勇者召喚? いやいや行く訳無いでしょうが!? そして異世界と現実世界で話し合いが行われる物語。
実験的な短編です。
その日、男は、ひどく平和だった。
目覚ましもかけていない休日の朝。カーテンの隙間から差し込む光が、六畳一間のボロアパートに、場違いなほど綺麗な筋を描いている。天井のシミと、壁紙の剥がれかけた部分と、埃の舞いだけが、いつも通りの現実感を主張していた。
「……あー、起きるか」
床に敷きっぱなしの布団の上で、男は顔をしかめながら上体を起こした。敷布団は若干湿っている気がする。昨日も干してない。その前も、たぶんだいぶ前だ。
「たまには布団干さないとな……カビ生えたらさすがに死ぬ」
自分でも感心するくらい冴えない独り言を吐きつつ、男は布団から足を出し、ヨロヨロと立ち上がる。身体が完全に布団から離れた、その瞬間だった。
――ぱちん、と、何かが弾ける音がした。
「……ん?」
足元。さっきまで自分の腰があった辺りの空間に、突然、光が走った。
青白い線が床の上に走り、ぐるりと複雑な円を描く。幾何学模様と、意味不明な文字の羅列。ソレは一瞬で広がり、しかし──男の足元から、ほんの数十センチずれた位置に、ぴったりと「布団の上」に刻まれた。
「なっ、おいおいおいおい!?」
床から浮き上がった光の輪に驚いて、男は反射的に飛び退いた。背中が壁にゴン、と当たる。
布団の上。そこに、直径一メートルほどの光の円が、くっきりと展開されていた。円の縁はゆっくりと回転し、中心には深い闇の穴のようなものが開いている。
(……えーと)
寝ぼけてる、というレベルを超えていた。むしろ、脳だけが異様に冷静になっていく。
(今の、ギリギリで俺、円の外に出たよな……? もしもう少し寝坊してたら、今、布団の上であくびしてる俺ごと、アレの中だったよな……?)
息を飲み込んでいると、不意に、その「穴」から声が響いてきた。
『あれ? 勇者様? 勇者様、どこですかー!?』
鈴のような、幼さの残る、けれどよく通る高い声。男は思わず、顔を近づける。
穴の奥が、ぐにゃ、と揺れた。まるで水面を透かして見ているように、別の空間が覗き込める。そこには、白い大理石の床、赤い絨毯、高い天井、巨大なステンドグラス──お伽話の中でしか見ないような「城」の一部らしき光景。
その手前に、まず「顔」が現れた。
柔らかな金色の髪が肩で揺れ、宝石のような青い瞳が、穴のこちら側を覗き込む。精巧なドレスに身を包んだ、絵本から出てきたような少女だ。年の頃は、せいぜい十代半ば。その顔立ちは、しっかり「高貴」という言葉を引き連れてくる。
そして、その後ろには、白いひげをたくわえた老人。深い皺の刻まれた顔に、細い眼。黒いローブに金糸で紋章が刺繍されている。いかにもな「賢臣」か「宰相」ポジション。
完璧に、異世界ファンタジーの画面だった。
(……すげえ。……いや、ちょっと待て)
男が口をぱくぱくさせていると、その金髪の少女──姫巫女が、ぱあっと顔を輝かせた。
『ああ、勇者様! 見えます! 勇者様のお部屋ですね! どうか、はやくこちらに来てください! 世界の、国の危機なのです!』
彼女は両手を胸の前で組み、必死に叫ぶ。背後では、老人が何か呪文の残滓のようなものを確認している。
数秒遅れで、男の脳が追いつく。
(……ああ、そういうやつね)
異世界召喚。勇者。世界の危機。お姫様。宰相っぽい爺さん。魔法陣。
少年時代、ゲームやラノベで擦り切れるほど見たテンプレだ。中学の頃なら、布団ごと飛び込んでいたかもしれない。だが、今の男は、ボロアパートの家賃を気にしながら、時給いくらで働く、現実側の人間である。
「……やだよ」
思ったことが、そのまま口から出た。
