チシャ村での仕事
拙い文章を読んでいただき、誠にありがとうございます。
「――ここが蓮のいた世界でないことは理解したかの?」
茫然と村を見据える蓮の肩に手を置き、ウィルはふたたび家の中へ入るよう促した。抵抗するでもなく大人しくそれに従う。今度は居間となっている場所で椅子に腰掛けた。
しばらく無言で俯いていた蓮だが、やがてゆっくりとウィルへの質問を再開する。
「さっき、異邦人が元の世界に帰った話もあるって言ってましたけど」
「そうじゃ。異世界から来たものはやがて異世界へ帰るとされている……確かなことは言えんが、蓮の前にその黒い孔とやらがふたたび現れるのかもしれんな」
それを聞いて少し安堵の息を漏らす。二度と帰れない、というわけではなさそうだ。
だが今すぐに帰れるというわけでもない。
冷静さを少しずつ取り戻してきた蓮は現状を把握することが必要だと判断するに至った。歳の割に大人びているが、思考の切り替えの速さは施設で三年、養子として六年を暮らしてきた蓮にとって子供ながらに身に付けた処世術である。
そうなると、疑問点は早いうちに解決しておくべきだろう。
「なんで言葉が通じるんでしょう?」
「ワシも詳しいことは分からん。さっきも言ったが異邦人の多くは言葉が通じない。なのに通じるのであれば……それは魔力が関係しているのかもしれん。蓮の世界にも魔力というものは存在しておるのかの?」
ぶんぶんと首を横に振る蓮の姿を見て、ウィルが少し考えるような素振りをした。
魔力なんてものは日本――いや、地球には存在しないものだ。図書室で読んだ小説の中に登場した空想の領域にある概念。それが蓮の魔力というものに対する認識だった。
「ふむ……この世界には魔力というものが存在するんじゃ。高い魔力を持つ者は己の意思を言霊に変換して伝えることが可能と聞く。もっともそのような人間は言語を解している場合が多いので、それに頼ることもないそうじゃがな。それらを利用するのは知能を持った高位の魔獣ぐらいかもしれんのぉ」
今の話であれば、蓮は魔力を有しているということになる。これは少々戸惑う内容だった。何故自分がそんなものを持っているのか。
ふと、思案する蓮がウィルに視線を向けると、その身体が淡い光に包まれているのが分かった。先程まで意識していなかったから見えなかったのだろう。緑色の燐光がウィルを覆っている。
身体の外部を覆う光は緑、さらに注視すると相手の身体の奥から漏れ出るように微かに赤色の光も見えた。その光は随分と弱々しく思える程度でしかない。
気になった蓮が尋ねても、その光のことについてはウィルも分からないと首を振った。
何故蓮が魔力を持っているか、ウィルの身体を覆う光は何を意味するのか、それらを考えても現時点で答えは出ないと判断し、蓮はすぐに思考を終える。
とりあえず、言葉が通じるのは有難い。存分に恩恵に与るべきだろう。
「さて、もう一度訊きたいんじゃが、これからどうするかの?」
ウィルは先程と同じ質問を、現状を理解した、いや、ひとまず信じた蓮へと向けた。といっても、見知らぬ世界に放り出されて一人で生きていけるほど蓮に生活力はない。
「あの、よろしければこの村にしばらく住まわせてもらえないでしょうか。僕にできることなら何でもやります」
下手に動くべきでない。ひょっとすると黒い孔は同じ場所にまた出現するかもしれないのだから。そう考えた蓮はまず村での生活を希望した。
「……ふむ。異邦人の扱いは領主様にお伺いをせねばならんのだが、まだ子供ということもある。問題はなかろうて」
この世界について蓮は知らなさすぎる。最低限この世界での知識や常識を得なければ、もしかすると帰る機会さえ失うかもしれない。
「娘のマリエッタが嫁いでからはこの家にはワシ一人なんじゃ。空き部屋はあるからしばらくはそこに住むといい。さて、そうなると蓮には何か仕事をしてもらおうかの……蓮は元の世界で何をしていたんじゃ?」
見知らぬ子供を世話すること、そして住まわせるからには子供でも仕事をさせる。そういった考えは蓮が暮らしていた日本ではあまりなかったものだ。
しかし、施設から引き取られて育ててもらう代わりに両親の期待に応えることを実践してきた蓮にとっては、さほど違和感はなかった。とはいっても、できることなどあるのだろうか。仕事といえるような経験は積んでいない。
「学生でした」
「学生……蓮は貴族の息子か何かだったのかの?」
「い、いえ! 普通の一般人ですけど」
