10.謎の男
里村は高校三年生をむかえる正月に、基礎体力を鍛えようと、早朝の一時間を使って近くの山へランニングをする誓いを立てた。
基礎体力の向上と現状打破が当面の目標だ。
正月一日の走り始めから、すでに三月が過ぎようとしていた。
日曜日の朝、どんよりとした寒空が広がり、冷たい風が足下をさらっていく。まだ暗いうちに起き上がり、里村保は背中にバックを担いで走り出した。
県道を越えて、緩やかなアスファルトの山道が続く。
春は名のみで、風はなおも冷たく、梅の花に目を向ける余裕はない。
アスファルトの道から、地道の山道に入って勾配が急にきつくなり、このあたりから足の筋肉が疲労を感じはじめる。そのまま、一気に走り抜けると平地になった一角が目に飛び込んでくる。目的の場所まで二十分ほどで到着だ。そこには土砂崩れを防ぐための岩が積まれている岩盤があり、その前にはボールを当たるに手頃な大きな岩があった。
そこで里村は休む間もなくバックの中からグラブと、数個のボールを取り出して岩に向けて投げ出した。
大きな岩でも平らな部分が少なく、平らな部分以外に当たるとボールはとんでもない方向へ飛んでいってしまう。そのたびにボールを追いかけなければならない。
平らなストライクゾーンに当たると、不思議と里村の元に真っすぐ戻ってくる。
三月も練習を続けてくると里村の元に戻ってくるボールの数が多くなった。それだけストライクゾーンにいくボールが多くなったということだ。日曜日ということで100球ほど投げた。最後の一球にしようと、胸を張り大きく腕を上げたとき、背中に漲る力を感じ、それは左肩から左腕に電流のように流れるとボールとともに振り切られ、ボールは前に投じられた。
ボールはまっすぐに伸びて、岩のど真ん中にあるボール一個分の平らなところに当たりボールがダイレクトに里村のグラブに跳ね返ってきた。
それもスピードを増しながら、勢いよく戻ってくるボールを、顔の前に差し出したグラブでキャッチした。
バッシィ!
ボールをキャッチした里村は、手の平から感じられる痛みと、痛みを忘れさせるほどの驚きを感じた。
「やった」
里村の歓声に共鳴して、木々がざわめいた。
風もないのに枝が揺れ、木擦れ合う葉が光とともに波となり、明らかに周波数の違う音が、波の彼方から、里村の耳に届いてくる。
「見事じゃった」
里村は音の聞こえる方に身体を向けた。
正確に言うと声が聞こえたであろう方角へ、定まらない視線を泳がせた。
そう広い場所ではない。
里村の視線が捕らえた先には、濃い目のサングラスをかけ、無精ひげを生やした黒ずくめの男が、なぜか手を叩きながら立っていた。
場所柄、仙人が霞みを求めて迷い込んだと錯覚するほど、いきなりの出現だった。
里村はその男を刮目して眺めた。
恐怖に近いものを感じたといってよかった。
男の口が動いているようには見えなかったが、声は目と鼻先から聞こえていた。
「ひとつだけ教えてやろう。お前に必要なのは剛速球ではない。剛速球は勢い打たれるボールだ。鋭い変化球も不必要だ。所詮、そんなものは、まやかしに過ぎない」
呆然と佇む里村の辺りを、声は行き場を失った木の葉のようにくるくる回った。
「ボールを投げようとするな」
男の声は里村の耳を抜け脳細胞に拡散する。男の言葉は聞きとることはできても脳細胞は、その意味を租借できない。
里村の表情が次第に困惑をおびはじめたが、男の声は里村の表情を無視するかのように続く。
「心を空っぽにして、その心を投げろ!」
心を投げろ?