姫巫女の動きが止まる。穴の向こうで、何か落としたみたいに、世界が固まった。
『……え?』
「いや、やだよ。こわいもん」
男は壁に背中を預けたまま、肩をすくめる。
「それに俺、喧嘩とかすげー弱いよ? 中学の頃から、殴り合いになったらだいたい負けてた側なんだけど。そんなの呼んでどうすんの」
『だ、大丈夫です!』
固まっていた姫巫女が、慌てて前のめりになる。彼女の肩越しに、老人がこちらを睨みつけているのが見えた。
『勇者の加護がつきます! 異世界の勇者様は、我らの女神の祝福によって無敵の力を得られるのです! どんな邪悪な竜も、魔王も、勇者様ならば──!』
「いやいやいや」
男は手のひらを向けて制した。
「その『無敵の力』ってやつが、こっちの世界の俺にもちゃんと適用されるって保証、どこにあるの?」
『え?』
「仮にあったとしてさ。それ、あなた達は試したの? データあるの? 成功率何パーセント? 死亡率何パーセント?」
姫巫女が目を瞬かせる。完全に想定外の返し、という顔だ。
『そ、そんな……勇者様は、勇者様なのです。勇者様は、いつの時代も──』
「うん、それイメージの話だよね。こっちは現実で生きてるからさ。『だいたい大丈夫』とか『これまでの勇者はみんな』とか、そういう説明じゃ、命かける気にならないんだわ」
自分でも、口がよく回るなと思う。現実逃避の一種かもしれない。
「それにさ」
男は顎で、足元の布団を指し示した。
「今のこれ、完全に……拉致だよね?」
姫巫女が、ぴくりと肩を震わせる。
『ら、ち……?』
背後で老人──宰相が、初めて口を開いた。
『貴様。今、何と言った?』
「拉致。誘拐。誘拐未遂。あとはまあ、人身売買に近い何か、かな」
男は淡々と並べ立てる。
「こっちの世界で、勝手に魔法陣出して、何の説明も同意もなく、人間を別世界に連れ去ろうとしたわけでしょ。これ、うちの国の法律だと、普通に犯罪。かなり重いほうのやつ」
『なっ……!』
宰相の眉が吊り上がる。
『この方は、我が国の姫巫女であらせられるぞ。国を背負い、世界を救わんとされている御方だ。そんな尊きお方の召喚に応じないだけでなく、そのような無礼な物言い──』
「質問に答えてよ」
男は逆に、宰相の言葉を遮った。
「お前ら、自分を誘拐しようとしてきた犯罪者に、敬語で喋るタイプ? 『お手数をおかけしてすみません、どこに監禁なさるおつもりですか?』とか言うの?」
『……っ』
「言わないよね。言ったら逆に怖いよね」
宰相の顔色が変わる。怒りだけじゃない。自分達がしている行為を「犯罪」と言われたことが、理解の外にあるのがよく見て取れた。
(まあ、そりゃそうか)
男は心の中で肩をすくめる。向こうにとっては「勇者召喚」は善行で、世界を救うための聖なる儀式なのだろう。けれど、こちらにとっては、見知らぬ連中が勝手に壁ぶち抜いて家に上がり込んできたのと、結果的にはあまり変わらない。
「それにさ」
男は続けた。
「俺の国にはもう、『貴族制度』ってのは無いんだわ」
その言葉で、宰相の身体がピクリと固まった。
『……何?』
「貴族も、平民も、奴隷も、みんな『生まれ』で法律上の身分が違う、みたいなやつ。昔はあったけど、今はない。少なくとも俺が暮らしてる国では、少なくとも表向きは、『身分』じゃなくて『人』ってことで扱われる」
『馬鹿な』
宰相の顔色から、血の気が引いていくのが、穴越しにもわかる。
『そんな世界……あり得ん。貴族なき国家など、秩序なき家畜小屋と同じではないか。誰が統べる。誰が導く。誰が庇護する。誰が、誰の上位であると定める?』
「そこそこ上手く、とまでは言わないけど、まあ、なんとかやってるよ。少なくとも俺は、『家畜小屋』って自覚で生きてはいない」