この世界で学生という身分でいられるのは、貴族というのが一般的であるようだ。ウィルが言うには、様々なことを学べる学院というものが都市にあるのだが、このような小さな村には縁のないものらしい。人口が百人程度であるこの村ではそもそも読み書きが可能な者――要するに識字率もかなり低いとのことだった。
「そうか……ならば是非とも蓮には村の者にその知識を分け与える仕事をしてもらいたいのぉ」
「ちょ、ちょっと待ってくださいっ。僕はただの小学生です。それに年下ならともかく、年上の人に何かを教えるなんて……」
小学生という言葉が、言霊としてウィルにどのように伝わったかは分からない。
「そう難く考えることもあるまい。異邦人の教師というのは興味深いしの」
実際のところ、小学校で学ぶのは主に国語に算数、社会と理科に英語を少しだけ。それが一体この世界でどれほど活用できるのかといえば疑問である。識字率にしても蓮が可能なのは会話だけかもしれない。
試しにウィルが所有している書物を一冊借りて目を通してみると、そこには蓮が理解できない言語が羅列されていた。やはり理解できるのは会話だけのようだ。
しかし、理解不能な文字をウィルに尋ねるとそれは日本語に変換されて返ってくる。それらを繋ぎ合わせるとちゃんと蓮に理解できる単語となるのだった。印象としてはローマ字表記に似ている。全ての文字を日本語と対応させてさえしまえば、読み解くのは容易かもしれなかった。数字については、見覚えのあるアラビア数字が見受けられるので、こちらは問題なさそうだ。
「えーと、簡単な読み書きと計算ぐらいなら……教えられるかも」
「ふむ、ではまず練習も兼ねて子供達相手に教えてみるかの。この村の中央にある集会場を使うといい。日中は仕事がある者もおるじゃろうから、もう少し経ってから日暮れまでの時間で集まれる者に集会場へ来るよう伝えておこう」
ウィルはどうやら本当に蓮を教師役として務めるさせるつもりのようだ。それでも、今の蓮にとって何かできることといえばこれぐらいしかない。
自分にとって初めての受動的でない授業が始まるまでに、蓮はひたすらに本にある文字を日本語へと翻訳し、ウィルから借りた紙に対応表を作りあげていった。
「――うわぁ……」
まだ日暮れには少し早い刻限。蓮が足を運んだ集会場には思ったよりも多くの人が集まっていた。同年齢と見られる子供、幼い子供、そして異邦人の子供が何をするのか興味深そうにしている大人が数人。合計で十数人ほどだろうか。
「えー、この少年の名前は蓮。異邦人じゃがしばらくこの村に住むこととなった。仲良くやってくれ。そして……学生であった蓮には教師の仕事をお願いした」
皆への紹介を終えたウィルが蓮に視線を向ける。後は頑張れということらしい。
「あの……草薙 蓮です。よろしくお願いします」
最初は緊張のあまりガチガチではあったが、集会場の床の地面を利用して、読み書きを覚えてもらうために文字を書いては声に出して読み上げる。
蓮も手に持った対応表を見ながらの作業なので少々不安ではあるが、子供達は熱心に頷いてくれていた。全ての文字を書き上げ、今度は身近なものを単語で口にする練習を試みる。大人達もどこか感心するようにその様子を窺っていた。
一度に全てを覚えることはできないので、ひとまず読み書きの練習は一旦終了として明日へと持ちこす。
次は計算の練習である。
子供達にはまず数字を覚えるところから開始してもらう必要がある。0~9までのアラビア数字を書き出し、まずはそれらを覚えてもらうことにする。
やはりもっとも必要なのは足し算、引き算、掛け算、割り算といったところだろう。
熱心に数字を見つめている子供達とは別に、大人の一人が蓮に問いかけた。
「なあ、異世界ってどんなところなんだ?」
その質問には他の大人も興味があるようで、皆が蓮の近くへと集まる。これについては、本当に簡単ではあるが日本史や世界史の話題を織り交ぜて説明していった。
蓮にとってはこちらの世界こそがファンタジーであるのだが、この世界の人間にとっては蓮の世界の方がファンタジーなのだ。
面白そうに聞き入る大人達が、今度は反対にこの世界の話を蓮に聞かせてくれたりもした。
そうこうしている間に二つある太陽が一つ沈み、集会場に設置されている木窓から、漏れる陽光がやや薄くなった。
そこで授業は終了を迎え、どうやら蓮がこの村で教師をすることは受け入れてもらえることとなった。
こうして、蓮はチシャ村における初めての仕事を開始したのだった。