表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/20

10.謎の男

 里村は高校三年生をむかえる正月に、基礎体力を鍛えようと、早朝の一時間を使って近くの山へランニングをする誓いを立てた。

 基礎体力の向上と現状打破が当面の目標だ。

 正月一日の走り始めから、すでに三月が過ぎようとしていた。

 日曜日の朝、どんよりとした寒空が広がり、冷たい風が足下をさらっていく。まだ暗いうちに起き上がり、里村保は背中にバックを担いで走り出した。

 県道を越えて、緩やかなアスファルトの山道が続く。

 春は名のみで、風はなおも冷たく、梅の花に目を向ける余裕はない。

 アスファルトの道から、地道の山道に入って勾配が急にきつくなり、このあたりから足の筋肉が疲労を感じはじめる。そのまま、一気に走り抜けると平地になった一角が目に飛び込んでくる。目的の場所まで二十分ほどで到着だ。そこには土砂崩れを防ぐための岩が積まれている岩盤があり、その前にはボールを当たるに手頃な大きな岩があった。

 

 そこで里村は休む間もなくバックの中からグラブと、数個のボールを取り出して岩に向けて投げ出した。

 大きな岩でも平らな部分が少なく、平らな部分以外に当たるとボールはとんでもない方向へ飛んでいってしまう。そのたびにボールを追いかけなければならない。

 平らなストライクゾーンに当たると、不思議と里村の元に真っすぐ戻ってくる。

 三月も練習を続けてくると里村の元に戻ってくるボールの数が多くなった。それだけストライクゾーンにいくボールが多くなったということだ。日曜日ということで100球ほど投げた。最後の一球にしようと、胸を張り大きく腕を上げたとき、背中に漲る力を感じ、それは左肩から左腕に電流のように流れるとボールとともに振り切られ、ボールは前に投じられた。

 ボールはまっすぐに伸びて、岩のど真ん中にあるボール一個分の平らなところに当たりボールがダイレクトに里村のグラブに跳ね返ってきた。

 それもスピードを増しながら、勢いよく戻ってくるボールを、顔の前に差し出したグラブでキャッチした。

 バッシィ!

 ボールをキャッチした里村は、手の平から感じられる痛みと、痛みを忘れさせるほどの驚きを感じた。

「やった」

 里村の歓声に共鳴して、木々がざわめいた。

 風もないのに枝が揺れ、木擦れ合う葉が光とともに波となり、明らかに周波数の違う音が、波の彼方から、里村の耳に届いてくる。

「見事じゃった」

 里村は音の聞こえる方に身体を向けた。

 正確に言うと声が聞こえたであろう方角へ、定まらない視線を泳がせた。

 そう広い場所ではない。

 里村の視線が捕らえた先には、濃い目のサングラスをかけ、無精ひげを生やした黒ずくめの男が、なぜか手を叩きながら立っていた。

 場所柄、仙人が霞みを求めて迷い込んだと錯覚するほど、いきなりの出現だった。

 里村はその男を刮目かつもくして眺めた。

 恐怖に近いものを感じたといってよかった。

 男の口が動いているようには見えなかったが、声は目と鼻先から聞こえていた。

「ひとつだけ教えてやろう。お前に必要なのは剛速球ではない。剛速球は勢い打たれるボールだ。鋭い変化球も不必要だ。所詮、そんなものは、まやかしに過ぎない」

 呆然と佇む里村の辺りを、声は行き場を失った木の葉のようにくるくる回った。

「ボールを投げようとするな」

 男の声は里村の耳を抜け脳細胞に拡散する。男の言葉は聞きとることはできても脳細胞は、その意味を租借できない。

 里村の表情が次第に困惑をおびはじめたが、男の声は里村の表情を無視するかのように続く。

「心を空っぽにして、その心を投げろ!」

 心を投げろ?