男は苦笑する。
「貴族制度がなくなるまでにも、いろいろあったんだよ。血が流れたり、首が飛んだり、戦争したり、交渉したり、革命ごっこじゃ済まないこともたくさんね」
姫巫女が、不安そうに宰相を振り返る。
『さいしょう……?』
宰相の頬を、一筋の汗が伝っていた。男の言葉の一つ一つが、聞いたこともない呪いの言葉のように響いているのだろう。
『いや待て……昔はあった、だと』
宰相が絞るように言う。
『では、そちらの『貴族制度』は……滅んだのか。自らを保てず、崩れ去ったのか』
「そうだね。俺の国では、『もうやめようぜ』ってなった。色々理由はあるけど、端的に言えば、不満持ってた側が我慢しなくなった結果って感じかな」
男は片手をひらひらと振る。
「貴族制度がなくなるにも、ちゃんと理由はある。その理由を、俺は歴史の授業と本とニュースで、なんとなく知ってる。……同じ理由、そっちの世界にも持ち込んでやろうか?」
その一言に、宰相の目が見開かれた。
穴の向こう。青い瞳の姫巫女は、男と宰相を不安げに見比べている。「革命」という単語の重みを知らない顔だ。世界の危機しか見えていない、善良で、世間知らずなお姫様。
一方で、宰相の脳裏には、別の風景が浮かんでいた。
貴族制度がない世界。身分という土台のない社会。そこから来る異邦人に「無敵の力」を与える。しかも、その者は今、彼らの行為を「犯罪」と呼び、貴族制度の終焉を、どこか冷めた目で語っている。
そんな人物が、世界の「救世主」として現れたとき──本当に、救世主のままでいてくれるのか。
宰相は、ぞっとした。
自分達が呼び寄せようとしたのは、邪悪な竜に対抗する「勇者」ではなく、自国の秩序を根底から揺るがす「異物」なのではないか、と。
『……勇者様』
沈黙を破ったのは、再び姫巫女だった。彼女は必死で笑顔を作ろうとしながら、しかし目には涙が浮かんでいる。
『そんな……ひどいです。世界の危機なのですよ? 邪悪な竜が、国を焼き、民を食らい、子どもたちが……っ』
「うん、辛いんだろうなとは思う」
男は、そこだけは否定せずに頷いた。
「でも、それ、そっちの世界の話だろ?」
『……え?』
「言ってみれば、『他国』の話だ。俺にとっては、テレビで戦争ニュース見てるのと変わらない。悲しいし、可哀想だなと思うし、できれば止まってほしいと思うけど──だからって、自分の身一つだけ持って最前線に飛び込むほど、俺、聖人でも英雄でもないんだよ」
姫巫女の表情が、じわりと歪む。
『だ、だって……勇者様は、あなた様は、『選ばれた方』で……』
「それ、誰が選んだの?」
男の声は淡々としているのに、そこだけやけに鋭かった。
「俺じゃないよね。お前らだよね。お前らの都合で、俺の意志を聞く前に、勝手に『選ばれた方』ってラベル貼って、魔法陣ドーンってやったよな」
穴の向こう側で、誰かが息を呑む音がした。
「それってさ。『我々が決めたのだから従え』ってことでしょ? 身分が上だとか、神託だとかの理由をつけて。……そういう発想の延長線上に、『貴族制度』があるんじゃない?」
宰相の喉が、ごくりと鳴る。
男の言葉は、彼にとって侮辱であると同時に、致命的に鋭い指摘でもあった。
『……貴様』
震える声で、宰相が問う。
『では、もし……もしもだ。もし我らが、お前に無敵の力を与え、王侯貴族の庇護を約束し、黄金と栄誉と女を与えると約束しても……それでも、お前は来ぬと言うのか』
「条件の問題じゃないよ」
男は即答した。
「拉致しようとした時点で、信用がゼロどころかマイナスなんだってば。詐欺と一緒だよ。『おめでとうございます、あなたは選ばれました! こちらをクリックして賞金を受け取りましょう!』ってやつと何が違うの?」
