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「屋上」

校則違反

作者: さわいつき

 社会科の準備室のドアを前に、わたしは立ち竦んでいた。

 授業の準備のための御用聞きに来たのだけれど、目的を果たすためには、このドアを開けなければならない。けれど先ほど伸ばしかけた手は、ドアノブの数センチ手前で止まっている。

 ドア越しでも聞こえて来る楽しげな声は、恐らく複数の女子生徒の物だろう。気付かなかったふりをしてこのままドアを開けるべきか、それとも忘れていた事にして引き返すべきか、それが問題だ。なんて、少しだけハムレットを気取って現実逃避をしたところで、問題は解決しない。

 廊下で立ち止まったまま悶々と考え込んでいるわたしの姿は、さぞかし奇っ怪な物だったのだろう。

「準備室に用ですか? 生徒会、はもう関係ありませんよね」

 不意にかけられた声に顔を上げると、倫社の男性教師がそこにいた。寝癖が付いた髪はぼさぼさに乱れて、いつもぼんやりとした表情をしている。

「あ、はい。御用聞きに」

 昨年度の生徒会書記をしていたわたしの事を、まだ覚えてくれているらしい。現生徒会顧問である社会科教師に用があるのかと尋ねられ、生徒会の用ではない事を伝えた。

「ああ、教科担当ですか。でしたら、中に入ればいいのに」

「それはそうなんですけど」

 至極当然の事を言われて、苦笑いを浮かべる。それができれば、苦労はしない。

「おかしな人ですね」

 そう言いながら、倫社の教師が躊躇いもなくドアを開けた。

「ああ、なるほど」

 室内を一瞥した教師の口から、短い呟きが漏れる。

「松本先生、どうかされましたか」

 聞き覚えのある声が、倫社の教師に尋ねた。社会科準備室に社会科の教師が顔を出すのは、当たり前の事だ。しかし教員用の更衣室を挟んだすぐ隣に職員室があるため、常にこの部屋を使っている教師は、一人しかないのが実情だった。

 唯一の在室者がわたしが御用聞きに来た相手なのだけれど、その周りを囲んでいる女子生徒達が、邪魔が入ったとばかりにこちらを睨んでいる。わたしだけならば仕方がないところだけれど、仮にも相手は教師。それもこの部屋に来て当然の、社会科教師の一人だというのに、である。

「いけませんね。授業に関係ない物の持ち込みは、校則で禁止されていますよ」

 女子生徒達の手にはそれぞれ、色とりどりの小さな包みがあった。今日が何の日なのかを考えれば、その中身がチョコレートであるだろう事は明白だ。

「うわ。先生、野暮ー。バレンタインチョコなんだから、大目に見てよ」

 ああ、やはりそうなのかと、こっそりと溜息を飲み込んだ。

 唯一の在室者だったはずの社会科教師は、その若さとそれなりに整った顔立ちで、女子生徒からとても人気がある。この教師が受け持つ各クラスの教科担当は、それはそれは競争率が高いのだ。かくいうわたしもその教科担当なのだけれど、諸事情あって当の社会科教師からの推薦を受け、半ば強引に決められてしまったという経緯がある。そのため、他の人達とは少し事情が違っているのだ。

