第1話
ある日。薄い雲が空のキャンバスにぽつぽつと差し色を添え、柔らかい風がアンドレイアー王国の住民達の頬を優しく撫ぜるような、そんな麗らかな日。今日も今日とて、城下の見回りと称して公園や市場をフラフラと散歩している女性がいた。彼女は女性でありながら、着ているものはやわらかいワンピースなどではなく、銀色に輝くチェイン・メイルでその上には帝国軍の象徴である「不死鳥」の刺繍がされたブライトゴールドの平服を着用していた。鬱陶しいという理由で頭の部分の鎖は常に外している。そのおかげで、少し長めの黒いボブヘアがふわりふわりと楽しげに揺れていた。鎖の擦れる音が市場の騒音にかき消され、彼女が鼻歌を歌っていることすら誰にも気付かれていないのであった。
「やあ!隊長さんじゃないか!まーたこんな所でお仕事サボってるのかい?」
「あっ、マルキンさん。こんにちは!サボってないよ。いつもの通り城下の見回りだって。それより、今日のオススメはなに?」
隊長と呼ばれた彼女は、にこやかに挨拶をすると、マルキンと呼んだ中年の男性が開いている店に寄っていった。そこにはずらりと色鮮やかな果物が、瑞々しさをアピールするかのように光り輝いていた。
「今日はな、採れたて新鮮なオレンジさ!見てくれよ、この美しい艶!そしてこの鼻をくすぐる甘~い香り…!」
「今日はって、いつもマルキンさんのオススメはオレンジじゃない。」
「あったり前だろう?うちのオレンジはオムニス1さ!」
「ふふっ、じゃあ今日も6つもらおうかな!」
「あいよ!まいどあり!1番いいやつ、入れとくからね~!」
彼女はポケットから小袋を取り出すと、そこから小銭を出して店主に手渡した。そして、店主がオレンジを選別している間、思い出したように口を開いた。
「そうだ、マルキンさん。どうやらズィナミ方面の森で動物達が怯えているみたいなんだ。何か嫌な予感がするから、気を付けてね。あっちは、農園がたくさんあったでしょう?」
「そうさなぁ。まぁ、俺の農園だけじゃないからな。組合の方にも通達しておくよ。相変わらず、頼りになる隊長さんだ!よっしゃ、2個おまけしとくぜ!」
「やーりー!ありがとう、マルキンさん!」
彼女の太陽のような温かい黄色の瞳は空を仰ぎ、雲の流れを見ても何の変化も感じられなかった。少しの魔物退治と、平和な毎日。オレンジの良い香りに包まれて、彼女はまた市場の散策に移った。
「あら、まぁたアイツにオレンジ買わされたのかい?アンちゃん。」
「買わされた訳じゃないよ、エルダおばさん。あ、そうだ。オレンジ《これ》で新しいお菓子とか作れないかな?」
またウロウロと、市場に並ぶ商品を見ていると年配に近い女性が声をかけてきた。その声に振り返ると、井戸端会議をしていたのか、数名の同じような年齢の女性たちがニコニコと手招きをしていた。
アン(とは先ほどから話題になっているこの女性のことである)は、ひょこひょことその会議に参加するため近寄っていった。エルダはアンを幼い頃から知っており、彼女が兵役に就いてからも何かと世話を焼いてくれるのだ。
そう、アンはこのアンスロポス帝国の騎士である。そして、帝国統治下アンドレイアー王国の陸軍支援部隊の隊長なのだ。自由奔放に動き回り飄々としているように見えるが、常に周囲の空気には敏感で視野が広く偵察に長けている。人情味あふれる性格でもあり、今までの会話からもわかるように多くの人に慕われている。
「そうだねぇ、パウンドケーキはこの間作ってあげたしねぇ…」
「うん!あれ、すごく美味しかった!しかも、父さま達にも届けてくれて…いつも本当にありがとう。」
「なんだい、改まって。いつもは図々しく、早くお菓子を寄越せってせっついてくるくせにねぇ!」
「そうだよ!好き嫌いも多くってねぇ…」
「う、うるさいなぁ!別にいいじゃん!もう、私は見回りに戻るからオレンジよろしくね!」
「ははは!頑張んなよ~!」
「たまには家にも帰ってやんな!」
「は~い!おばさん達も、お話が楽しいからって夜遅くまで出歩かないでね!」
注意を促しつつ、オレンジをエルダに渡したアンはそのまま逃げるように市場を後にした。
彼女の両親はアンドレイアー王国に住んでいる、帝国のお墨付きを得た農作物を栽培する土地の領主である。同時にアンの父親は狩人で、肉や魚も献上している。帝国城内の食材のみならず、アンドレイアー王宮の宮廷料理の食材もこの土地の物である。アンにはそれが誇りだった。両親はしっかりとした統治を行っており、土地に住む人々からも信頼されている。しかも、管理だけをすれば良いのにも関わらず、自ら畑を耕し、狩りに出かけたりと、統治下の人々とのコミュニケーションを怠る事はなかった。そのアグレッシブな言動は、アンもしっかり遺伝しているのだろうなと密に嬉しかったりもする。
しかし、軍に所属する彼女は基本的に寄宿舎で寝泊りしているため、なかなか実家に帰る事が叶わないでいる。仲が悪いわけで全くなく、むしろ1人娘であったアンは両親にべったりだった。一緒に畑を耕したり、狩りに出かけ弓の扱いを教えてもらったりと、楽しい思い出ばかりだった。しかし、軍に配属されてからというもの常に忙しく、出世までしてしまったからには責任も増え休日はどんどん減っていってしまったのだ。
「来週こそは有給取って家に帰ろう。」
アンはそう呟きながら、いい加減サボりに気付いた部下達が自分を探しに来る前に、王宮に戻ろうと歩を進めるのであった。
※2018/05/25 改変済。アンの容姿について付け足しました。