある。

 中国の戦国時代、ちょうという国の大臣 平原君へいげんくんの言葉である。

 力のあるものは、時期が来れば、必ず頭角を現すという意味だが、里村保が力をつけても錐で嚢を突き破ることはなかった。

 問題なのは本人にそれほどの自覚と積極性がなかったことだ。

 練習試合で好投したとしても、先入観で物を捉えがちな人の目には、危なっかしい偶然で済まされてしまう。

 そう思われても仕方がない部分もあった。

 里村が空っぽの心を投げても、打者が見えないのと同じで、人もそれを見ることが出来ないからだ。

 神崎監督にそれを見抜く眼力がなかったとは思えない。

 吉村隼人に賭けていた監督の目の中に、入り込む隙間が無かったという事かもしれない。


 五月が足早に過ぎ去り、六月の空気が湿りだした頃。

 練習後、神崎監督はキャッチャの田代とキャプテンの安井を伴って、近くの商店街のわき道にある食堂にいた。

 テーブルの上には栄養満点の料理が並び、それをかき込みながら田代は口を開けた。

「今年のチームは、何かやりそうな予感が……します」

「食べるか、喋るか、どっちかにしろ」

 安井が笑った。

「俺は……食べながら喋るのが……得意なんだ……」

 田代の口の中から、鳥のから揚げが半分出ていた。

「吉村の調子が上がらないのが、少々不安」

 安井の言葉は神崎監督の眉間に届いた。

「吉村が心配か?」

 神崎監督はざる蕎麦をすすりながら、眉間の皺を深くして安井を見た。

「春の大会は期待したけど、あんな調子だし」

「春はさっぱりだった」

「それに最近、吉村の投げる球が生きてない」

「練習もさぼりがちだ」

 安井と田代の会話の間に、監督の蕎麦のすする音が聞こえる。

「でも、一年生ピッチャーの灰谷はいたにが凄い球を投げています。監督を慕って入学してきただけはありますね」

 キャッチャーの田代の言葉に、神崎監督の蕎麦のすする音が止まった。

「灰谷か?」

 この春、神崎監督に憧れて入学してきた灰谷一はいたにはじめが一年生投手として、期待以上の球を投げていた。それでも吉村隼人に賭けている神崎監督に迷いはない。精神的な脆さと、そこから起因する身体の不調で力を発揮できないでいたが、夏の大会では誰もが驚く活躍をさせてみせると、心中期するものがあった。

「灰谷はいい投手だが、この夏の大会は、吉村に大豪高校の命綱を託す」

 淀みのない言葉が、ざる蕎麦の間からこぼれた。

「監督も、食べながら喋るのが、上手いすね」

 田代の口の中でエビフライの尻尾が跳ねた。

「お前ほどでも……」

 神埼監督のざる蕎麦は一瞬にして、喉の奥へと消えた。


「ご馳走さんでした」

 食堂から出ると、外はすっかり暗くなっていた。

 二人と別れた神崎監督は、学校へ戻ろうと校門前まで来たとき、ぼんやり光る街灯の下に黒ずくめの男が立っているのが見えた。それが誰なのか、考えるまでもなかった。

 勿論、旧知の間柄である

「お久しぶりです。大同寺監督」

 鬼の神崎が直立不動で頭を下げたのは、高校野球界では大先輩の大同寺崋山だいどうじかざんであった。

 

「鬼の神崎、ここにありか」

「大同寺監督はどうしてこちらへ?」

「気になる投手が、ひとりいるんじゃ」

 神崎監督は酒好きの大同寺崋山監督を、そのまま商店街の路地裏にある安酒場に誘った。

 赤提灯がぶら下がった場末の酒場である。

 おでんを盛った皿を前に、ジョッキを持った大同寺崋山監督が言った。

「神崎は、二度と高校野球の監督をやらんと思っておったが」

「そう思っていました。高校野球の監督には、二度とならないと」

 神崎監督は神妙に答えた。

「それが又、どうした風の吹き回しじゃ」

 神崎監督はビールを口に入れてから、何かを思い出すように一息ついた。

「あいつが私のところにやってきたんですよ。五年ぶりかな」

「あいつ……?」

「大同寺監督も覚えているでしょう。あの出来事を……」

 神崎監督の目は、あの出来事を手繰り寄せるため、遠くの一点を見つめた。

「何の話じゃ……?」

 知らぬ振りして、神崎の言葉を待つ。

「あれは、夏の甲子園大会の一回戦でした。9回まで、私のチームは一点リードしていました。そして9回の裏の相手の攻撃もツーアウトでランナーが一塁。あと一人で勝てる。最終回までひとりで投げ抜いていたエースは、疲労困憊の体を励まして渾身の力を込めて投げ続けていた。バッターも必死の形相で打ち返したが、ライトに平凡なフライが上がった。

 勝った!

