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第9話 実現への壁

 武道館公演まで残すところ一か月を切った三月は、歴上は春なのだが、都会の湿ったビル風が身体に纏わりついて吹いてくる東京では、嫌らしく寒い日々がまだ続いていた。大自然の凜烈たる寒気ではなく、都会の寒さは人工的で陰鬱だ。


 余命は数か月程度と診断されている丈司は、相変わらず店のカウンター内で好きなレコードを聴きながらバーボンを飲んでいるのを日課にしていた。酒は最期を早めるのだろうが、それが一番好きな余生らしい。


 丈司の体躯は、徐々に痩せてきてはいるが、その分だけ鋭くなった眼光は森厳な冷気を放っていた。他人に対する敵愾ではなく、既に己の道を明敏している眼だ。知覚器官を使わなくても、同じ場所で同じ空気を吸っていれば、丈司の気持ちは伝心してきた。


「トリビュートCDの予約枚数が好調らしいです」

 と、翔吾はクイーンズミュージックからの報告を丈司に伝えた。

「嬉しいよ。ありがとう」

 と、丈司はいつものように質朴に応えた。しかし、売上で順位付けをする音楽チャートを嫌っていた丈司からの謝意の言葉は、意外だった。


(僕に対して、関係者に対して、いや、神様も含めた天地万象に対してなのだろう)

 と、翔吾は自分の中で咀嚼したまま、丈司にはそれ以上は訊ねなかった。


 最近の翔吾は、地方興行を断って、専ら作詞作曲活動に励んでいた。新たな楽曲を溜めておく期間に充てているのと同時に、丈司の体調を気遣って、店の後片付けや掃除の手伝いをしに毎晩バーへ来ていた。客のいない時には、丈司のプライベート話も断片的に訊くことができた。


 しかし、それは翔吾が想像していた丈司への概念を大きく変えるものではなく、大概は福田と連んで、高校生の頃からバイクを乗り回し、連日のように夜遊びしていたそうだ。事実婚の女性は時を違えて複数人いたが、基本的には今のように、人にも社会にも束縛されない勝手気ままな生き方が好きらしい。


(虎だ。丈司は群れをつくらない虎なのだ)

 と、翔吾は惟った。丈司のステージングは狩りをする虎にも似ている。己を剥き出しにした自己表現は、ミュージシャンという存在を超越したアーティストだ。音楽産業のプロに仕立て上げられてヒットを飛ばした翔吾は、虎の威を借りていただけのことだ。真のアーティストたる丈司との一隅の出会いは、翔吾の今までの音楽に対する諦観を瓦解させてくれたのだ。


 三月の最低気温は連日一桁台のままだが、下旬になると、日中は二十度近くまで気温が上昇する春めいた日も増えてきた。桜の開花も間近になってくると、寒さで逼塞していた心も華めいてくる。ビジネス面では、気候とシンクロするように、CDの売上実績も高気配の曲線を描きだしていた。トリビュートCDは初登場ベスト5にランクインし、レイジャーズ復刻CDも売れ行きが好調とのことだ。


 しかし、この隆運ムードとは逆比例するように、すでに遠隔転移した癌細胞によって蝕まれた丈司の身体は、終末ケアのステージへ向かうことになってしまった。北九州のホスピスへの入院だ。この時、武道館コンサートまでは、あと二週間を切っていた。


「立って歌うことはできないな」

 愁眉を寄せた福田からの言葉は、暗鬱な沈黙へとその場の空気を転じさせた。一週間後に迫る武道館公演の最終打合せのために、ホスピスまでやって来た翔吾と武永は、しばし言葉を失ったまま、お互いの視線を合わせた。

「先週までは元気に酒を飲んでいましたけど……」

 と、翔吾は丈司の体調の急変ぶりに喫驚した。


 福田は、翔吾の目を丁寧に伺いながら、「外見は元気そうでも、身体の中は着実に蝕まれていくのが癌だ。だから、周りの者は死期が近いことに気づかない」

(気づかないというより、事実だとしてもそれを認めたくはない)

 と、翔吾は衷心からそう思った。自分の意志とは無関係に両掌が小刻みに震えてきた。


 近頃の丈司は、疼痛による体力の減退が顕著になってきたようだ。現に、病室をお見舞いした時の丈司は、消炎鎮痛剤の影響なのか意識レベルは低下していて、安静に睡っていた。


