源氏の君を求めて
さらさらさらさら…。
筆が器用に動いていく音が耳に入ってくる。
書いているのは中宮彰子に仕える女房であり、名を紫式部という。
側には娘の賢子がおり、そのお世話役に若い娘ー珠がいた。
秋の夜は暗くなるのが早く、すでに闇が主役として広がっていた。
そんな中、灯りを頼りにしながら、紫式部は一心に書いている。
ーすごいですわ。楽しみ。
できあがるのが待ち遠しくて、寝ている賢子の髪をすく。
まだ十を迎えたばかりで、滑らかな肌をしている。
上着を喉まで上げると、珠は静かに動き、紫式部に聞く。
「あの…!! それくらいにしておいたほうが…」
「そうね。もう暗いものね」
そう言いつつ、紫式部は筆を動かしていく。
きりのいいところまで、書いてしまうつもりなのだろう。
珠は何も言わず、元の位置へ戻る。
ー皆、楽しみにしているのよね。紫式部様の物語。
中宮彰子を始めとし、その父親である左大臣の藤原道長も早く読みたいらしく、部屋を訪れることがあった。
もちろん灯りの油や、物語を書く紙が使えるのは、道長が支援者になっているためであり、紫式部は恵まれた環境にいた。
ー私もいい御方につけた。
珠は女房装束を着せてもらい、随分と可愛がってもらっていた。
年は十四。紫式部の娘である賢子と、姉妹のように育っていたのだった。
「…よし。できたわ。今日の分は」
紫式部が書いた紙を広げ、満足そうに言う。
珠はしゃんと背中を伸ばすと、紫式部に声をかける。
「あの!! 紫式部様!! 私にお見せになってくださいませんでしょうか?」
興奮気味に言うと、紫式部はゆっくりとした動作で振り返り、口元を袖で隠す。
「おほほ。楽しみなのかしら?」
「は、はい!! すごく興味があります!!」
思わず身を乗り出すと、紫式部はまだ乾いていない紙をそっと珠に渡してくる。
「一番の読者ね。感想を聞かせてもらえるかしら?」
「ももちろんですとも!!」
珠は喜んで受け取ると、灯りの近くに寄り、読み始める。
字は心を表すというが、紫式部の字は流れるように美しく、とても見やすい字だった。
ー容貌も美しいですし。
この時代の美人といえば、髪の長さやふっくらとした少し太り気味であることだった。
それが裕福な証であり、珠も紫式部に仕えているので、衣食住には困らなかった。
ーこれ…。お、面白い!!
源氏物語は、主に光源氏が主人公なのだが、彼の出世と女遊びを書いたものであり、切なかったり、怒ったりと、珠は表現豊かだった。
読み終えるのがもったいないので、ゆっくり進めていたつもりが、あっという間に読んでしまった。
「あ、あの、紫式部様…!! もう読んでしまったのですが」
「そうなの。ほほ。どうでした?」
賢子の額に触れながら、紫式部が感想を聞いてくる。
珠はそっと紙を返すと、賢子を起こさないように膝を進め、感想を口にする。
「こんな、こんなに興奮する物語、他にはありませんわ!! 光源氏とのやり取り、葵の上を始めとする女性との絡み合い、続きが気になります!!」
「そう。それは良かった」
紫式部は微笑むと、珠から渡された紙を丁寧に丸めていく。
「道長様や彰子様も気に入ってくださるかしら…?」
「大丈夫ですわ!! 太鼓判を押します!! あー、もう。光源氏の馬鹿!! 紫の上だけにしておけばいいのに…!!」
「ふふ。珠は紫の上のかたをもつの?」
「当然ですわ。あんなに聡明で、美しい表現の御方などいらっしゃいませんもの!!」
「ありがとう。書く力がわいてくるわ」
書いた紙をそっと卓に置くと、紫式部は珠と向き合う。
「珠、何か情報はない? 何でもいいですわよ」
「そうですわね…。あ、分かりました」
珠はぽんと叩くと、扇子を広げ、こそこそと紫式部に伝える。