里村が左手にボールをもったまま、呆然として立ち尽くすしかない。
心を投げろと言われれば、前には進めない。
「人の心を計れないと同じで、空っぽの心は誰にも見えない。見えないものを打ち返すのは難儀なことじゃ。ははは」
黒ずくめの男の笑い声が山の四十万に満ちた。
密集した枝葉は気が狂ったように上下左右に乱舞し、地面に落ちた枯れ葉は両端を天に向けながら、里村を絡めて巻き上がる。湿気を含んだ木っ端さえ、容赦なく里村の身体を打ちつけた。
「もう、一球だけ投げてみろ。球を投げるのではない。投げるのは無の心だ!」
葉がこすれあう風の狭間で、男の声は木霊のように何度も現れては消えた。
里村は言われるままに大きく振りかぶった。左足を中心に体を半分ひねると、右足を前に出し左腕をしならせ、肩を回転させていく。
腕を残したまま前を見た瞬間、前方の岩の一点が光を放った。左の指から弾かれたボールはその光を目指してまっすぐ伸びて光の中にすっと消えた。
気がついた時には里村保のグラブは、跳ね返ってきたボールをしっかり掴んでいた。
里村はグラブを動かすことも忘れて、呆然と男の方を見た。
その時には、うるさいほど吹いていた風が、すっかり止んで、木っ端一枚揺れてはいない。
そこに居たはずの黒ずくめの男の姿もすでにない。もともとそんな男などいなかったかのように、木々はそ知らぬ振りして、ぼくねんと佇んでいた。
里村保はその日、時をたつのを忘れてボールを投げ続けた。
気がつけば、曇り空から漏れる太陽が真上にあった。
里村保は練習を切り上げて、辺りに散らばるボールを拾い集め、最後の一球を拾いあげた時、まるで判でも押したが如く『無』の一文字が刻印されていることに気がついた。
無。
里村は無の文字の入ったボールなど持っていない。
たぶん黒ずくめの男が投げ入れたボールではないかと、男のいた方に目を移した。そこに誰もいないのを確認すると、拾い上げたボールをバッグに入れて、石ころ混じりの土を踏みしめ、早足で帰路についた。
里村の足がアスファルトを踏んだ時には、山の緑は遥か後ろに霞んでいた。しかし、里村の耳は聞きなれない振動数を持つ拡声音を捕らえていた。
「心を空っぽにして、その心を投げろ!……無の心だ!……無の心だ!……無の心だ!……はっははは」
その声は里村保の耳にまとわりついて、頭を振っても離れない。
背筋に悪寒がはしり、体を覆っていた疲労感を脱ぎ去ったように、足取りが速くなった。
いくら走っても、その声は里村保の身体中を駆け回り続けた。
「無の心だ! 無の心だ! 無の心だ!」
声を振り払いながら、夢中で走った。
やがて、里村の家のブロック塀が見え、小柄な女性が落ち着かない様子で立っていた。
里村保の帰りが遅いので、心配のあまり外で待っていた母だった。
里村が母の姿を見たと同時に、まとわりついていた男の声が、消えているのに気がついた。
ほっとしたのか、保の身体はふらふらと左右に揺れて道路の上に崩れるように倒れ、母は保の倒れる姿をみて、つっかけの音をからから鳴らしながら小走りに駆けよってきた。
突っ掛けの音が止まると、保は母の顔を確認するように頭を上げた。
「大丈夫?」
母の声が聞こえた。
「大丈夫だよ」
保はゆっくり立ち上がると、服についた砂を払い落として、母と一緒に歩き出した。
玄関前では、妹の智子が父の大きな草履をはいて立っていた。
「遅いわね! お昼待ってたのよ。お腹ぺこぺこ」
それにあわせるように、母も保の服を引っ張りながら言った。
「本当に心配したんだから。服もこんなに汚しちゃって」
「あぁ、ほんと、腹減った」
保はそれだけ言って家に入った。
母と妹は怒っていたが、聞こえない振りをした。
翌日から、里村が山へランニングに出かけると、必ず黒ずくめの男が待っていた。
男は決して、保の側には近づかないで、少し離れた場所から、声をかけるだけだった。
得体が知れないほど怖いものはない。
流石に、初めの頃は気味が悪かったが、次第に男の存在を意識するようになった。
「そんなクソボール、ハエが居眠りするぞ」
「小便小僧の力はそんなものか……」
里村保は身体から力を抜いて、心を落ち着かせるために、大きく息を吸った。
男は離れていたが、すぐ側にいるように、声は耳元で聞こえていた。
冷たい土を通して、足元から熱気が身体を覆っていく。
「空気を投げろ! 指先に風を感じろ!」
男はわざと意味不明な言葉を使った。
分からせるには、分からないところから始める。
分かるはずの無いことを理解させるには、分からせては駄目だと言わんばかりに、黒ずくめの男がふっと笑みを浮かべた。
意味不明の男の声に、逆らうことなく里村はボールを投げ続けた。里村が男の術中に陥っていたとしても、この前に投げたボールの感触が手に残っている限り、熱い思いで投げ続けた。
男は何を里村に教えようとしているのか、何のために里村に教えているのか?
