第7話
アンスロポス帝国は、3つの国から成り立っている。これは地形にも当てはまり、アンドレイヤー、ズィナミ、ソフィアの3国が三角形を描くように配置されており、中心地に帝国の城とそこに付随する城下町が建設されている。各国の往来は自由で、どの国からどの国に行こうとさほど距離はかからない。実際、アンドレイアー王国にアリグナクとエーギルが訪れた際にも、2人はその日中に帰宅し就寝できている。統制された地形はまさに人工物であり、自然が織り成したものではない。他の種族間に城壁のような物理的な壁はないが、やはりどこかお互いに干渉を避けているように感じられるのは、神がこの世界を見放したせいであろうか。極力争いを生まぬように努めていると、比例して交流も減っていってしまった。
しかし、種族の中だけであれば情報の伝達は早く、特にゴシップなどは回りが早いのだが、今回の「アンドレイアー王国に勇者が現れた」という話は、お喋り好きな城の女中から一気に王国中に広まり今やアンスロポス帝国の皇帝の耳にも入るほどとなった。
その間、アンとジャンティーは何をしていたのかと言うと、それぞれの実家に戻りきちんと家族に報告をしたり、最終的な旅の準備を整えていた。また、噂が広まる前には、アンドレイアー国王から皇帝に勇者が現れた事とアンを同行させる事について連絡が行っている。アンはその伝達の中に、エーギルとアリグナクも同行させてほしいとの主旨も記載させた。アンドレイアー王国のみから同行者を出すとなると他の2国の面目が立たなくなってしまい、結果3国の信託に支障をきたすのではないかと国王が判断したためだった。そこで、連携の取りやすい幼馴染を推薦したという流れである。
同様に、2人にも準備期間は必要であるし、それぞれの国王や軍団長との合議もあるだろうと配慮された。そこで帝国には勇者を含め世界を救うために奔走する4名が同時刻に集合するよう日程を取り決め、それはとうとう翌日に迫っていた。
「アン…本当に大丈夫なの?別に、貴女が行かなくても勇者様が解決してくれるし、もっと強い人にお任せしてもいいんじゃない…?」
「うん。だけど、勇者サマはまだ子供だった。一般的に習うくらいの武術は心得てると思うけど、それでもやっぱり外の世界は怖いでしょ。ゲームじゃないんだから、1度やられたらもう終わってしまう。そうしたら、誰が世界を救ってくれるのさ。だから、守ってあげなきゃ。それに、師団長とか軍団長は近衛兵だもの。国王や皇帝閣下のお側から離れたらダメだよ。」
夕食時、最後の晩餐と表現すると何やら不吉な印象を与えてしまうが、実際にアンの家では沈んだ雰囲気になっていた。母親はアンがこの話を持ち帰ってきた時からずっと心配しており、この旅に一向に賛成の意を示してはくれない。父親は、アンが勇者の同行者に任命された事を誇らしく思いながらも、母親と同様に娘の安否を懸念し葛藤していた。少ないながらも使用人達は昔からアンを知っている者達ばかりであったため、両親と同じように心配している者が多かった。
しかし、アンの決意は揺らぐ事はない。ジャンティーに負けず劣らずの力強い眼光で、何度も何度も皆を説得していた。両親以外は、アンの実力を知ってか渋々ではあるがすぐに納得してくれた。だがやはりと言うか、両親は最後まで良しとしていなかった。
「……アン、これだけは約束してくれ。」
ずっと口を閉ざし俯いたままだった父親が、ようやく顔をあげた。その瞳は不安に揺れ、しかし娘の決意を受け止め覚悟したようにアンは感じられた。
「お前は私達の大事な娘だ。そして、国を守るという重要な責務を背負った帝国軍に所属し、そこで隊長を任された。国からも必要とされている人間だ。だが、私達はそんな事どうでもいい。お前が幸せに笑ってくれさえいれば、お前がどんな職業に就こうがどうでもいいんだ。」
父親の話を聞いている間、帝国軍の士官学校に行きたいと両親を困らせた事をアンは思い出していた。その時も同じように、両親だけが最後まで反対していて、そして同じように結局はアンのやりたい事を優先させてくれた。母親もやはり前回と同じように、涙をハンカチで拭いながら父親の話を聞いていた。
きっと、ジャンティーも家族とこのような会話を交わしたのだろうな、とあの時の幼い少年を思い浮かべながら、アンは父親に次の言葉を促した。
「うん…。」
「だがな、決して無理をするな。いくらマーレとボーデンのご子息達がいようとお前は絶対に安全という訳じゃない。むしろその勇者を守るために危険に身を投じなくてはならないはずだ。私達の願いは、またお前の可愛い笑顔が見たい…それだけだ。」
「…うん!」
思わず、アンも涙声になってしまった。理解している、痛いほどに両親の思いは理解しているのだ。この屋敷の使用人も領地に住む人々も、アンの事を心配し、それと同時に応援してくれている事は。だからこそ、アンはこの世界をもう一度平和にしなければいけないと強く誓った。魔物の脅威に怯えることなく、軍の仕事が減り、何度も実家に顔を出せるようになる事が、何よりもの願いだ。その為に自分が犠牲になろうだなんて思わない。生きて、そしてジャンティーを、エーギルをアリグナクを生かして、またこの地に戻ってくるのだ。
明日、ジャンティーを迎えに行く。そしてその足で帝国の城へ向かい、皇帝の言葉を賜り旅に出る。ここへ戻ってくるのは何年後か何十年後か…果たしてどのくらいかかるのか見当もつかないが、アンはいよいよ旅立つのだ。横を見ればすやすやと寝息を立てている父親と母親の顔がある。この歳にもなってと笑われたが、旅立つ前の最後の願いだと、幼かった頃のように同じベッドで寝かせてくれと頼んだのだ。この穏やかな時間を守るためにも、アンは瞳を閉じゆっくりと深呼吸をしたのだった。
そして、朝を告げる小鳥の声でアンは目が覚めた。使用人たちは既に働き出しているようで、パタパタと廊下を移動している足音が聞こえていた。両親よりは先に目が覚めたようだ。昔はいつも寝坊していて、母親から怒られていたが、今日は自分が起こしてやろう。
アンはそっとベッドから起き上がると着替えるために自室に向かった。戻った頃には2人とも起床しており少し残念だったが、起き抜けの顔でニッコリと微笑んでみせた。
「父さま、母さま、おはよう。」