 里村が左手にボールをもったまま、呆然として立ち尽くすしかない。

 心を投げろと言われれば、前には進めない。

「人の心を計れないと同じで、空っぽの心は誰にも見えない。見えないものを打ち返すのは難儀なことじゃ。ははは」

 黒ずくめの男の笑い声が山の四十万に満ちた。

 密集した枝葉は気が狂ったように上下左右に乱舞し、地面に落ちた枯れ葉は両端を天に向けながら、里村を絡めて巻き上がる。湿気を含んだ木っ端さえ、容赦なく里村の身体を打ちつけた。

「もう、一球だけ投げてみろ。球を投げるのではない。投げるのは無の心だ!」

 葉がこすれあう風の狭間で、男の声は木霊のように何度も現れては消えた。

 里村は言われるままに大きく振りかぶった。左足を中心に体を半分ひねると、右足を前に出し左腕をしならせ、肩を回転させていく。

 腕を残したまま前を見た瞬間、前方の岩の一点が光を放った。左の指から弾かれたボールはその光を目指してまっすぐ伸びて光の中にすっと消えた。

 気がついた時には里村保のグラブは、跳ね返ってきたボールをしっかり掴んでいた。

 里村はグラブを動かすことも忘れて、呆然と男の方を見た。

 その時には、うるさいほど吹いていた風が、すっかり止んで、木っ端一枚揺れてはいない。

 そこに居たはずの黒ずくめの男の姿もすでにない。もともとそんな男などいなかったかのように、木々はそ知らぬ振りして、ぼくねんと佇んでいた。


 里村保はその日、時をたつのを忘れてボールを投げ続けた。 

 気がつけば、曇り空から漏れる太陽が真上にあった。

 里村保は練習を切り上げて、辺りに散らばるボールを拾い集め、最後の一球を拾いあげた時、まるで判でも押したが如く『無』の一文字が刻印されていることに気がついた。


 無。

 

 里村は無の文字の入ったボールなど持っていない。

 たぶん黒ずくめの男が投げ入れたボールではないかと、男のいた方に目を移した。そこに誰もいないのを確認すると、拾い上げたボールをバッグに入れて、石ころ混じりの土を踏みしめ、早足で帰路についた。

 里村の足がアスファルトを踏んだ時には、山の緑は遥か後ろに霞んでいた。しかし、里村の耳は聞きなれない振動数を持つ拡声音を捕らえていた。

「心を空っぽにして、その心を投げろ!……無の心だ!……無の心だ!……無の心だ!……はっははは」

 その声は里村保の耳にまとわりついて、頭を振っても離れない。

 背筋に悪寒がはしり、体を覆っていた疲労感を脱ぎ去ったように、足取りが速くなった。

 いくら走っても、その声は里村保の身体中を駆け回り続けた。

「無の心だ! 無の心だ! 無の心だ!」

 声を振り払いながら、夢中で走った。

 やがて、里村の家のブロック塀が見え、小柄な女性が落ち着かない様子で立っていた。

 里村保の帰りが遅いので、心配のあまり外で待っていた母だった。

 里村が母の姿を見たと同時に、まとわりついていた男の声が、消えているのに気がついた。

 ほっとしたのか、保の身体はふらふらと左右に揺れて道路の上に崩れるように倒れ、母は保の倒れる姿をみて、つっかけの音をからから鳴らしながら小走りに駆けよってきた。

  突っ掛けの音が止まると、保は母の顔を確認するように頭を上げた。

「大丈夫?」

 母の声が聞こえた。

「大丈夫だよ」

 保はゆっくり立ち上がると、服についた砂を払い落として、母と一緒に歩き出した。

 玄関前では、妹の智子が父の大きな草履をはいて立っていた。

「遅いわね! お昼待ってたのよ。お腹ぺこぺこ」

 それにあわせるように、母も保の服を引っ張りながら言った。

「本当に心配したんだから。服もこんなに汚しちゃって」

「あぁ、ほんと、腹減った」

 保はそれだけ言って家に入った。

 母と妹は怒っていたが、聞こえない振りをした。


 翌日から、里村が山へランニングに出かけると、必ず黒ずくめの男が待っていた。

 男は決して、保の側には近づかないで、少し離れた場所から、声をかけるだけだった。

 得体が知れないほど怖いものはない。

 流石に、初めの頃は気味が悪かったが、次第に男の存在を意識するようになった。

「そんなクソボール、ハエが居眠りするぞ」

「小便小僧の力はそんなものか……」

 里村保は身体から力を抜いて、心を落ち着かせるために、大きく息を吸った。

 男は離れていたが、すぐ側にいるように、声は耳元で聞こえていた。

 冷たい土を通して、足元から熱気が身体を覆っていく。

「空気を投げろ! 指先に風を感じろ!」

 男はわざと意味不明な言葉を使った。

 分からせるには、分からないところから始める。

 分かるはずの無いことを理解させるには、分からせては駄目だと言わんばかりに、黒ずくめの男がふっと笑みを浮かべた。

 意味不明の男の声に、逆らうことなく里村はボールを投げ続けた。里村が男の術中に陥っていたとしても、この前に投げたボールの感触が手に残っている限り、熱い思いで投げ続けた。

 男は何を里村に教えようとしているのか、何のために里村に教えているのか?

