1.霧雨流れる曇天の空
フィクションです。念のため……。
9回の裏、ツーアウトランナー、一塁。
5番大浦のバットが一閃。乾いた金属音とともに白球が白雲の中に伸びてゆく。
センターがバックする、さらにバック。
フェンスに背中がついて、上空を見上げた。
スパイクが土を蹴り、差し出したグラブが空を飛ぶ。
白い雲の中から落ちてくる微かな雨粒が、グラブからはじける。
里村保はそれをベンチからジーッと見ていた。
白いボールを追いかけて、これから始まる物語を楽しむように。
1.霧雨が流れる曇天の空
梅雨空が広がる夏。
大豪高校野球部は全国高等学校野球大会の地方予選がおこなわれている緑地公園野球場へ市営バスに乗って向かっていた。
バスの停車場に着くと、部員たちは各自大きなスポーツバックを抱えて降りていく。キャプテンの安井が全員が降りたのを確認し終わったとき、市営バスの横を東塔学園高等学校野球部とロゴの入ったバスが通り過ぎていった。そして、その後をマークするように報道陣の車が何台も続いた。
バスから降りた大豪高校野球部員の目が、一斉に東塔学園のバスに向けられた。
今日対戦するチームである。
選手の間に期せずしてため息が漏れ、キャプテンの安井が呟いた。
「さすがに名門野球部は、自前のバスだぜ」
大豪の選手たちが目を丸くしているあいだも、通り過ぎていった東塔学園のバスを追って、慌ただしく人の群れが移動を開始していた。
東塔学園のエース桑原学を一目見ようと、バスの到着を待っていた人たちである。
この日は一回戦にもかかわらず人気の東塔学園が出場するとあって、高校野球ファンは朝早くから駆けつけて球場周辺は入場制限をするほど、人が群れをなしていた。
東塔学園に快速の貴公子、桑原あり!
超高校級のエース桑原学はプロも注目する逸材であった。また、日本を代表する巨大企業、桑原電気産業株式会社の御曹司でもある。
190センチの身長と甘いマスクは野球ファンをこえて、あらゆるメディアが注視するアイドル的な人気があった。
東塔学園のバスは方向指示器を左に出して、公園の駐車場の中に消えていく。
バスが見えなくなると、人々の姿もまばらになり、大豪高校の野球部員たちは、試合のある球場へと歩き出した。
今、目の当たりにした東塔学園の異常とも思えるほどの注目度は、ある程度予測はしていたが現実に見ると目を見張るばかりだった。
バスの停車場から球場まで、緑の木々で埋め尽くされたアスファルトの道を選手たちは移動する。横を軽やかな足取りでジョギングしている人たちが通過していった。
どんよりとした空を写した木々の向こうから、何やら、ざわめきが波のように聞こえてくる。
緑の間に間に人の群れが見え隠れして、大豪高校野球部員の視界に入ってきた。
「すごい人だな」
安井は、やや興奮気味だ。
「想像以上だな。東塔学園の人気は」
捕手の田代が辺りを見渡しながら呟いた。
「考えたら、試合が出来るだけでも、凄いことなんだ」
城戸が答えた。
「何とか九回まで試合をやろうぜ」
誰かの声。
「勝たないのか?」
「桑原を打てるのか。最速160キロだぜ。あとに控えし木枯龍馬の魔人のストレート」
情報を詰め込んだ口から、諦めにも似た声がとびだした。
控え投手である里村保は、いつものように黙って聞いていた。
目にはかすかに降り出した霧雨があたる。
里村の帽子を風が揺らすと、里村はそれを手で押さえた。
緑の葉が霧雨と同じ方向へ流れて行く。
枝が今にも折れて飛んでいってしまいそうだ。
東塔学園対大豪高校の試合は第一試合に組み込まれていて、午前十時に試合開始の予定になっているにもかかわらず、午前八時を過ぎた頃から球場周辺に人が集まりはじめ、開場の一時間前にはスタンドは超満員になっていた。
普段なら野球好きのお父ちゃん連中が、外野後方の金網越しにのんびり試合を観戦しているのだが、今日に限って、そんな姿はほとんど見られなかった。
スタンドに入れない人々は金網越しであろうが、試合が見れる所はほとんど占拠されていて、球場周辺は立錐の余地もない。
全国高等学校野球大会地方予選の雰囲気はなく、アイドルグループのコンサートを見ている感じに近かった。
群衆のほとんどが桑原学を見るために来ているのであって、当たり前のように勝ち負けには興味なく、相手が無名の県立大豪高校とあっては勝敗は度外視。
勝負はやる前から決まっていたのだ。
一回戦の相手が東塔学園と決定した時、監督は叫んだ。
「東塔学園なら、相手に不足なし!」
しばらくの沈黙の後
「過ぎたるは、及ばざるが如し……」
とサードを守る中西が一言。
「終わったな」
山本がため息交じり。
「短い夏だった」
白井も応じた。
「何か俺たち悪いことでもしたか」
城戸が両手を左右に大きく広げ。
「天はわれを見放した」
ショート近藤が空を見上げて目を瞑る。
東塔学園の力は山を抜き、大豪高校の力は地を這うのだから、選手が嘆くのも無理はない。そんな中、ただ一人、里村保の思いだけは違っていた
父が好きだった高校野球。
父から教えてもらった野球。
ましてや、三年生の里村保にとって、特別な意味を持つ最後の夏であった。
