プロローグ
夕暮れの刻――東京都内にある小学校の図書室にて椅子に座っていた少年が、読み終えた本を棚へと戻して窓の外を窺った。
始業式から間もない四月のために日はまだ少し短い。時計を見ると六時過ぎを示しており、既に外は薄暗くなってきている。
「そろそろ戻ってご飯を作らないとな」
少年――草薙 蓮が帰宅の用意をしようとした折、司書教諭である女性が声をかけた。
「草薙君、もうそろそろ閉めるけど大丈夫?」
「あ、はい。ちょうど帰るところなので、失礼します」
小学六年生に進級したばかりの少年を、その女性教諭はよく見知っていた。なにしろほぼ毎日のように図書室へと赴いて本を読んでいるのだ。気になって初めて話しかけたのはどれほど前だっただろうか。最近は学校から帰って更に塾へと通う生徒も多い。定期的に放課後を図書室で過ごす生徒は珍しい。
そして教師という立場上、この少年がどういった境遇なのかも理解はしている。何かできることがあれば力になりたいというのは、この女性教諭の本心だった。
「リクエストしたい本があればまた遠慮なく言いなさい。取り寄せてあげるから」
「ありがとうございます。それじゃあ」
図書室から少年を見送った女性教諭は、笑顔のまま手を振っていた。
下校途中、家に残っている食材料を頭に思い浮かべながら今晩のレシピを決定する。共働きの両親に代わって夕飯の準備をするのは、蓮の役目だ。
両親――といっても本当の親ではない。
施設から養子縁組を経て息子となったのは、六年前だ。子供に恵まれなかった夫婦が施設から養子をもらうというのは珍しいことではない。
しかし不思議なことに子供が飽和状態である施設から養子をもらうのは、実は難しい。施設に預けているくせに親権を手放さない親というのが非常に多く、養子を組める子供の数は需要に足りていないのだ。
幸か不幸か、蓮には親権を持った親というのは存在せず、着々と手続きが進んだ。当時五歳ということもあり、蓮は自分が養子であるということを認識している。それはつまり、無条件で愛情を一身に受けれる存在ではないということ、だ。
求められる事柄にはそれなりの結果を出さなければならない。子供ながらに、蓮はそれを十分に理解していた。
養子をもらう際に夫婦側は育成について厳しい研修を受けるが、結局引き取られた後は子供をどう扱うかは親次第。
長年に渡り子宝に恵まれなかった夫婦が子供の将来に求める期待値はかなり重たく、かといって塾に行かせてほしいとまでは言いづらい。それが現状だった。
それでも小学校の勉学自体はそれほど難しいものではないため、塾など行かなくとも図書室での自習で十分に事足りていた。すでに今年勉強する六年生の内容はほぼ終わっている。余った時間は興味のある趣味本を読み漁ることで楽しんでいるので、施設よりはずっと有意義だといえるだろう。
「次はどんな本を頼もうかな」
軽い足取りで通学路を歩いていると、塀の上に寝そべって腹を見せている猫がトテトテと蓮へと近づき、アゴを差し出してきた。
「しょうがないな」
ゴロゴロと甘えるような音を鳴らした後、猫は満足したようにふたたび寝転がる。途端、後ろから犬が吠えた。しかしそれは警戒の鳴き声ではない。
「なんだよ……お前も撫でてほしいのか。というかお前って毎朝色んな人に吠えてるけど、なんで僕にはそんな甘えるんだ?」
軽く頭を撫でると、気性が荒らそうな大型犬は大人しく舌を出して満足気にしている。
さて、こんなことをしている場合ではないのだ。早く帰らないとそろそろ本気で間に合わない。両親が帰宅するまでに作ら終えなければ。
徒歩で十分ほどの道のりを、蓮は少々急ぎ足で歩いた。