「一週間後の公演日は、どんな体調でしょうか」

 と、武永が遠慮がちに口を挟んできた。命の継続と興行ビジネスという相反する提題を前に、苦悩する皺を顔に浮かべている。

「それは医者にも分からないそうだ。患者それぞれに存命期間は違うようだ」

「神のみぞ知る、ですか」

 と翔吾が誰に言うでもなく呟いた。

「会話に支障が出た場合はあと三日。応答が難しくなった場合はあと数時間から二日が限界らしい。今の丈司の様子を見ると、武道館当日までは、なんとか大丈夫だと思う」

「しかし、ステージに立つのは難しい、と?」

 と翔吾が訊ねた。


「今のところ、モルヒネ投与までの痛みには至っていないから、会話や歌うことは問題ないだろう。でも、歩いたり、立ったままで歌うのは厳しいと思う。車椅子のロッカーじゃ、見っともねえーしな」

 と福田が慮ったところで、

 武永が「ロックミュージシャンらしくいきましょう。ステージ構成は、俺に任せてください。いいアイデアが浮かびました」と一縷の智慧を蓄えた眼を光らせながら、自信ありげに言ってきた。


 日本武道館公演の当日、観桜の最盛期は過ぎてしまったが、散った桜が花筏となって浮いている皇居の御濠は、寛雅で美しかった。リハーサルを昼過ぎに予定している翔吾は、九段下から武道館への上り坂を歩いていた。この坂を踏みしめると自然と胸が高鳴ってくる。神社に参拝する時と同じように、崇高な気持ちに包まれるのが日本武道館なのだ。


 これは他のコンサート会場では味わえない独特な胸懐だ。元々は武道の聖地として建立された日本武道館ではあるが、ビートルズや大物外国ミュージシャンの来日公演だけでなく、日本レコード大賞などの歌謡祭も例年催されていたように、音楽の聖地としても君臨してきた歴史がある。


 大集客の興行ショーとしては、東京ドームなどの球場を利用する場合が多いものの、ドームでのコンサート鑑賞は、視覚と聴覚のズレが気持ち悪い。翔吾のように音楽耳をもっている人間にとっては、ドラムがシンバルを叩いている動作と、その音が遅れて届いてくる違和感は、真剣に音楽ライブを楽しむことができない。音の反響、客の呼応ともに調度良い大きさは日本武道館が最大である、と翔吾は思っている。


 田安門をくぐると、リアドアを閉じた機材運搬用の大型トラックが何台も停まっていた。ステージ設営は粗方終わったのだろう。リハーサルは午後イチから出演順とは逆の順番で行われているが、大トリ出演の丈司のリハは代役を立てて既に終わっていた。昨日から東京へ移動していた丈司の体調は、良くも悪くも大きな変化はないが、出演時間まで控室のベッドで横になって体力を温存するらしい。ぶっつけ本番のステージというわけだ。


「おはようございます」

 と、翔吾は関係者控室に入っていった。

 昼食の弁当を食べていた武永は、「よう、翔吾。準備は万端だ」と恬淡で屈託のない笑顔を向けて、翔吾に話し掛けてきた。「おまえ、その顔は緊張してるな」

「久々の大きなコンサートだしね。武道館だと尚更だ。武永は緊張しないの?」

「これが俺の日々の仕事だ。もう慣れた。でも、今日は丈司さんのステージ演出の時は、俺も緊張するだろうな」


 どのような演出プランを組立てたのかは、今日の今日まで教えてくれなかった。「大トリの丈司さんのステージは、おまえも観客として楽しめ」と武永が言っていたのだ。その言葉に甘えて、その言葉を信じて、丈司のステージは最期の薫陶にするつもりだ。

 翔吾がリハを終えた頃は、物販や会場整理の関係者らも増えてきて、楽屋裏の人口密度が濃くなっていた。開演前独特の鷹揚感が時間を逐って高まってくる。スタートラインへ向かうスポーツ選手と同じ気持ちだ。


 出演陣への挨拶周りを一通り済ませたところで、武永が「丈司さんが控室入りした」と教えてくれた。北九州から東京への医療用搬送車両の手配、今日は医療スタッフの待機など、丈司へのケアは隅から隅まで行き届いていた。


 丈司の控室のドアをノックした翔吾は、「失礼します」と言って入室した。

 丈司はベッドに横臥していたが、意識はハッキリしていて、微笑を浮かながら、「夢は口に出して言うと、叶うもんなんだな」と言った。「思い残すことは何も無いよ。君には感謝している。俺らは感動を伝える仕事なんだから、自分の感動をそのまま歌ってきたけど、最期の最期で『感謝』という気持ちも乗せて、今日は歌うよ」


 今生の別れのような、いや明らかに別れの含意に、翔吾はどのように返答して良いか、その語彙が出てこなかった。代りに出てきたのは涙だった。それに気づかれないように天を仰ぐしかなかった。



(つづく)


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