黒ずくめの男のすることは、ブラックホールのように何も見えない。
里村の指先がはじけた。一瞬ボールが消えて、微かな音とともにボールは里村めがけて真っ直ぐに戻ってきた。
「いい球だ! 今のボールを忘れるな」
里村は体中を押し包むような熱気を感じていた。
一球、一球、その熱は指先から弾け跳んだ。
「お前に門外不出のわしの秘伝を教えよう。よく見るがいい。心を投げるとは、どういうものかを見せてやろう。今握っているボールをよく見ろ」
言われるまま、里村はボールを見た。
「どうだ?」
「汚れているけど、白いボールです」
「よし、そのボールを投げて見ろ」
里村は大きく振りかぶった。なぜか、身体が燃えているように熱い。里村の身体からは水蒸気が炎のように立ち上っていた。左腕がしなり、振り下ろされると、周りの木々の枝葉がそれと同調するように波打つ。ボールが指から離れた瞬間、数枚の葉っぱが同じ方向に散った。
ボールは糸を引くように真っ直ぐに伸びていく。壁に跳ね返ったボールは里村のグラブを知っているかのように戻ってきた。里村のグラブが音を立てた。
「どうじゃ」
男の声に呼応して、里村はグラブの中のボールを左手に握り、それを上に上げて、満足げににっこりと笑った。
「ボールを良く見てみろ」
男はひらひら舞い散る木の葉の中に、黒い姿でたたずんでいる。
里村はボールを顔に近づけて驚いた。
白いボールにくっきりと、無、の一文字が刻まれていたからだ。
「心を無にするのは簡単なことじゃない。誰でも出来ることでもない。わしがお前に言いたいのは、ボールに無の文字を刻むことじゃない。心に無の球を刻むことじゃ」
なぜボールに文字が刻まれたのか? 里村には分からなかった。それが黒ずくめの男の言う、無のなせる業なのか、里村はただ呆然と男を見ていた。
「今のボールには見所があった。イチローでも打てまい……記念に名前を付けてやろう……誰が甲子園やねん無心球一号とでも名づけよう」
ここに里村保の記念すべき、誰が甲子園やねん無心球一号が誕生したのである。
二人のまわりには、異常と思えるほどの落ち葉がひらひらと舞っていた。
里村は気がついていなかった。
その落ち葉、一枚、一枚にもボールと同じような、無の一文字が刻まれていたことを……。
そんなことがあっても、里村保は毎日、朝早くから山に登った。
黒ずくめの男も何の因果か、里村につきあった。
「最後の夏に向い、悔いの無いよう、精一杯やろう」
里村保の思いの大きさは、雪の降る日も、雨の日も、飽きることなく、それは春の声を聞いて山に桜が咲く頃まで続いた。
山桜は薄いピンクの花びらを風に揺らし、走る里村のランニングシューズには水気を含んだ花びらが、ここが住処と主張するように、へばりついていた。山中の練習場所に着いた里村は、すでに来ていた黒ずくめの男とともに練習を開始した。男がみせるピッチングフォームを里村はなぞるように真似る。何度も、何度も繰り返した。40分程度の練習を終えると、いつもなら、風のようにいなくなる男が、里村の肩に手を置いて、こう言った。
「わしはこれから魔人退治で、ちと忙しゅうなるから、今日が最後じゃ。念願の、誰が甲子園やねん無心球十号は出来なかったが、それはお前の宿題じゃ。また、どこかで出会うこともあるかもしれんが、その時はお手柔らかに頼むぞ! はっはははは」
どうやら、誰が甲子園やねん無心球九号までは完成したようだ。
男の笑い声は余韻を残して、いつまでも里村保の心にとどまり、昇る朝日が山を染めた頃には、里村の姿は山の中から消えていった。
朝日がまぶしい。
里村の指先が光を受けて光っていた。
読んでいただき有難うございます。
次回は神崎監督の隠された過去が語られます。
甲子園は終わりましたが、今しばらくのお付き合いをお願いします。