しかし自宅にほど近い公園に差しかかり、蓮はふたたび足を止める。
「あれは……なんだろ?」
自宅のマンション近くに設置されている広めの公園は、中心付近に大木が植えられており、その周りに様々な遊具が存在している。蓮が気になったのは、その大木の幹にある大きな黒い孔だった。今より小さい頃に、よくこの公園で遊んだ記憶がある。
勿論、その黒い孔などに見覚えはない。
ポッカリと口を開けるように存在しているソレは、大人一人が入れるほどに大きい。いや、そもそもこのような孔が大木を貫いているのなら倒れてしまうはずなのだが、蓮が目をこらしても向こう側が透けて見えることはないのだった。
「一体これは……」
蓮は孔に手を伸ばそうとしてから躊躇った。よくわからないものに触れるべきじゃない。それは小学生の蓮にだってわかることだ。
「でも、ちょっとぐらいなら」
だが、一端の小学生である蓮の好奇心はその念を押しきってしまった。ゆっくりと、慎重に指先で黒い孔に触れてみる。
「っ!!」
突然、吸い込まれるように指が孔へと入ってしまった。
抜こうとして全力で抵抗するが、蓮には引き抜くことはできない。さらには指だけではなく、孔は引きずりこむように蓮の腕さえもズブズブと呑み込んでいく。
「だ、誰かっ! 助けてっ」
蓮の叫び声に反応する者はいない。
休日の公園は子供連れの夫婦や老人などで賑わうのだが、平日の薄暗い夕刻の公園には、人気が全くない。
それでも普段なら少しは人がいるはずなのだが、運が悪いことに辺りは完全に無人だった。
肩までスッポリと孔に喰われた蓮には、もう抗うことさえできない。
頭まで漆黒に覆われるまでわずか数秒の出来事だった。
――後には背負っていたランドセルだけが大木の傍にポツリと残されており、黒い孔も跡形もなく消え去っていた。
頭の中の内容物が溶け落ちていくような不快感に襲われ、気持ち悪い。
宙に浮いたまま身体が何度も上下に振られるような浮遊感。風邪を引いて寝込んでいるときに味わったような感覚にどことなく似ている。
蓮の寝ざめは、最悪だった。
蓮が目を開けるとそこはベッドの上であった。小さく安堵の息を漏らす。幸いなことに、先程の気分の悪さは不思議なほどスルリと身体から抜け落ちていった。
「ゆ……め……?」
いや、違う。
寝ぼけた瞳で周囲を見回すよりも早く、蓮は自分の身体を支えている寝具が馴染みのものではないことに気付く。
スプリングの反動を感じない。このようなゴワゴワとした感触は今までに味わったことがないものだ。
「どこだ……ここ」
「ほう、目を覚ましたか。ここはワシの家じゃよ」
誰に向けたものでもない問いかけに反応があったことに、蓮が驚きの声を上げる。
声のした方角へと顔を向けると、そこには顔に皺が目立つ初老の男が座っていた。白髪にくわえて長く伸びている髭にも白色が混じっている。瞳の色は黒だが、日本人とはいえない顔つきだ。どちらかというと西洋に近いが、顔の彫りはさほど深くない。
「あの……ここはどこですか? 僕は公園にいたんですけど」
精一杯の落ち着きを払って蓮が質問する。あれが夢でないのなら、あの黒い孔に吸い込まれて意識を失ったことになる。両親が心配していなければよいのだが。
「まあ落ち着きなさい。君の名前は?」
「草薙……蓮です」
「ふむ……クサナギ・レンか。どっちが名前なのかの」
「えっと……蓮のほうです」
初老の男がコクリと頷いてから、改めて話を再開する。
「ワシは、このチシャ村の長をさせてもらっているウィルという者じゃ」
聞き慣れない単語に眉根を寄せ、蓮が俯いた。
チシャ村?
長?