 黒ずくめの男のすることは、ブラックホールのように何も見えない。


 里村の指先がはじけた。一瞬ボールが消えて、微かな音とともにボールは里村めがけて真っ直ぐに戻ってきた。

「いい球だ! 今のボールを忘れるな」

 里村は体中を押し包むような熱気を感じていた。

 一球、一球、その熱は指先から弾け跳んだ。

「お前に門外不出のわしの秘伝を教えよう。よく見るがいい。心を投げるとは、どういうものかを見せてやろう。今握っているボールをよく見ろ」

 言われるまま、里村はボールを見た。

「どうだ?」

「汚れているけど、白いボールです」

「よし、そのボールを投げて見ろ」

 里村は大きく振りかぶった。なぜか、身体が燃えているように熱い。里村の身体からは水蒸気が炎のように立ち上っていた。左腕がしなり、振り下ろされると、周りの木々の枝葉がそれと同調するように波打つ。ボールが指から離れた瞬間、数枚の葉っぱが同じ方向に散った。

 ボールは糸を引くように真っ直ぐに伸びていく。壁に跳ね返ったボールは里村のグラブを知っているかのように戻ってきた。里村のグラブが音を立てた。

「どうじゃ」

 男の声に呼応して、里村はグラブの中のボールを左手に握り、それを上に上げて、満足げににっこりと笑った。

「ボールを良く見てみろ」

 男はひらひら舞い散る木の葉の中に、黒い姿でたたずんでいる。

 里村はボールを顔に近づけて驚いた。

 白いボールにくっきりと、無、の一文字が刻まれていたからだ。

「心を無にするのは簡単なことじゃない。誰でも出来ることでもない。わしがお前に言いたいのは、ボールに無の文字を刻むことじゃない。心に無の球を刻むことじゃ」

 なぜボールに文字が刻まれたのか? 里村には分からなかった。それが黒ずくめの男の言う、無のなせる業なのか、里村はただ呆然と男を見ていた。

「今のボールには見所があった。イチローでも打てまい……記念に名前を付けてやろう……誰が甲子園やねん無心球一号とでも名づけよう」

 ここに里村保の記念すべき、誰が甲子園やねん無心球一号が誕生したのである。

 二人のまわりには、異常と思えるほどの落ち葉がひらひらと舞っていた。

 里村は気がついていなかった。

 その落ち葉、一枚、一枚にもボールと同じような、無の一文字が刻まれていたことを……。


 そんなことがあっても、里村保は毎日、朝早くから山に登った。

 黒ずくめの男も何の因果か、里村につきあった。

「最後の夏に向い、悔いの無いよう、精一杯やろう」

 里村保の思いの大きさは、雪の降る日も、雨の日も、飽きることなく、それは春の声を聞いて山に桜が咲く頃まで続いた。

 山桜は薄いピンクの花びらを風に揺らし、走る里村のランニングシューズには水気を含んだ花びらが、ここが住処と主張するように、へばりついていた。山中の練習場所に着いた里村は、すでに来ていた黒ずくめの男とともに練習を開始した。男がみせるピッチングフォームを里村はなぞるように真似る。何度も、何度も繰り返した。40分程度の練習を終えると、いつもなら、風のようにいなくなる男が、里村の肩に手を置いて、こう言った。

「わしはこれから魔人退治で、ちと忙しゅうなるから、今日が最後じゃ。念願の、誰が甲子園やねん無心球十号は出来なかったが、それはお前の宿題じゃ。また、どこかで出会うこともあるかもしれんが、その時はお手柔らかに頼むぞ! はっはははは」

 どうやら、誰が甲子園やねん無心球九号までは完成したようだ。

 男の笑い声は余韻を残して、いつまでも里村保の心にとどまり、昇る朝日が山を染めた頃には、里村の姿は山の中から消えていった。

 朝日がまぶしい。

 里村の指先が光を受けて光っていた。

読んでいただき有難うございます。

次回は神崎監督の隠された過去が語られます。

甲子園は終わりましたが、今しばらくのお付き合いをお願いします。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