七色の鱗 35
裕太は呆然と立ち尽くす。
暗闇の底に沈んでいった友の姿を声を求め、そしてあきらめる。
ああ彼は行ってしまった。
裕太は悲しくなった。
裕太は零れ落ちる涙をぬぐう。
裕太は向き直った。
悲しい。苦しい。楽になりたい。
そんな欲望が頭をもたげる。
でも、と彼はかぶりを振る。
僕にはいかねばならぬ道がある。
裕太は手を伸ばした。何もない闇の先で何かが動く。
そして裕太は光の中に再び立った。
そこはどこかで見たような夕暮れの世界だった。
足元には鏡面のような水面が広がっていた。空には雲が流れる。
どこかで見たような。しかし決定的に何かが違う。
「ああ、そうなの。これが私の最後の夢なのね」
裕太は振り返った。
そこには彼女がいた。
晶音は嬉しそうに寂しそうに。
裕太はゆっくりと彼女のもとに歩み寄る。
裕太は驚かなかった。
「君の門出に、私は立って、そしてここに流れ着く」
晶音がうたう。
「夢を描いて、夢に囚われ、夢をあきらめ、でもここに立つ」
晶音は涙を流した。
水晶のような涙が彼女の頬をとくとくと流れ落ち、そしてぽちゃんと足元の水面に水紋をたてる。
「ああ、もう私は夢を見れないのね」
裕太は無数の波紋の中を進む。
彼の一歩一歩が水に円を生む。
二人つくる波は出会って絡み合って高めあってそして消える。
裕太は彼女の前に立つ。
夕日が二人を照らす。
晶音の黒髪が茜に光る。
「夏島さん、僕は行くよ」
「そう行くのね」
どうしてかはわからない。
裕太はそっと手を前に出す。
つり出されたように晶音も手を前に出す。
二人は手を取り合った。
まっすぐに突き出された二人の手は固く結ばれる。
二人の指は絡み合い。ほどけあい。
しかし熱く熱く握り合った。
水面に二人に真っ黒な影が映る。
「僕は行く、あの夢のない世界に」
「君は旅立つ、あの星のない世界に」
「太陽が沈んでしまえば、もう星は昇らない」
「太陽が沈んでしまえば、もう星は映らない」
「それでも行くよ」
「それでも行くのね」
「僕は行きたい」
「私にはわからない」
「僕は見つけられない」
「私にも見つからない」
「星は昇らない」
「救いがない」
「でも行こう。あの世界に笑みさえ浮かべて」
「私はここに立つ。君の門出に立ち会うために」
握った手が熱い。夕日の中に溶けてしまいそうだ。
とくんとくんという音が聞こえる。二人の手の平を通して。
晶音ははらはらと涙を流す。なんどでも。
夕日は彼女を照らし。彼女の顔は茜に沈む。ただその雫のみが万感の光を受けて砕ける。
その時ざっと風が吹いた。
日が沈む。
裕太は夕日の中に一人立っていた。
鏡のような水面の向こうに真っ黒な晶音の影だけがただ一人揺れる。
晶音は夕日の中で一人立っていた。
鏡の向こうに裕太が見える。
ああ、いくのか。
二人は地平線に沈む夕日を見る。
地平の果てまで続く鏡面が、真っ赤な夕日を映し出す。
夕日は巨大な目の様に彼らを照らす。
二人は手を下ろす。
その手のひらにもはやあのぬくもりは残っていない。
その時また轟と風が吹いた。水面に無数の波紋が生まれる。
裕太は見た。鏡面の向こう側で何かが動くのを。
晶音は聞いた。自らの頭上で何かが吠えるのを。
桃色の龍はその長い体をくねらせて、雲の間から現れた。
七色の光が夕日の中で舞い踊る。
晶音の前に龍は降り立つ。
そしてその片方しかない瞳で晶音を見た。
晶音は龍に笑い返す。
龍はもはや悲しそうな眼を彼女に向けてはいない。
裕太は自らの足元に広がる光景を食い入るように見つめた。
その時龍の隻眼が鏡面の向こうから裕太を見た。
裕太は自分の手の中に何か重いものを感じて目を落とす。
そこにはあの白い石があった。
それは重たく冷たく。そして小さく脈動していた。
晶音が鏡面の向こうの裕太に微笑む。今までで一番自然な笑みを浮かべる。
裕太は自分が何をするべきなのかもうわかっていた。
裕太は手の中の石を。いや龍の眼球を。足元の水面に落とす。
鏡面は何の抵抗もなくそれを吸い込んだ。
鏡の向こうで晶音がそれを受け取る。
晶音は龍に駆け寄った。
龍はその長い鎌首をもたげて、頭を差し出した。
晶音は龍のうつろな眼窩にそれをはめ込んだ。
ざあと一際強い風があたりに吹き荒れる。
空の雲が跡形もなく吹く飛ぶ。
龍はゆっくりとその双眼を開く。
ああなんと美しいのか。
龍は夕日の中で満足そうに息を吐く。
日はもうだいぶ小さくなった。
夜がやってくる。
その時裕太はみた。
晶音は龍の長い顔に自分の顔をこすりつける。
龍は気持ちよさそうに目を細める。
晶音と裕太の視線が交錯する。
晶音が何かを叫んだ。嬉しそうに嬉しそうに。
そして彼女は龍を見上げると。
晶音は龍の角の間に跨った。
大きな龍の額の上に彼女は立って、その白磁の角にしがみつく。
七色の鱗が夕日の中でひときわ鋭く光る。
龍は飛び上がった。
茜の空を龍が行く。その額に少女を載せて。
彼女が手を振っている。
裕太は手を振り返した。大きく大きく。
龍は茜の空を泳ぐ。
その時鱗が一枚また一枚とはがれて、夢の世界に降り注いだ。
光の雨が茜の最後の欠片のなかを舞い落ちる。
日が沈んだ。
夜がやってくる。
龍は行ってしまった。彼女を載せて。
日は沈んだ。
星なき夜空が裕太の上に広がる。
水面の向こう側には無数の鱗が今も降り注ぎ、その様はまるで満点の星空の中にいるようだ。
七色の鱗が舞い落ちる。
裕太の向こう側で。
裕太は空を見上げた。
星のない真っ暗ない空だ。
真っ暗な世界で一人浮かんでいた。でももう何をすべきかはわかっている。
裕太は手を伸ばす。
手を伸ばして。きっと届く。
裕太は目を開いた。
目を開いて。きっと見える。
そして裕太は眼を覚ました。




