雲を帰す城
雨上がりの獣道は歩きづらいことこの上ない。べちゃべちゃという不快な音を立てながら、俺は無言で先を急いだ。
ふと目線を上げると、紫色の花が垂れ下がっているのが見えた。俺はそれをそっと手に取ると、額に押し当てて目を閉じた。
俺が育ったのは、飛騨の山奥、白川郷の帰雲城下だった。
城下とはいえ、岐阜や安土のように栄えている訳ではない。
父親は家臣ではあったが、武道よりも農作業に精を出すような男だ。しかしよく慕われる人のいい父親で、武士としての心得もしっかりと持っている男だった。俺はそんな父が——当時はこっ恥ずかしくて言えなかったが——好きだった。とはいえ俺は情けないガキだったために、親父には感謝の言葉をまともにかけたことはない。
そんな俺には、幼馴染みがいた。
幼馴染みと呼ぶにはおこがましいほど、綺麗な女だ。笑顔は花が咲いたように可憐だった。気は強いけれど、城主の娘ということを傘に着ない、奇特な女だった。
その日、アイツはいつものように、野山を走り回るためにボロボロで継ぎ接ぎだらけで糸がほつれた小袖を着ていた。
「半三郎、今日は川に行かん?」
もう十五だというのにおてんばの抜けないアイツは、いつものように屈託のない顔で笑った。
「いいけど……まだ冷たいやろ。もうタラとかコゴミとかもないやろうし」
桜も散って、山が明るい緑に染まってきた時期だった。
川で水遊びをするには水が冷たすぎるし、山菜はもう伸びてしまっている。
「いいんやさ。なんか行きたい気分なんやって」
「なんやそれ」
「いいやろ、久しぶりなんやし」
言いながら、満面の笑みを見せたアイツに負けて、俺は頭を掻きながら着いていった。
跳ねるようにして走るアイツは、歳よりも幼く見えた。
藤の花が咲く山を抜けて、谷に降りていく。
川の音が聞こえて、急に視界が開けた。
藤を一房持って、アイツは川に向かって一直線に走っていった。そのまま、石を渡って川の真ん中あたりに出た岩に立った。
「気持ちいいなぁ」
藤の枝を振り回しながら、アイツは呟いた。
俺は半ば呆れながら、その辺にあった石を拾って、勢いをつけて下流に向かって思いきり投げた。ちゃぽん、という音が涼やかだった。
「半三郎さ、今いくつやっけ」
突然そんなことを聞き出したアイツに驚いて、俺は眉に皺を寄せた。
「同い年なのに忘れたんか。十五やけど」
「そっか、そうやったな。ほら、半三郎は老けてみえるもんで忘れてまって」
「失礼やな。お前はガキにみえるよ」
そう言うと、アイツはいいやろ、と言って笑った。
そんな笑顔が、なんだが気持ち悪く見えた。
「どうしたんよ。今日なんか変やぞ」
「へ? 気のせいやよ」
こともなげに言うアイツの横顔が、いつもと同じように見えて、気のせいかと思い直した。
「半三郎さ、荻町に行くんやって?」
ドキッとした。
荻町というのはこの帰雲城より北にある、城のある集落だ。俺の生まれた城のある町でもあった。
なぜ知っているのかと思ったが、これでも城主の娘だ、むしろ自然かもしれない。
「まあ、俺ももうすぐ元服やしな。潮時やろ」
「——嫌や」
「は? 嫌って?」
怪訝に思ってアイツを見ると、見たこともないほど真剣な顔をしていた。
その顔が泣きそうに見えて、さらに不思議に思った。
「やっぱお前さ、なんかあったやろ」
そう聞くと、アイツは唇を噛んだ。
明らかに目を逸らすアイツに、着物が濡れるのも気にしないで、俺は近づいていった。
「来んといてよ」
「嫌やね、そんな顔しとって来んなはないやろ」
「嫌いや、半三郎なんて。来んといて」
「ひっどいなぁ、嫌いやなんて。もうちょいかわいげのあること言えんの」
そう言いながらアイツに笑いかけると、とうとう泣いた。
ここまで泣くのを見たのは、子供のころ以来だった。山で迷子になりかけたときか、可愛がっていたウサギが死んだときからみていない気がする。
「とりあえず川から上がらんか。言いたいことあるんやろ」
するとアイツはこくんと頷いた。存外素直な女だった。
川沿いの大きな石に座らせて落ち着くのを待つと、アイツは少しずつ話を始めた。
「祝言が決まったんや」
驚いたが、グッと心の奥底に押し留めた。胸の奥の痛みには、気づかないふりをした。
「相手は?」
そう聞くと、返ってきたのは美濃の豪族の名前だった。いい噂はほとんど聞かないが、家のことを考えると妥当ではあった。
「覚悟はしとったよ。いつかそういう話があることは分かっとった。やけど、いざそうなると嫌や」
泣き止まないアイツの背中を、無言で俺はなで続けた。
同情するわけにはいかなかった。俺はこれでも臣下だし、この結婚が必要だということも分かっていたからだ。
かといって、アイツを突き放すことは、とても出来なかった。
