プロローグ : 食パン美少女の予定調和
通学中、食パンをくわえた美少女と、出会い頭にぶつかる。
古い漫画のテンプレのように扱われているパターンだが、現実には(もちろんまっとうな漫画の描写でも)あり得ない。
なぜなら、食パンというのは意外とデカいからだ。
まあ実際にくわえてみると良い。
いや、端っこをくわえるだけではダメだ。
大抵、そういった少女は、なぜか食パンに手を添えることなく、さらには遅刻するまいと全力で走っている。そんな状態でパンを落とさないようにするには、パン食い競争がごとく、かなり大口を開いてパンをくわえ込まなければならないだろう。
それこそ間の抜けた顔をしているに違いない。
それに、そんなに慌てているということは、彼女は寝起きのままロクに身支度をせず、恐らくは顔も洗わず髪も梳かずに、家を飛び出してきているのである。
そんな女子は、いくら地の顔が整っていようが、美少女と認識されるはずがない。
というのは、先日、俺の幼馴染の女子が淡々と述べていた主張。
美少女が美少女たるにはそれなりの苦労が必要なのよと、さも自分が美少女であるかのように言うそいつに対して俺は、論ずるべきところがおかしいだろと突っ込むも、意に介した様子もなく続けざまに、実は眼鏡を取ると美少女という事例についての考察だとか、さらには日本の創作物における美少女の系譜だとか何とかについて、俺の家で日が暮れるまで延々と語っていた。
俺は俺で話半分聞き流しながら、適当に本を読んでいただけなんだが。
まあ、そんなことはともかく。
今は九月の朝、秋の空気が心地よい通学路。
俺はアスファルトの上で尻餅をついていた。
強く打ちつけてしまった尻がじりじり痛むが、それを気にする心の余裕がない。
目の前には、同じように尻餅をついた、うちの高校の制服を身につけた女子。
彼女の姿をただ呆然と眺めながら、俺は幼馴染の主張が間違っていたことを知る。
ついさっき、俺と出会い頭にぶつかったその女子生徒は、その口に食パンをくわえているにもかかわらず、俺の目にはきちんと、まごうことなき美少女だと、そう認識できているからだ。
「あいた、痛たた……」
可愛らしい声でうめきながら、彼女は食パン片手に立ち上がり。
「あれ、カバンは……?」
と、きょろきょろと辺りを見回し始めた。
「あ」
思わず声を上げていた。俺の視線は、背を向けた女子生徒の臀部に、否が応にも集中する。短めのスカートが捲れあがってしまっていて、その長く清らかな脚とパン――いや下着が丸見えになってしまっていたからだ。
「あっ……ど、どこ見てるのよ、変態っ!」
カバンを拾い上げた彼女は、慌てて身だしなみを整えると、顔を真っ赤にしながら俺に向かって怒鳴りつけた。
「ご、ごめん……」
反射的に謝る。
しかし、漂う空気にどうにもなチグハグさを感じた。
既視感というか、いや、まさにテンプレ的な感覚とでもいうのか。彼女の態度と声色には、あらかじめ定められた行動をなぞっているかのような、そんな不自然さがあった。
いやしかし、そんなことも今の俺にとっては問題じゃあない。
彼女は地べたに這ったままの俺を鋭い目で見下すと。
「まったく! ちゃんと前を見て歩きなさいよっ! 危ないじゃないっ!」
偉そうに腕を組み、凛とした声を響かせる。
彼女の、その金色の長い髪は、淡い朝日を浴びて美しく輝いていた。
そう、金髪。
それは彼女が、それこそ古い漫画でいうところの不良だとかヤンキーだとか、そういった存在だということを意味しているわけじゃない。
「あっ!」
彼女は不意に表情を変え。
「いっけな~い。遅刻、遅刻~!」
流暢な日本語でそんなことを言いながら、くるりと背を向けて走り去っていってしまった。
