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七色の鱗  作者: 河東 鶚
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七色の鱗 24

 そこは何もない場所だった。

 青い空があった。

 白い雲があった。

 足元には透明な水が浅く張っていた。

 しかしそのどれもが、まるで時間を忘れたかのようにピクリとも動かなかった。


「ようこそ。私の夢へ」

 後ろからあの声が聞こえた。

 鈴がなるような美しい声だ。

 そこにいたのは一人の少女だった。

 長い髪は腰にかかるほど。その真っ黒い髪が白い肌によく映える。

 ほっそりした手足にやはりほっそりとした顔。

 くっきりとした黒い眉の下には、空を映して青く輝く瞳がある。

「きれいな所でしょう。青い空があって、空には雲が浮かんでいて、透明な水が足元を満たして、そして何も動かない」

「ああとってもきれいだ」

 事実そこはとてもきれいだった。否、きれいという言葉はふさわしくない。清浄というほうがまだ近い。

 そこにはまるで絵にかいたかのような美しい光景が、そして絵に描かれたもののように時間が止まった光景があった。

「これは私の夢の成れの果て。淡くて薄くて儚くて空虚で繊細で薄情でそしてどこまでもきれいで救いようのない夢。ここにはここにあるものしかなくて、ここにないものは生まれない。そんな未来のない世界。可能性が死んだ夢。白くて青くて透明で、それを害するものなど何もない永遠の世界」

 彼女は歌うようにそう言った。楽しそうに、まるで夢見る少女のように、空を見上げた。

「流れない雲って本当に美しいと思わない?だって流れないのよ。真っ白なまま、きれいなまま、何にも汚されず、濁らず、害されず。まるで眠っているみたいに空に浮かんでいる。いつだってあの白のまま。いつまでもあの白のまま。何も起こらずに永遠にあそこでぷかぷか浮かんでる。とってもかわいい」

 彼女はその足元に目を落とす。白い足首が透明な水の中で光っているのが目に入る。

「この水も同じ。私がどんなに足を動かしても、この水に波紋は生まれない。私がこの手ですくっても、ただの一滴たりと手の中には残らない。指の間に隙間なんてないつもりでも、すくったそばからキラキラ輝く雫となって、ただもといた場所に戻っていく。それがそこにあるように、それがそこにしかいられない。いつまでも澄んだままで、波一つたてず、その鏡面のような面で空を映す。まるでそこには水などないかのように」

 彼女は顔を上げて裕太を見た。

 流れぬ雲を映した瞳が、見えない水をたたえて静かに見つめる。

 裕太は唐突に不安になる。

 彼女はゆっくりと口を開いた。

「君はなぜここに来たの、松葉裕太君?」

 彼女は静かに笑いながらそう問いかける。いたずらでもするように。おかしくてたまらないとでもいうように。答えなどとうに知っているかのように。

「君が呼んだからさ、夏島晶音さん」

 裕太はのどに引っかかったその答えを何とか吐き出す。

 自らの声が自らの鼓膜をポンと揺らすのを新鮮に感じる。

「そう答えると思ったわ」

 裕太の答えに夏島晶音は満足そうに眼を閉じた。


「まさか君とここで会えるとは思ってもみなかったわ」

「それはこっちも同じさ」

 裕太は晶音と向き合ってそう答える。

 彼と彼女は数メートル離れて立っていた。

 手を伸ばしても届かない。でもその瞳はお互いをはっきりと見つめている。

 彼女の瞳は空を映して青く輝き、その中を泳ぐ雲はやはり全く動かない。

「ここは私の夢。夢を願っても夢を見れなかった者の夢。夢を願って、でも夢を見れなくて、最後にはこんな時間のない部屋で一人途方に暮れて、しかしそれでも夢がわからないものの夢」

「夢を見れなかった者?」

「そう私は夢を見れなかったのよ」

「でも君はここに、夢の中にいるじゃないか」

 裕太の声に晶音は笑う。

「松葉君は垣根君とは違って、ここが夢だとまだわかっているのね」

 晶音の瞳がいたずらっぽく輝く。

「自分の理想を、その夢を前にして、あなたはまだ現実を見失わないの?」

「……和馬のことを知っているのか?」

 裕太は絞り出すようにそう聞く。

「ええ。ここで見ていたから」

 晶音はそういうと、動かない雲を見上げる。

「彼が自らの理想を前にしてありえないと笑ったこと。うらやましいと思ったこと。ありえないと知っていてもしかしそれを認めたくなくて、認められなかったこと。自分が望む居場所が、何度願ったか知らない自分だけの意味が、彼の前に立ちはだかって、そして彼を飲み込んだこと。夢を見続けて、夢にとらわれて、自分の望む世界が現実だと思いたくて、自分が望まない世界が夢だと思いたくて、自分には本当に意味があると、自分こそを望むものがいると信じたくて、そして現実に背を向けたこと。……私はここでそれをずっと見ていた」

