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七色の鱗  作者: 河東 鶚
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七色の鱗 33

 垣根和馬は本当に幸福だった。

 彼は世界に名だたるスポーツマンとしてそのピッチに立っていた。

 幾千もの人々が彼を一目見るただそれだけのためにそこへと足を運び、幾万の人が彼の一挙手一投足をかたずをのんで見守った。

 彼は幸福だった。

 彼は彼に求められている全てを体現した。

 彼はすべての人の望んだとおりにすべてを実行した。

 群衆は彼に惜しみない賛辞を贈った。

 彼はその万雷の拍手を全身に浴びて、心の底から幸福をかみしめ、今までになく満ち足りた気分になった。


 彼のもとにはあらゆる人間が訪れた。

 同じチームの選手や監督、マネジャーのみならず。多くの記者、著名な解説者、伝説的な元選手、大企業の宣伝担当者、そして数多くのファンたち。

 そのすべての目には彼しか映っていない。彼だけを見て、彼だけを求めて、彼だけを信じた。

 彼はそれを全霊をもって享受し、そして当然のようにその求めるところを完璧にこなした。

 彼は幸せだった。

 そう彼は幸せだった。


 彼は一般人では何百年かかっても到底稼ぎ出せない大金を手にした。彼は有名な高級住宅街に屋敷を構えた。彼は何台もの特注外車を乗り回す。彼のシャツ一枚、腕時計一枚はその一つ一つが一般車一台分かそれ以上の価値を持つ。彼は美しく献身的な妻を迎える。彼は愛らしい息子と娘に恵まれる。その間にも数々の仕事をこなし、彼の名声は天井知らずだ。

 テレビをつければあらゆるレポーターが彼をほめそやす。道を歩けばすべての人が彼の雄姿に目を細める。彼のなんともない発言の一つ一つに世界中が注目する。

 垣根和馬という人間にこの世のすべてが注目して、彼だけを見て、彼だけを求め、彼だけを信用した。

 垣根和馬代言う人間はこの世のすべての注目に答え、視線に笑みを返し、業績を重ね、決して期待を裏切らなかった。

 和馬はとても幸せだった。

 しかしいつしか和馬は何か足りないと思うようになる。

 人々は彼だけを見る。しかしそれは当然だ。なぜなら自分ほどの人間に注目しないはずがないのだから。

 人々は彼だけを求める。それも当然だ。なぜならもはや彼の身にしかできないことが数多く存在するのだから。

 人々は彼だけを信頼する。当然すぎる。なぜならただの一度もその信用を無駄に散らすようなことはしなかったのだから。

 彼は不満だった。

 すべてがあまりにも当然でいつも通りに感じられる。

 富も名声も、もはやそれらは彼にとって何ら特別なものではない。

 視線も賛辞も期待ですらも、もはやあれにとっては日常だ。

 和馬は自問する。

 俺は何を求めていたのだろう。

 幸せな家庭。あり余る富。鳴り響く名声。そして並ぶもののない才能。そのすべてを手に入れた今、俺は次に何を求めればいい。

 すべての夢がかなうことを望み、そしてかなってしまった。

 もはや和馬の手に入らないものはない。

 和馬はそれを心の底から望んでいた。

 しかしどうだ。そのすべてを実際に手に入れてからは。

 あんなに輝いて見えた日々がもはやくすみきってしまった。

 和馬の目はあの時確かに星を見据えていた。

 しかし実際に手にした星は何の価値もないただの石ころではないか。

 和馬は自分が何を望んでいたのかもはやわからなくなってしまった。


 もはや彼の耳に賛辞は届かない。期待は腐り果て、名声は見失われた。

 あんなに望んだ夢のような日々は、もはやただの日常になってしまった。

 彼の瞳に映り彼を魅了してやまなかったあの星々は、他ならぬ彼自身の手によって地上に落とされ、今や路傍で朽ち果てるばかりだ。

 和馬は何を望み。何を夢みて。そしてどうしたかったのか。

 その問いに和馬は呆然と立ちすくんでもはや何もわからなくなってしまった。

 届かない賛辞はもはや何もない沈黙に変わった。

 目に映らない光景はもはや何もない虚無と変わりない。

 見失われた名声や期待など、何も感じていないのと同じことだ。

 彼の目はいつしか真っ暗な闇に沈み。彼の耳は一切の沈黙に閉ざされる。

 彼は確かに望むすべてを手中に収めた。しかしその掌中には何も残ってはいなかった。

 和馬は空を見上げた。

 星のない真っ暗な闇が遠く遠く広がる。

 和馬は背中に何かとても冷たいものが触れた気がして、慌てて目をそらす。

 しかしもはや彼は闇に包まれていた。どこに目を動かそうと迫りくる虚無から目をそらすことはできない。

 どうして。彼は叫んだ。

 俺は夢をかなえた。すべての望みを実現したのだ。

 なのになんで。なんで。

 なんで最後にたどり着いたのはこんなくらい果てのない闇なのか。

 彼は叫ぶ。もうどうしようもない悲しみだけが彼をつき動かし、しかしそれもいつしか彼の中から流れ落ちて闇に溶けていく。

 あんなに輝いていた星々は。俺が渇望したあの夢たちは。いったいどこに行ってしまったというのか。俺は確かにそれをつかんで、そしてそれを決して放しはしなかったのに。

 彼の叫びを聞く者はもういない。

 彼の夢の世界は彼が望まなくなった時点で消えてしまった。蜃気楼のように。

 彼は彼自身の手でその世界を崩壊させてしまったのだ。

 荒れ果てた夜の中で彼は絶望する。

 夢の終わりがやってきたことに涙を流す。

 はらはらと。はらはらと。

 彼はたった一人で休息の中に取り残されてしまった。


 もはや彼のすべては流れだして崩れ落ちてしまった。もはや彼の中には何も残っていない。

 彼はもう何も感じなかった。

 自分の望みは何だったのか。俺は何をつかんだのか。

 それだけをいつまでも考えていた。


 ー長い時が過ぎる


 ある時和馬はわずかな風の流れをとらえた。

 何かがそっと頬を撫でた気がした。

 和馬はゆっくりと目を開ける。

 黒一色に染まった彼の目に小さな点が映る。

 それは白くまぶしく輝きながら。彼のほうに近づいてくる。

 彼は歓喜のうめきを上げた。もはや何か意味のある言葉を吐けるような余裕は残ってはいなかった。

 彼は光を見る。

 なんて輝かしいんだ。

 彼は初めて石に触れた日の光景を思い出す。

 真っ暗な世界の中に一人ポツンと浮かんでいて、ある時白い光を見つける。

 和馬はあの時の様に光によたよたと近づく。

 ああ、俺の夢はまだ終わってはいなかったのだ。夢の世界がまた俺を迎えに来たのだ。

 彼は歓喜の雄たけびを上げる。

 光はゆっくりと近づき。光にゆっくりと近づき。

 そして和馬は光の前に立つ。

 彼はゆっくりと手を伸ばした。

 もう一度夢をつかむために。

 そしてその手は空を切る。

 つんのめった彼の前に足が見えた。

 二本の足がまぶしい光の中でしっかりと大地を踏みしめてる。

 和馬は顔を上げて、そして見た。

 

 こうして垣根和馬と松葉裕太は再び相まみえた。

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