神無木花子(かんなぎはなこ)の物語
それは何時からだったのかわからない。覚えていない。
とにかく、遡れるだけ遡った最初の記憶。
その時から既に神無木花子の右手には手錠がかかっていた。
その右手はベットの足に繋がれーー小さな古びたアパートの一室。そのたった六畳の空間が、彼女の世界の全てだった。
自分を生んだ人間が、なぜそんな事をしたのか?
きっと、いらなかったのだろう。
面倒で邪魔だったのだろう。
でも、罪悪感なのかなんなのかは知らないが、殺すことも捨てることもできなくて。でもまともに世話をさせられるのにも耐えられなくて。鎖につないで、閉じ込めた。
それが殺すよりも酷い仕打ちだとも、きっと思わずに。
そんなことなら、生まないでくれれば良かったのに。
生まれてさえいなければ、苦しみも悲しみも、何も感じなくてすんだのに。
彼女は薄汚れた畳の上で、そんなことを毎日毎日考えていた。
死への憧れと恐怖を、毎日戦わせていた。
しかしその戦いは恐怖の常勝無敗。
きまぐれに与えられる食事にーー畳に落ちた残飯にーー右手首に痛々しい痣を作りながらも、必死に手を伸ばす。
今味わっている地獄よりも、未知の死が恐ろしかった。
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両親の死。
自殺だったらしい。
7歳になってまもない12月。
それが彼女を縛る鎖を、突然、あっさりと断ち切った。
両親の死によって彼女の存在は、ようやく外の世界に知れた。
しかし、だからといって花子の人生は変わらなかった。……いや、変わらなかったのは人生観か。
生まれて初めての温かい食事も、言葉も、彼女の心にぬくもりを与えることはできなかった。
それは生きる苦しみを上回れはしなかった。手遅れだった。
彼女はもう、生きるという行為自体に絶望しすぎていた。
それでも、死を恐れる彼女は周りに言われるままに生きようとした。
--が。
「あの娘酷い虐待を受けていたんだって」「親がいないんだって」「一人ぼっちなんだって」「施設で暮らしているんだって」「可哀そうに」「かわいそうに」「カワイソウニ」
投げかけられる言葉が、耳に入る声が、心を抉る。自分がどれだけ不幸か、思い知らせる。
もともと、生まれてから7年もの間他人とかかわることの無かった彼女に、集団生活は過酷すぎた。
一年ともたず学校には行かなくなり、ふさぎ込んだ。
施設には自分と同じような子供がたくさんいた。
「かわいそうな子」がたくさんいた。
自分以外にも不幸な人はたくさんいる。
手錠が外れ、外の世界に出てそれを知ってしまった事で、さらに育つ心の闇。
世界そのものに対する憎しみ。
生きたくもないのに、勝手にそんな命が産み落とされ続けるこの世界のあり方が、彼女には許せなかった。
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なんでこんな辛い思いをしなくちゃいけないの?生まれさえしなければこんな思いしなくてすんだのに。
いつものようにそんな考えばかりで頭の中をいっぱいにしながら、神無木花子は真夜中の街を彷徨い歩いていた。
あの地獄から救い出されてから9年の月日が経っていた。
結局学校に通うことはほとんどなく、施設の人達の助けもあり読み書きや簡単な計算はできるものの、高校に進学することもできなかった。
することも、したいことも無く、ただ毎日を無気力に消化していく。
そんな彼女がいつからか、夜の街をふらつくようになった。
理由は自分でもわからない。夜遊びに興じるわけでもなく、キャップを目深にかぶり、人気のない住宅地をただただぶらつく。
ふらふらとーー。当てもなくーー。
「ん?」ふと、目についた。
街灯の下に置かれた段ボール箱。
ここはゴミ置き場というわけでもなかったはずだけれどーーと、近づいて見て気づいた。
それは空箱ではなくーー「みゃあ」と、こちらを見上げて小さく鳴いた。
その箱の中には、幼い黒猫が入れられていた。
「捨て猫……」気分が悪い。
その姿を目にした瞬間、花子の頭に鎖に繋がれていたあの頃の記憶が駆け巡った。思い出したくもないのに、勝手に、鮮明に、頭に浮かぶ。
自分と同じ、いらない命……。
「みゃぁ」と、また弱々しい声をあげながら箱から這い出して、子猫は花子の足にすり寄ってきた。
「お前ーーは……なんでーー。何をーー?」喉の奥が痛い。声が詰まる。まるで喉の中を握られているみたいに苦しい。
泣いていた。
彼女の眼からは、ぽろぽろと涙が零れ落ちていた。
ゆっくりと足元の子猫に手を伸ばす。
飢えて死ぬか。凍えて死ぬか。他の動物に襲われて死ぬか。人間に処分されるか。
つらいだけ。
このまま生き続けても、この子もどうせつらいだけ。
「お前もーー生まれさえしなければーーっ。こんな目になんかーー!」震える声でそう吐き捨ててーー。
神無木花子はーー
子猫の首にーー
手を伸ばす……。
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「……おいしい?」
施設の花子の部屋で、子猫は与えられた猫缶に夢中になっていたが、それでも顔を上げて、花子の声に「みゃあ」と返した。
その声を聞いて、彼女の赤く腫れた眼から、また涙があふれてきた。
わからない。
何もわからない。
何故今自分は泣いているのか。
何故さっき、この子猫を楽にしてあげられなかったのか。
何故自分は毎日、夜の街をあてもなく彷徨うのか。
今の彼女には、まだわからないーー。