「雲やったらなぁ」
泣きながら、アイツは呟いた。
「雲やったら、どこでも行けるんやけどな。いいなぁ」
「雲は空にしかおれんやろ」
「雨やら、雪やらになって降りてこれるろ」
ひきつった笑いを浮かべるアイツが痛ましかった。
俺は思わずアイツの手に持った藤の花を取って、腕の中にアイツを囲った。
「……ひどい男やな、半三郎は」
「お前はひどい女やろ」
言いながら髪に藤の花を差してやる。
それを触りながら、アイツは俺の胸に頭を寄せた。
「このまま空に行けんかなぁ」
「なに物騒なこと言っとるんや」
「正直者なんやさ、私は」
アイツを諌めながら、俺も同じことを考えていた。
このまま自由になれれば、幸せでいられる気がした。
「半三郎やったら喜んで貰ったんやけどな」
「人を物みたいに言わんといてくれんか」
「そんなことないやろ。そうやって言葉の隅っこをついてくるの嫌いや」
「おい、嫌いなんかよ」
「そういうとこのほかは好きやよ」
その顔がなんだか無邪気で愛しかった。
どれくらいそうしていただろうか。
日が傾きかけて、やっとで俺達は体を離した。
離れるとき名残惜しくて、俺はアイツの右耳のあたりに散らばる藤の花に口付けた。アイツ自身に口付ける訳にはいかなかった。
この時がもっと続いてほしかった。一日中の短さを、本気で恨んだ。自分たちにしがらみさえなければ、こんな思いはしなくてよかったのかもしれない。「雲になりたい」と言ったアイツの気持ちが、心の底から身に染みた。
そのあと、俺たちは何事もなかったかのように帰路についた。
日が落ちきる前に、城下からは見えない場所で密かに抱き合った。それが俺たちの精一杯で、最後のひと時だった。
アイツの祝言は俺が元服してすぐだった。
半三郎から名前を変えた俺と、立場の変わったアイツは、もう主従という繋がりしか持っていなかった。
臣下の末席から見たアイツの白無垢姿は、この世のものとは思えないほど綺麗だった。アイツの隣にいるのが自分ではないのが口惜しかった。
反面、アイツには白無垢よりも着古した小袖と藤の花が似合う、と思った。嫉妬でしかなかった。けれど、白無垢がアイツから浮いていて、アイツの魅力に押し負けていた。
角隠しの奥に見えるアイツの笑みは、いつか見た無邪気な幼い笑顔とは違い、落ち着いて大人びた笑顔だった。大切な何かが永遠に閉ざされた気がした。
一瞬アイツと目があった。もう別人になったアイツには何も思わないだろう、と思っていたが、その瞳の奥のアイツそれ自身に目を奪われた。それも一瞬で、アイツは逃げるように目を伏せ、それからこちらを見ようとはしなかった。
荻町城に移った俺は、アイツと会う機会を失った。
こちらでの仕事が忙しかったのもあり、帰雲城に行くことも減っていった。
あっという間に二年が経って、俺も武士という立場に慣れていった。それでも、アイツの姿はいつまでも脳裏から離れてくれなかった。
ちょうどその頃、戦が始まった。俺は出陣はしなかった。しかしその分、兵糧などの準備に追われていた。
アイツの父親である殿様の留守中に、帰雲城が奪われた、との情報がすぐに入った。出陣した殿様の方にも、帰雲城にもほとんど血は流れなかったらしく、安堵してしまった。アイツが無事ならば、それでよかった。結局俺は、アイツのためだけに動いていた。
敵方との和睦が成立したのは、秋から冬への変わり目のころだった。
前日は酷い雨だったのに、その日は気持ちが悪いほど雲一つない晴天だった。
和睦の成立を祝う宴が、帰雲城で開かれた。俺も誘われはしたが、理由をつけて断った。留守をしなければいけない、というのは建前で、実際はアイツに会うのが怖かっただけだった。
それは、その日の亥の刻くらいだった。
突然大きな突き上げる揺れを感じて、俺は目を覚ました。
建物の木が軋む音が尋常ではなく、本気でこの館が壊れてしまうのではないかと思った。立つこともできないほどの大きな揺れだった。数秒だったかもしれないが、何十分も続いたように感じた。
移動もできず、ただただうずくまるしかなかったが、運の良いことに館は耐えてくれた。十七年生きてきて、これほど大きな地震を経験したのは初めてだった。恐ろしさに身が震えたまま何もできず、明日は朝一で領地を巡って被害を把握しなければならない、と考えて、気を逸らした。
何度か起きた余震に怯えながら無理矢理眠りについて、起きてみると思いのほか時間が経っていなかったらしく、空はまだ闇に覆われていた。
昼間の晴れ間が嘘のように、空には星一つ見えなかった。不吉な空だった。
ほとんど眠らないまま、俺は日が昇ると同時に被害を調べ始めた。
とにかくまずは、帰雲城に連絡を取ろうと人を送った。