珠もただ賢子の面倒を見ているだけでなく、色んなところで会話を盗み聞きしているのだった。
「ーまあ!! 懐妊なさったの?」
「あくまでも噂ですが…。浮き名が多い御方なので」
「そうなのね。…少し工夫して人物を作ってみましょうか」
紫式部はそう言うと、即行動に移し、別の紙に書きつけていく。
珠は役に立てたことが嬉しく、目をきらきらと輝かせる。
ー弟子なんだから、少しでも役に立たないと。
そう決めたところで、御簾の外側に人の気配がする。
誰と立ち上がろうとすると、紫式部が座るようたしなめる。
「ー珠。大丈夫。道長様ですわよね?」
「え…。し、失礼いたしましたわ!!」
珠が丁重に頭を下げると、御簾の後ろから「ほほ」と声が聞こえてくる。
おそらく源氏物語を受け取りにきたのだろうか、書き手の紫式部にも興味があるようだった。
ー光源氏の元は、道長様だったりして。
頭を下げ続けながら、紫式部が卓に置いた紙をそっと御簾越しに渡す。
道長は無言で受け取り、その場で見ていく。
どうやら待ち切れないようだった。
ー男性も魅了するなんて…!! 紫式部様、すごいわ!!
道長が紙を眺めながら、息をほうと吐き出すのに気づく。
どうやら珠と一緒で興奮しているらしい。
「いかがでしょうか、道長様?」
「続きが読みたくなる。早く急げ」
「はい。次は彰子様に渡そうと思いまして」
「私が渡しておくから。また明日、来るよ」
「ありがとうございます」
紫式部が丁寧に頭を下げたので、珠もまた深くお辞儀する。
道長は紙を丸めると、紫式部に言ってくる。
「どうだい? 私と外で涼んでは?」
「…まあ」
驚いたのは紫式部だけでなく、珠もそうだった。
道長は紫式部と恋仲になりたいらしく、珠は邪魔しないように下がろうとした。
しかし道長のほうが空気を読んだのか、朗らかに言ってくる。
「また今度でいい。…今日は月明かりも美しく、良い日だ。後で愛でなさい」
「はい。ありがたい御言葉ですわ」
直衣姿の道長はうなずくと、しずしずと去っていく。
二人はずっと下を向いたまま、気配がなくなるまで待つ。
道長が去り、虫の鳴き声のみとなると、珠ははあと息を吐く。
紫式部は振り返り、くすくすと笑う。
「も、もう大変ですわ!! 道長様の存在は立派過ぎて」
「それは私も同じですわ。お疲れ様」
「はい」
紫式部は立ち上がると、御簾の前に行き、少し開いてみる。
黒髪がさらりと流れ、美しい姿だった。
ー私も紫式部様みたいに、壮大な物語を書いてみたい!!
珠は立ち上がると、紫式部の裾に触れる。
「寒うございますわ。そろさろお休みになられては?」
「そうね。もう遅いものね。…珠、下がっていいわよ」
「いいえ。紫式部様がお休みになられるまで、側にいますわ」
「そうなの? じゃあ、寝ぼけた顔をしないと駄目ね」
ほほと笑うと、紫式部は御簾から離れ、珠に触れる。
「よく見て、よく聞いて、よく嗅いで、物語をお書きになりなさい。大丈夫、あなたならできるわ」
「は、はい…!! ありがとうございます!!」
珠は嬉しくて、頬を紅潮させると、紫式部を布団へと導く。
「あとは私がやりますから。御簾の外に下がって」
「はい。分かりました」
珠は外に出ると、紫式部がふっと灯りを消した。
途端に暗くなったが、月明かりがあるので平気だった。
道長が言った通り、月明かりは銀色に輝いており、とても美しい光景だった。
珠は部屋に戻ろうとしたが、紫式部が気になるので、そのまま外で控える。
しばらく休息の時となるが、興奮を冷ますように、涼やかな空気が身体を撫でていく。
ー私も頑張ろう!!
紫式部に励まされたのが嬉しく、珠は頬を押さえると、一人でしばしその場に残ったのだった。