その肌は透き通るように白く、細身の身体はそこいらの女子高生とは比較にならないほどの素晴らしいスタイルを形作っている。
そして瞳は赤みがかったグリーンで、鼻も高い。
すなわち。
誰の目からもわかるほどに、その美少女は外国人だった――
人通りのない路地に一人残された俺が、立ち上がることもできず呆然としていたのは、食パン美少女が現存していたことに驚いたからでも、その美少女が金髪の外国人だったからでも、もちろん純白のパンツを見てしまったからでも、決してない。
その金髪食パン美少女が、見知らぬ顔ではなかったからだ。
「あいつ……日本に来てたのか……?」
俺は立ち上がり、ぼんやりと学校の方へ足を向ける。
色々な想いが頭をよぎる中、正門に辿り着き、気が付けば教室の自分の席に座っていた。
そしてチャイムが鳴り、朝のホームルームで起きた衝撃的な出来事。
それはクラスの中で俺だけが、予測できたことではあったのだ。
今さっき俺の身に起きたことから綴られる予定調和なイベントとして、である。
「突然ですが、転校生を紹介します」
先生のそんな言葉に、もちろんギョッとしなかったわけじゃない。
時期外れといえば時期外れの報に教室はにわかにざわつき始め、ドアを開けて転校生が教室に入ってきたと同時に、静寂に包まれた。
そりゃ皆、驚くだろ。
転校生は、金髪の外国人美少女だったんだから。
「ミナ・マリーです。ルーマニアから来ました。よろしくお願いします」
可憐な声が響いた直後、わあぁぁぁっ! と、教室内が歓喜の声で埋め尽くされた。
こちらこそよろしく! とか、ミナちゃん、可愛い! とか。
普段から調子の良いクラスではあるが、今日ばかりは、いつにない盛り上がりを見せていた。俺の隣の席でいつもニコニコと座っている人懐っこい性格の山田君が、目を大きく見開いて「金髪、美少女……転校生……!」と、恍惚の表情で呟いていたと言えば、わかって頂けるだろうか。
馬鹿みたいに騒がしくなった一同に、転校生は驚いた顔を見せたものの、すぐに目を細め、ニコリと微笑んだ。
しかし。
「あ……っ!」
教室の一番後ろの席に座っていた俺と目を合わせるなり。
「あなたっ! さっき私のパンツを見た、変態!」
びしっと俺のことを指差して、叫んだ。
皆が一斉に振り返り、無言で俺のことを睨みつける。
静寂の中、転校生はツカツカと机の合間を抜けて、こちらに向かって来た。
呆然とする俺の前に立つ、金髪の美少女転校生。
鋭い目付きで俺を睨んだかと思うと、先程の醜態を思い出したのか、わずかに恥じらいの表情を浮かべる。その気持ちを隠そうとするかのように、バンッと俺の机を叩き、俺のことを怒鳴りつけるべく、大きく息を吸い込んだ。
――食パン美少女の予定調和
そう。テンプレというなら、ここまでがテンプレだったのだろう。
目の前で、柔らかそうな金色の髪が、ふわっとなびいたかと思うと。
「あ……」
転校生はハッと我に返ったような表情を見せる。そして。
「アキト……」
不意に俺の名前を呼んだ。
その声色は、今までのように不自然に裏返った感じではなく。
「ひ、久しぶりじゃの……その……わ、わ、妾は、その……」
まるで時代劇のお姫様が話すときのような古臭い言葉遣い。
それは、俺が知っているミナ本来の話し方だった。
ミナは困惑した表情を見せながら、もごもごと口籠る。
そして、兎の群れに迷い込んでしまった飼い猫のような、不安と優しさが混在した目で教室内をきょろきょろと見回した後、俺の耳元にそっと、その可愛らしい唇を近づけて、言った。
「妾は……また変なものに憑りつかれてしまったようなのじゃ……アキト、今一度、妾のことを助けてはくれぬかのう……」