被害は大きく、そこらじゅうの家々が倒れていた。どうやら我が館は頑丈だったらしい。帰雲城からはどんな指示が飛んでくるだろう、と考え、予想しながら巡っていると、やけに焦った使者が戻ってきた。
「早いな、帰雲城の人らは何と言っとった」
「それが——」
使者は一瞬言い淀んだ。
まさかこの被害を放っておけと言ったのではなかろうか、と思ったが、流石にそれはないだろうと思い直した。
使者は馬から降りることもせず、一つ呼吸をおいた。
「帰雲城が、消えました……!」
「——どういうことだ、それは」
自分の声が低く澱むのが分かった。
全く言葉の意味が理解できなかったのだ。
「帰雲城が、あるべき場所に無いのです。城があった山の斜面が抉れたようにむき出しになっておりました」
土砂崩れ、という言葉が頭の中を駆け巡った。
確かに、他の場所でも土砂崩れで集落が埋まったという報告は受けていた。しかしまさか、帰雲城までそうなっているとは思えなかった。
もう一度使者の顔を見て、嘘では無いかと聞こうかと思ったが、その半分泣きかけた顔を見てやめた。この使者の家族も、帰雲城下に住んでいたはずだ。
アイツの顔が頭に浮かんだ。
アイツは、帰雲城にいたはずだ。
心臓が突然主張しだした。
そんなまさか。信じたくはなかった。しかし、信じるしかなかった。
俺はその場で膝から崩れ落ちた。涙は出なかった。実感がなかったからだ。
地震の瞬間よりも恐ろしかった。今までは会わなかっただけで、アイツと会えないことはなかった。一生の別れとは思っていなかったし、もう少ししたら俺も落ち着いて話せるのではと思っていた。けれど、もうそれも叶わないのだと思うと、自分の内側から全てをごっそり取られてしまった気がした。
アイツが俺の中に占める大きさを、改めて思い知って、打ちひしがれた。
そこからの記憶はあまり無い。気がついたら段取りは済んでいたから、とりあえず仕事だけはこなしたのだろうと思う。
一区切りつけたところで、人目をはばからないで俺は馬を走らせた。
十一月の空気は、刃物のようだった。いつ雪が降ってもおかしくない天気だった。それでも俺は、夢中になって駆けた。
よくアイツと遊んだ川について、俺は帰雲城があったはずの山を見上げた。茶色い土をむき出しにした山肌は、いっそのこと清々しいほどだった。土砂は川に流れ込み、川の水を茶色に変え、淵を作っていた。
馬から降りると、涙が出た。
静かな涙だった。
ここでの思い出の一つ一つが、走馬灯のように流れていった。そのほとんどがアイツとの記憶で、このどこかにいるのだと思うと、胸が締め付けられた。
最後のアイツの温もりが忘れられなかった。
俺は一心不乱に川を渡り、土砂を素手で掘った。
川の水に濡れた着物が氷のようだったが、それも生き残ってしまった自分への罰なのだと思った。爪の間から血が流れたが、痛くなかった。体の痛みよりも、心のほうが痛かった。
涙も枯れたころ、俺は我に返った。
虚しかった。諦めたくはなかったが、あまりに多い土砂の中から、人を見つけ出すのは難しいと分かっていた。
俺を探しに来た部下に、引きずられるように連れていかれるまで、俺はアイツの名前を呼び続けていた。
それから一年半が経った。
未だに朝起きると涙が流れることがある。それはアイツを亡くした悲しみからの涙でもあり、アイツを避け続けた自分を責める涙でもあった。
改めてくる帰雲は、相変わらず木は生えていなかったが、若草色に覆われていた。
あの時茶色かった川の水は、今はもう澄んだ清らかな水になっていた。
俺は藤の花を一房もぎ取った。
そうしてそれに口づけると、頰を熱いものが伝っていった。あの日、アイツに飾った藤の口づけた幸せが、今でも鮮明に思い出される。
雨上がりの土からは、霧が立ち上っていた。
それをなんとなく見て、「ああ、そうか」と思った。
アイツは雲になったのだ。
何にも束縛されない雲になったのだ。そうして霧になって、空に上り、自由に動き回るのだ。
好きなところに降って、またこうして上っていくのだ。アイツが望んだように。
さっきまで煩わしかった足下の泥が愛おしく思えた。
涙は止まっていた。
俺はもう一度藤の房に口づけ、額に押し当てて、そっと川に入れてやった。
藤の花が流れていく。
それが見えなくなってから、俺は帰雲に背を向けた。
明日から俺は、また別の俺になる。
「見とれよ、今度はお前から逃げんでな」
その呟きは、霧に溶けて消えていった。
作中で使っている方言は飛騨弁ですが、最近の中高生が使うものに近いです。
帰雲城、半三郎、「アイツ」は実在します。しかし、半三郎と「アイツ」に面識があったかどうかは不明です。ちなみに半三郎のモデルは、この後尾張徳川家に仕えています。
興味のある方、帰雲城について調べてみてはいかがでしょうか。