 晶音は目線を戻し、裕太を見つめる。

「彼は夢を見すぎて、夢におぼれて、夢にとらわれて、そして現実に戻る意味をなくしてしまった。自分が生きる意味が欲しくて、自分が生きる世界を捨ててしまった」

 晶音は静かに笑う。

「愚かよ。バカとしか言いようがない。本末転倒もいいところ。でも私は彼の行いを責めることなんてできないわ」

 彼女は足でパシャンと水をけった。水晶のような雫が光を映して星のように輝く。だが、水面はまるで凍っているかのように、なんの変化も生じない。

「彼の行いはとてもとても人間らしい。自らの欲に忠実で、実直で、安直で、愚直で、正直で。認められたいと、信じられたいと、求められたいと、ほかの人間が当たり前に思うことを彼も思い。そしてそれを夢に見て、ほかの人間が容易に手にすることはできないそれを、彼はその夢の中で手に入れた。そしてそれからもう手を離すことはできなかった。血を吐くような思いなどする勇気も度胸も気概もなくて、でもそれが欲しいと喉から血が出るほど叫んで、そして最後にそのすべてと引き換えにそれを手に入れた」

 晶音は満足そうに笑う。

「とっても健気で美しいことだと思わない?」

 裕太は彼女の瞳を見つめ返してやっとの思いで叫ぶ。

「思わないよ、そんなこと。確かに和馬はその意味を見つけ、認められ、信じられ、求められ、その望むところのすべてをついに手に入れた。でもそれは決して現実じゃない。まやかしだ。和馬の手の中にあるのはただの陽炎に過ぎない。僕はそれがどんなに美しくても、そこには何もない」

 裕太は言い放った。

「そう。あなたって強いのね」

「強くなんか…」

「でも彼は違った」

 晶音は裕太の言葉をさえぎって続ける。

「痛いのも、つらいもの、苦しいのも、苦いのも、みんないやでいやで仕方ない。そんなことは当たり前のこと。夢を形にするのにも、願いをかなえるのにも、希望を遂げるのにも、必ず大きな痛みが伴うものよ。そんなことは彼にだって私にだって君にだってわかってる」

 晶音は歌うように語り掛ける。

「でもそれを信じられない人がいる。人と同じように夢を見ても、その痛みには耐えられないものが。太陽をつかみたくても空を飛ぶ勇気がないものが。願いがあってもいばらの道を進む度胸がないものが。この世界には大勢いる。そんな彼らの目の前にある日突然夢が降ってきたら、どうなると思う?」

「どうなるのさ」

「それが間違ってるかもしれないと、まがい物かもしれないと、おかしいかもしれないと、そう思っても手を伸ばす。彼らはいつだって願っている、空から甘い甘い飴が降ってくことを。なんの苦労もせずに、なんの痛みも受けずに、なんの努力もせずに、でも自分がまるで苦労したかのように痛みに耐えたかのように努力をし続けたかのように、その夢が結ばれることを」

 夏島さんは裕太のほうに一歩踏み出す。

「それはきっとあり得ない。苦労も努力も挫折もせずに、ただ夢だけがポンと生まれてくるなんて、そんな虫のいい話はないわ。でもそんなことは私もあなたもそして彼もいやというほど知っている。特に彼は努力をしても報われないでいるつらさを、苦労しても贖われないでいる怨恨を、耐えても得られないでいる鬱憤を、その身にいやというほど刻み込んでる」

 パシャパシャと水音が響き、星屑が空に溶ける。

 ピクリとも動かない水面を、晶音は一歩一歩と進んでいく。

「なんで俺の努力は報われない。なんで俺の理想はかなわない。なんで俺には才能がない。なんで俺は必要とされない。そして俺は何のためにここにいて、そして何をすればいい。彼は幾度も幾度もそう叫んだ」

 晶音は裕太の前に立って裕太を見上げた。ピクリとも動かないそれを夏島さんは面白そうに見つめる。

「でも、彼は手に入れてしまった。彼の前にはあるはずのない飴が、甘い甘い飴玉が、なんの前触れも代償も理由もなく降ってきた。ねえ、松葉君。あなたならそれを前にしてそれに手を伸ばさないでいられるかしら。してもいない努力が報われて、指をくわえて眺めるだけの理想がかなって、なんの脈絡もなく才能を得て、理由も対価もなく必要とされて。あなたはそれに背を向けることができる?」

 答えなんてとっくに知っているでしょと、晶音の瞳が裕太を覗き込んだ。それをとらえて離さないように。その中にあるものを抉り出そうとするように。晶音の瞳は裕太を見つめた。

 裕太は何も答えなかった。答えなどとうにわかっている気がした。でも言えなかった。

「何も言わないのね、君は」

「…わからないのさ」

「それは嘘ね」

 晶音の細い指が裕太の唇に触れ、それをすっとなぞる。裕太は反射的にビクッと体をそらすが、彼女の指は彼をあきらめてはくれない。

「君は知っているはず。君も垣根君と同じ人間で、それもどうしようもないただの人間なのだから。でもきっと君は言えない。それが君の夢だから。望むことを夢に見ても、望むことを認められない。それが君の夢だから」

 晶音の指が離れても、裕太は射すくめられたかのように動けなった。

 晶音は嬉しそうに続ける。

「ねえ。松葉君聞かせてよ。夢を見れなかった私に、夢から逃げた君の話を。そうしたら教えてあげるわ。夢を見すぎてしまった彼の話を」

 晶音はいたずらっぽく笑ってそう言った。


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