蓮が住んでいたのは東京都内だ。確かに……社会の授業では住民数に応じて『村』という単位が存在することは習っている。チシャというのはどういった漢字をあてるのだろうか。それにしても、意識が無くなった間にどこに来てしまったのだろう。
「あの、ここって日本のどこになるんでしょう? も、もしかして誘拐とか……?」
突然の意識消失に見知らぬ場所――蓮がウィルにこのような質問をするのは至極当然のことだった。それに応えるウィルの顔には微かに戸惑いの色が浮かんでいる。
「蓮はこの村の入口付近で倒れていたそうじゃ。何か心当たりはあるかの?」
「孔に突然吸い込まれて……後……はどうなったか分かりません」
ウィルが髭を指で弄りながら「なるほど」とだけ頷き、ふたたび蓮へと視線を戻す。
「服装が変わっているのでもしやと思ったが、蓮はもしかすると異邦人なのかもしれんな……残念じゃが、ここは日本というところではない。おそらくは違う世界だと思ったほうが良いじゃろう」
「え……? あの、異邦人って外国人ってことですか? それに日本じゃないって……ここは外国だったり……でも、え……」
混乱する蓮は頭の中で必死に情報を整理しようとするが、あまりに突拍子のないことに纏まりようがない。
最終的に相手の話をきちんと聞こうと無理やり気持ちを落ち着かせる。
「ワシも異邦人の実物に会うのは初めてなんじゃが……異邦人はこの世界とは別の世界からやってきた人間のことじゃよ。それにしても言葉が通じるようで良かったわい。大抵は話せないと聞いていたからのぉ」
蓮にとってはウィルの言葉が普通の日本語のように聞こえている。
それゆえに、ここが日本でないという話が信じ難いのだ。いっそ言葉が通じなければ真実味があるのだが、その場合は話自体が成立しない。
「僕にはウィルさんの言葉が日本語に聞こえてますけど」
「ふむ……詳しいことは今はいいじゃろう。それで、蓮はこれからどうするつもりかの?」
「どうって……家に帰ります。両親が心配するので。もう一度あの黒い孔を探せば」
あれからどれほどの時間が経ったのだろうか。蓮の両親は決して蓮を嫌っているわけではない。大切に、自分達の期待通りに育つことを願っているだけだ。もう警察などに連絡しているかもしれない。
「黒い孔?」
「僕、そこに吸い込まれたんです。だからもう一度同じようにすれば」
ウィルが髭を指でつまむ。これがこの村長の癖なのかもしれない。そして同情するように蓮を見つめた。
「蓮は村人の一人が見つけてくれたんじゃが、どこにもそのようなものはなかったと報告されておる」
「そ、そんな」
来たのだから、戻ることは当然できると考えるのが自然だ。蓮がまだ冷静でいられたのは、そういった理由や、そもそもここが異世界だということも本心から信じてはいないからだ。自分がこんなところにいる現状を理解しようと試みたが、ウィルの言葉に不安ばかりが募っていく。
「しかし異邦人が元の世界へ帰ったという話は聞いたことがある。焦らずに……」
ウィルの言葉を最後まで聞かず、蓮はベッドから飛び降りて駆けだした。こんなのは全部デタラメだ。あの黒い孔は確かに不思議だったが、ここが別の世界だなんてあまりにも突拍子もない話だ。
どうせこの家を出れば都会にセットされたハリボテだったりするのだろう。こんな子供を騙してどうしようというのか。
寝室と思われる部屋の扉を押し開ける。その先にはテーブルが置かれている広めの部屋が続いていた。構わずにその部屋を突っきり、外へと通じているであろう扉に手をかけて力一杯に押す。
――途端、蓮の目に射し込んでくる眩しい明るさは夕刻の薄暗さとは異なっていた。
ということは丸一日気を失っていたのだろうか。
だとすればやはり自分が帰っていないことで既に騒ぎになっているだろう。
そんな考えを巡らせる蓮の前には、都会とは似ても似つかない空間が広がっていた。自分が出てきた家は煉瓦と木材を組み合わせた建築物だ。それと同じような家屋が緑溢れる地面に間隔をあけて建てられている。
それは確かに村だった。遠くには一面に広がる畑も存在しており、風車小屋のようなものまである。
それは、蓮の知っている日本の風景とはとても思えないものだった。
だとすれば外国だろうかと、蓮が辺りを見回す。
着ている服以外は何も持っていないため、せめて今が何時ぐらいなのかを判断するために空を見上げた。
「あ……」
この世界が自分のいた世界ではないということを、蓮はその瞬間に理解した。
燦燦と輝く太陽はその恩恵を地上に暮らす全ての生物へと与える恒星だ。地球にとっての太陽は一つ。それは理科で習うまでもない事実。
だからこそ頭上で二つの太陽が輝いている光景を見て、蓮はここが異世界なのだと理解するとともに、おそらくすぐに帰ることはできないのだろうと悟ったのだった。