三浦 叶(みうら かなえ)の物語
ただ泣き叫ぶばかりだった。
大切な人がーー
大好きな人がーー
苦しみ、傷つけられている姿を目の当たりにしながら、ただ泣き叫ぶ事しか出来なかった。ーーいや、その言い回しは嘘だ。甘えだ。言い訳だ。
……。
ただ……泣き叫ぶ事しか、しなかったのだ。
少なくとも、彼女自身はそう思っている。
11月7日。それは叶が6歳になったばかりの誕生日の夜。誕生日のお祝いに、父に遊園地につれていってもらった帰りの事だった。
自宅のマンションのドアの鍵を開けようとした父が、異変に気付いた。
「あれ?鍵閉め忘れてたかな?」確かに閉めたはずだけれどーー。そう思いながらも、警戒はしなかった。異変に気づきながら、勝手に納得してしまった。
「も~。なにしてるのおとうさん。ぶようじんだなぁ」叶が最近覚えた不用心という言葉を得意げに言い終わるのと同時に、それは飛び出した。
自分とおとうさんだけのもののはずの部屋から、見知らぬ男が飛び出して。おとうさんにーーおとうさんのお腹に、ナイフを突き立てた。
「~~~~っ!!」幸せいっぱいだった叶の目の前で起きた、突然の惨劇。一瞬でパニック状態になった。
体は硬直し、頭の中はぐちゃぐちゃになる。叶は声にならない悲鳴をあげた。
男がその視線を叶に移す。その殺意を、父から叶に移すーーが。
--が。
父が必死に男に掴みかかった。
自身の腹に刺さったナイフを抜く事を許さない。
そのナイフを、愛する娘に向ける事を許さない。
腹を抉られ、激痛に襲われようともーー多量の出血に意識を失いかけようとも、決して離さない。
泣き叫び、その場にうずくまる叶。「おとぉーーさん!おとうさんっ!」泣きながら、ただただ父を呼ぶ。叫ぶように呼ぶ。
隣人が呼んでくれた警官が到着するまでの十五分。驚くべきことに十五分もの間、父は男を離さなかった。
内臓をズタズタに抉られ、傷口どころか口からも血を吐き出しながらもーー父は決して、男を離さなかった。
大切な愛娘を、守るために……。
永遠にも感じられた、その十五分の間。
その十五分の間……。叶はただ、泣き叫んでいただけ。父を助けようともせず、ただただ震えていた。
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あの惨劇の夜から六年。
父を失った少女は、たった一人で暮らしていた。当時父と暮らしていたマンションから、移り住むことも無く。父との大切な思い出を失わないために、惨劇の場に住まい続けた。
父と離婚した母に、表向き引き取られはしたが、一緒に暮らすことはしなかった。
叶は父と自分を裏切った母を絶対に許せはしなかったし、母も新しいパートナーとの生活に、娘は邪魔だった。
そんな劣悪な環境にありながらも、彼女は友人や学校の助けを受けて、多少はまともな状態に近づけてはいた。
『多少は』
決して消えない罪悪感。
友達と楽しそうに笑ってしまっているときに、突然あの日の記憶が頭に浮かぶ。
自分なんかにこんな幸せは許されないんじゃあないのかと疑問が浮かぶ。
罪悪感に押しつぶされそうになる。
父を裏切ったことは一生許されることは無い。もう取り返しがつかない。父のために出来ることは無い。償う方法は無い。だって父はもう、いないのだからーー…。
「なら仇討ちはどうだろう?」
それは、突然現れた。
ある日の下校途中。
紅の羽織をはためかせながら、まるで叶を待ち受けていたかのように佇むその男は、こう言った。
「君に、お父さんの仇を討たせてあげよう」
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本当にいた。
堤防沿いの小さな廃工場。
羽織の男が言った通り、そこに両手足を縛られたあの男がいた。おとうさんを殺した、憎い仇がいた。
「お、お嬢ちゃん、助けてくれ!いきなり悪い人に襲われて捕まってるんだ!縄をほどいてくれ!」それが、廃工場に踏み入った叶を見つけて、男がかけた第一声だった。
こいつーー私をーー覚えていない?
そんなまさか。
憎しみがこみ上げる。脈は荒れ、呼吸が乱れる。
こいつはお父さんを殺したあの日の事を、きっと思い出したことなどないのだ。罪悪感なんてない。ひょっとしたらいずれ、あの日の事を忘れてさえしまうかもしれない。
刑務所にいるはずのこの男がなぜこんなところにいるのか。羽織の男が何者なのか。もう、そんな疑問はどうでもよかった。叶の頭の中にもう、そんなことを考えるスペースは無い。今はただーー
ーーこいつを殺したい。
叶は持っていた手提げ袋を逆さにして、中身を床にぶちまける。
大きい音。小さい音。低い音。高い音。鈍い音。鋭い音。様々な音が鳴る。そして、それは男の顔を恐怖に青ざめさせた。
「なーー何なんだお前!?一体ーー!?」叶の狂気を感じ取り、男はやっと恐怖を見せた。
釘。金槌。鋸。鋏。ペンチ。ライター。床に散らばるそれらを見ながら、うっすらと笑みをつくり言う。「ずっとずっと考えてた……。どんな風にしたら一番苦しめて殺せるか。……。やっとできる。何日もーー何日も何日も何日もかけてーー」
「地獄の苦しみを味わいながら死んでいけ」
狂気に満ちた精一杯の作り笑い。少女は憎い敵と共に己の心を殺しながら、狂行に暮れる。