「没収されないだけましだと思いなさい」

 女子生徒達を追い出しに掛かる様子は、その笑顔に反して容赦がない。さすがは歩く校則とまであだ名される、風紀委員の顧問だけはある。

「んもうっ。先生、そんなんだからもてないのよ」

「いいんですよ。誰にでももてたいわけではありませんから」

 不服そうに頬を膨らませた生徒に笑顔で答えたその言葉に、一斉にええーっと声が上がった。

「先生、好きな人、ってかぶっちゃけ、彼女いるのっ?」

 それは恐らく、その場にいた全員の思いだろう。

「失礼ですね。彼女くらいいますよ。はい、外に出て」

 どこの人、どんな人、物好き、そんな失礼極まりない声を上げながら、女子生徒達が追い立てられて行った。

「彼女、御用聞きらしいですよ。それでは、お邪魔しました」

 中に声をかけながら、倫社教師が準備室から外に出る。

「あ、ありがとうございましたっ」

 慌ててお礼を言うと、にっこりと笑顔で手を振りながら、ドアの向こうに消えて行った。




「そこのプリントを運んでくれないか」

 不意に後ろからかけられた声に、飛び上がりそうな程驚いた。本来の目的をすっかり失念してしまっていたようだ。

「あ、はいっ」

 動揺したせいで、声が裏返ってしまう。

「そんなに驚かなくても」

 先生が、くつくつと喉を鳴らした。むっとする反面、恥ずかしさに頬が赤くなるのを自覚する。

「悪かったな」

 ぽんと頭を撫でられて、ますます顔が熱を持ってしまう。

「いえ。って、あれ」

 プリントを取るために見た先生の机の上には、先ほど見たような包みが一つも見当たらない。きっと朝から女子生徒達が殺到していはずなのに。

「今年はね、一つも受け取っていませんよ」

 表情に出ていたのだろうか、何も言っていないはずなのに。

「で」

 と言って、差し出された手を、思わず凝視する。

「あんたからのは、ちゃんと受け取るから、はい」

 はい、に合わせて、仰向けられた手がくいくいと何かを招くように動いた。

「なんですか、この手は」

 分かっているけれど分からないふりをして、とぼけてみる。

「何って、あんたの愛情が込められたチョコレートは?」

 にやにやと嫌な笑いを浮かべている先生に、ようやく引いて来た頬の熱がまた上がった。

「センセー、知らないんですか。校則で、授業に関係のない物を持って来ちゃいけない事になっているんですよ」

 先ほどの倫社教師の言葉を借りてわたしが言うと、にっこりと、それはそれは楽しそうに先生が笑った。

「それ、本気で言っているんでしょうかねえ、お嬢さん」

 じりじりとにじり寄られるのと同じだけ、じりじりと後退る。

「え。で、でも、校則だし」

「二人きりの時に、そんな無粋な物は関係ないでしょ」

「無粋って」

 無粋と言えば無粋だけれど、一応学校生活における最低限のルールではないだろうか。一から十まで守る事は難しいかもしれないけれど。

 じりじりじりじり。やがて背中が壁にぶち当たり、二進も三進も行かなくなる。そろそろ休み時間が終わる頃だと思うのに、時間が経つのはこんなに遅かっただろうか。

 これはもう、教科担当の仕事を放り出してでも、逃げるべきだろう。逃げなければ。しかしわたしの考えなどお見通しだったらしく、動く前に両肩を先生の手に捕まえられてしまった。

 たらたらと嫌な汗が背中を伝う。倫社教師が出て行ったままだから、ドアの鍵はかけられていないはずだ。ただでさえ今日はバレンタインデー。モテ男の先生に、誰がいつ何時チョコレートを持って来てもおかしくはないと言うのに。

「センセー、こんなところを誰かに見られたりしたら、変な誤解をされてしまいますよ。淫行教師として後ろ指を指されまくった挙げ句、懲戒免職ですよ。理由が理由だから、二度と教師として教壇に立つ事が出来なくなります」

 だから落ち着いて、今すぐ離れてください。心の中で悲鳴を上げながら、誰も来ませんようにと祈るばかりだ。

「ああ、それは困りますねえ。教師を辞めさせられるわけにはいかないし、職を失ったら、あんたの面倒を見るどころじゃなくなりますからねえ」

「は? わたしの面倒を見てくださいなんて、センセーに言った覚えは」

「うん。僕が勝手にそうしたいなーと思っているだけで、あんたからは何も言われてませんよ。何も、ね」

 ううう。耳元で話をしないで欲しい。

「でもねえ。今日はオンナノコが愛の告白をする日でしょ」

 先生の手が、肩から腕をゆっくりと撫でるように移動する。決して不快ではないその感触に、脳味噌が沸騰しそうだ。

 肩から肘、肘から手。そして腰にその手が移動した。思わず息を呑んだと同時に、先生の手の感触が消える。そして呆気ないほど素早く、先生の体までもが遠くなった。

「これは、僕の、だよね」

 先生の手に握られた細長い包みを見て、慌ててスカートのポケットに手を伸ばす。けれどそこにあるはずの手応えは、もちろん無くなっていて。

「あ」

 かあっと一気に顔が熱くなる。

「あんたからのしか欲しくないから、他は全部断ったんですよ、これでも。ご褒美にこれを貰っても、罰は当たらないと思うんだけどねえ」

 多分、箱が入っていた分、腰のラインが不自然な物になっていたのだろう。けれどそれを、目敏くも気付かれてしまっていたようだ。

「てことで、はい、これ」

 目の前に差し出されたのは、プリントの束。

「もう授業が始まっているんだが、一緒に教室に行くか?」

 じたばたしている間にベルが鳴っていたらしいのだけれど、テンパっていたわたしは全く気付かなかった。なのに先生にはちゃんと聞こえていたなんて、それだけ余裕があった証拠だと思うと、悔しさが沸いて来る。

「じょ、冗談」

 嬉しけれど嬉しくないお申し出に、頬の筋肉が引き攣った。

「いや、別に問題は無いと思うが」

 御用聞きの途中でベルが鳴ったとあらば、目的地が同じ教室なのだから、一緒になってもおかしくはない。おかしくはないのだけれど。

「問題はありませんけど、わたしが困りますからっ」

 先生の手からプリントを奪い取り、脱兎のごとくドアに向かう。

「あ、そうそう」

 ドアノブを握ったわたしの耳に、のんびりとした先生の声が届く。顔だけでそちらを窺うと、にやりといつもと同じように、少しだけ意地の悪そうな笑みを浮かべていた。

「これ、ありがとう」

 ああ、やっぱり好きだな、と思うのはこんな時で。くらりと目眩を覚え、慌てて廊下に飛び出す。授業中だった事が幸いして、廊下を行き交う人影はなく、プリントを抱きしめてほっと息を吐いた。

 教室に戻るまでの間に、この火照った顔が元に戻るだろうか。

 一抹の不安を抱えたけれど、それでも唯一用意していたチョコレートを渡す事が出来た嬉しさに口元がにやけるのを止める事は、なかなかに至難の業だった。

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