 誰もがそう思った。

 ピッチャーもマウンドで両手を上げて勝利の瞬間を待った。ところがライトの様子がおかしい。フライを見失ったのか、前にも後ろにも動こうとしない。ランナーは全速力でベースを回っている。ライトは内野手の指示で後ろを見た。ボールは三メートルほど後方で弾んでいた。ライトは必死でボールを追い、近くまで来ていたセンターの指示で、ボールを素手で拾いあげ、慌てて三塁に投げた。それが三塁手の頭上を越える大暴投となった。一塁ランナーは一気にホームを踏んで同点となると、打ったバッターも、ボールがフェンスに当たって転がっている間に、三塁ベースを蹴り、呆然と立ちつくす捕手の足元に滑り込んだ。さよなら負けだ」

「そんなことがあったかの……」

 大同寺崋山監督は何か思案しているようだ。

「エラーした選手は泣き崩れて、ライトから戻って来ることが出来なかった。一人の選手に背負われるように戻ってきても、顔を上げることも出来ない。私が言葉をかけても、泣きながら謝るだけでした」

「甲子園は素晴らしいからこそ、恐いのじゃ……」

「結局、まだ二年生だった、その選手は野球部をやめた。野球が出来なくなったんです。その年に私も辞めました。甲子園の恐さに逃げ出したのかも知れません」

「それがどうして、大豪高校の監督などしておるんじゃ」

 神崎監督はビールを手に持って一気に飲んだ。

「あいつが大学で野球を始めたと、私に伝えにきたんです。だから、私にも野球を始めてくれと涙を流して言ったのです」

「敗者は、いつか勝者になる。勝者は必ず勝者にあらず」

「あいつが帰ってから私は考えました。二年生で野球部を辞めたあいつは、最後の甲子園を知らないのです。突然、辞めた私も同じです。最後の甲子園という経験がありません。だから甲子園の最後の夏がどういうものか、知りたかったのかも知れません」

「大豪高校の吉村は、今年が最終学年だったかの」

「中学野球で鳴らした吉村が、大豪高校で腐っているのを知って、吉村とともに甲子園の最後の夏を経験してやろうと、大豪高校の野球部の監督を志願したんです」

「鬼の神崎、最後の夏か」

「今年一年だけです。来年はありません」

「わしも、今年を最後の夏にしようかの」

 大同寺崋山は意味ありげに微笑んだ。

「監督には、まだまだ頑張ってもらわないと」

 神崎監督は喉の仕えがとれたみたいに美味そうにビールを飲んだ。

「わしゃ、野球が好きじゃ、一生離れられんわ。毎年、毎年気になる選手が現れるのじゃからの」 

 無精髭をさする目に険がなく、おでんをほうばる顔は穏やかだった。

「先生の気になる選手って誰のことです? まさか吉村じゃないでしょう」

「吉村は鬼の神崎にまかせてあるんじゃ、わしは手を出さん。同じ大豪高校の投手じゃ」

 神崎の脳裏に、一年生投手の灰谷の顔が浮かんだ。

「いい投手だと思うんだが、大豪には吉村がおるからの」 

 謎をかける大同寺の言葉に、神崎は答えに窮した。

「吉村の力は、東陶の桑原にもひけはとらないと思います」

 大同寺は糸こんにゃくをすすりながら、神崎の頭には吉村しかないのかと残念に思った。

「大豪高校に、吉村にも負けない投手が、もう一人いるだろう」

 神崎は小首を傾げた。

 一年生の灰谷はいい素材だが、大同寺が言うほど、特筆すべき力量を、まだ見せていなかったからだ。

「……」

 神崎監督は、思案気にビールを口に運んだ。

「空っぽのボールを投げる投手じゃよ。目立たないから、さしずめ幽霊投手だな」

「幽霊投手とは」

 神崎監督のチーム構想の中に幽霊投手はいないと感じ、大同寺はそれ以後は口を閉ざした。

「私は吉村に賭けているんです。大豪高校の監督を志願したのも、それが全てですから」

「そうだったな。吉村はてっきり東塔に行くものだと思っていたが、桑原は別格として、鼻たれ木枯を取ったもんだから、吉村は弾き出された」

「私は東塔の連中は見る目がないと思ったね。言っちゃ悪いが木枯と吉村を天秤にかけたんだから」

 中学時代の吉村にほれ込んでいた神崎監督は、憮然として言った。

 大同寺崋山監督もそれには、嬉しそうに頷いていた。

「鼻くそ木枯が今じゃ、桑原と二本柱じゃ。プロも注目する逸材だ。結局は、見る目があったというべきか」

 二人の会話に一息入ったのを見て、カウンターの中から店の大将が場末では珍しい大きな絵皿に綺麗に盛り付けされた、車海老のおどりを神崎監督の前に出した。

読んでいただき有難うございました。

次回は里村保が甲子園のベンチ入りのメンバーに入ることが出来るのか?

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