里村は、ここにくるまでの二年間、公式戦のマウンドを一度も踏んだことがなかった。だから、一イニングだけでいい、一球だけでいい、マウンドの上に立って夏の汗にまみれたいと、ただ、それだけを思っていた。
バス停から球場まで続く長い緑のトンネルが、大豪高校野球部員の気持ちを代弁するかのように、霧雨に沈み、風に震えている。
里村は左手を見た。
妹の智子が書いた『甲子園』の三文字。ありえない夢のような三文字であった。
夢であるなら入り口は開かれていてもいいはずだ。
僅かな隙間から、ひとすじ光が差し込んだとしても不思議ではない。
霧雨に濡れた神の手が、千慮の一失の奇跡を演出しても驚かない。
「試合は勝つか負けるかだけではない。人の心を打つ試合をするか、しないかだ」
父の言った言葉を里村は思い出していた。
気づかぬ微かな霧雨が、梅雨空にベールをかけていた。
はちきれんばかりのスタンドの歓声が、陰気な空気を一掃する。
三塁側に陣取った東塔学園の応援団は整然と試合が始まるのを待っていた。
最前列にはベンチに入れなかったユニフォーム姿の野球部員たちが、大きなエールを送る。
一方、一塁側の大豪高校の応援団は、ここにも侵入している東塔学園の桑原信者に飲み込まれて、その姿さえ容易に見つけることができない。
スタンドの最上段に、大豪高校応援団旗を掲げる学ラン姿が見え、その前方では野球部員が負けてなるかと声をからしているくらいだ。
その中に、里村の母も妹の智子もいる。
グランドでは、試合開始前の練習が始まっていた。
東塔学園の選手がグランドに散ってノックを受けている。素早い身のこなしと、洗練されたグラブさばき、スピード感たっぷりの練習は見る者に、ため息をつかせるほどだった。中でもひときわ目立つ長身の桑原は、あたりを払う風格さえ漂わせていた。まさに天性のスター、超一級の輝きだ。
15分の練習はすぐに終り、続いて大豪高校の選手が、一斉にグラウンドに散った。
グランド向かって走る里村には、超満員のスタンドの観客も、ベンチ前でピッチング練習をしている桑原も見えていなかった。ただ、ピッチャーズプレートの白いラインだけが目に焼き付いた。
里村の最後の夏にかける一球の思いを、60センチの白いラインは知っているかのように里村の目から離れなかった。
スコアーボードの上には日章旗を真ん中に両校校旗が風にたなびいていた。
グラウンドの後方、木々に囲まれた金網の向こうは、スタンドの観客にも負けない熱狂的な桑原信者や、東塔学園のファンの熱気が溢れ、いつもの地方予選とは違う雰囲気に蹴落とされたのか、年輩のおっちゃん連中は、一歩下がったところからグランドに目をやっていた。
緑葉茂るアラカシの木。その木の下で古ぼけた野球帽を目深に被り、長袖の黒シャツを着た髯面の男が、濃い目のサングラス越しから砂塵舞うグランドを見つめていた。
まるで、人の世から締め出されたかのような雰囲気を漂わせて。
視線の先には、ただ一人の影しか見えていない。
男は瞬きを忘れたようにシルエットを追った。そして、そこにボールがあるかのように、血管が浮くほど左手を握りしめた。
歓声が轟いた!
曇った空に灰色の風が流れ、男の髭は霧雨に濡れていた。
スタンドがどよめいて、東塔学園のエース桑原学がマウンドに勇姿を現した。
ベンチ前では監督を中心に大豪高校が円陣を組んだ。
「勝負は時の運だ! 幸運なことに今日は雨が降りそうだ。試合の勝ち負けは、まぁ、雨が消してくれる!」
神崎監督の声に選手から笑顔がもれた。
その笑顔が瞬時に引き締まった!
「今日の相手は並じゃねぇが、俺はお前たちを勝たせたい! そのために今までやってきたことをやれ! 守り負けるな! いいか、守り負けなければ勝ちだ!」
呼応して選手たちの力強い声が地を震動させた。輪がはじけるように消えて、目がいっせいにホームベースを向いた。
スタンドを拍手と歓声が包んだ時、試合開始を知らせるサイレンが鳴り響く。
大豪高校の選手たちは気合を身体に漲らせ、里村保は息を一杯吸い込んで、最後の夏に立ち向かおうと、両足に力を込めた。
「おーう!」
両校のベンチから大きな声が轟いて、真っ白なユニフォームの選手たちが一斉にベンチ前から飛び出した。
ホームベースを挟んで整列した両校の選手たちは、一礼すると一斉にグランドへと散った。
先発メンバーから外れた里村は、駆け足でベンチに戻り、ベンチ前でグランドの方を振り返る。
スタンドは超満員だ。その全てに近い視線を受けて、マウンドの上では桑原が投球練習を始めようとしていた。
堂々とした桑原の態度には風格すら感じる。
大豪高校の選手たちは、心なしか緊張しているように里村には思えた。
里村自身、いくたび背筋に電流が流れていっただろうか。
空に浮かぶ雲が、激しく風に追われている。
霧雨がもっと強い雨に変わるのも、時間の問題かもしれない。
里村は思い出していた。
「保! 野球は好きか」
里村保の野球への道は、父である幸次郎の、この一声から始まったことを……。
読んでくださって有難うございます。
次回は里村少年が登場します。