姫巫女が「さぎ……?」と呟き、意味が分からず首をかしげる。
「信頼も、情報も、リスクの説明もなく、見知らぬ世界の危機を理由に、命がけの特攻を要求されて、『はい行きます』って言えるほど、俺はもう若くないんだよ。少なくとも、布団くらい干してからじゃないと、死ねない」
最後に、くだらない冗談を混ぜる。
だが、その軽口の奥にある、「本気の拒絶」は、しっかりと穴の向こうへ届いていた。
姫巫女は、とうとう、ぽろりと涙をこぼした。
『そんな……そんな……』
彼女の震える肩に、宰相がそっと手を置く。その横顔は、怒りとも恐怖とも違う、もっと複雑な色で歪んでいた。
邪悪な竜による滅びの危機と、見たこともない「異世界の価値観」がぶつかり合う。その亀裂の只中に、自分達が立っているのを、彼は嫌でも理解する。
今ここに、世界を隔てた、人間同士のにらみ合いが始まったのだ。
穴のこちら側。六畳一間のボロアパートで、男は布団を見下ろし、深く息を吐いた。
(……とりあえず、今日は干そう。魔法陣つきだけど)
穴の向こうでは、姫巫女と宰相が、何か激しく言い合っている。その声を聞きながら、男はふと考える。
布団を干そう、と思ったけれど……それはとても危うい事ではないか? と。
なにせ、布団からは、さっきからずっと声がしているのだ。
『ですから勇者様を! せめてお話だけでもっ……!』
『姫様、御身をお鎮めください……! 魔法陣の維持に影響が──』
六畳一間に響く「お姫様」と「じじい」の声。隣室との壁は薄い。下手をすれば、「うちの隣から女の子の泣き声が聞こえる」とかで通報案件だ。
「……無理だな。ベランダに出した瞬間にアウトだわ」
男はため息をついて、布団の端をつまんだ。魔法陣は、まだ布団の中央に、青白くくっきりと光っている。その部分をできるだけ見ないようにしながら、ずるずると部屋の隅まで引きずっていった。
「とりあえず……こっちで喋っててくれ。窓側は諦める」
壁際、安物のタンスの横に、魔法布団が追いやられる。六畳のレイアウト的にはかなり邪魔だが、他に置き場もない。
『ゆ、勇者様!? どこへ行かれるのですか!』
姫巫女の声に、男はそっけなく答えた。
「飯。腹減った」
キッチンと呼ぶにはあまりにささやかな流し台に立ち、電気ケトルのスイッチを入れる。コンロを使うほどの気力もない。流しの横の棚から、安売りで買っておいたカップ麺をひとつ取り出した。
フタをペリペリと半分まではがし、ケトルから湧きたての湯を注ぐ。そこに、冷蔵庫から取り出した卵をひとつ、コン、と縁で割って落とした。黄身がとろりと浮かぶ。
「三分……いや、卵あるし、二分半くらいでいっか」
スマホでなんとなく時間を見ながら、男が台所の前で待っていると──
『な、なんだそれは……っ』
布団のほうから、老人の押し殺した悲鳴が聞こえた。
『生の卵だと……! 貴様、正気か!? 異世界の人間は死ぬのが怖くないのか!』
「……は?」
男は、思わず箸を持ったまま固まる。
数秒考え、ああ、と軽く手を打った。
「ああ、そっか。生卵って、そっちの世界じゃ『絶対やるな』って食べ方か」
魔法陣の向こうでは、宰相が信じられないものを見る目でこちらを凝視している。
『殻も完全に焼き清めておらんだろう! 煮沸もしておらん! 内側の白身も黄身も、火を通しておらぬ! そんなものを口にすれば──病に倒れ、腹を壊し、最悪死に至る……!』
「まあ、何も対策しなきゃ、危ないのは確かだね」
男は肩をすくめた。
「でも大丈夫。こっちの世界は、生卵を安全に食えるようにする仕組み、一応ちゃんと見つけてるから」
『仕組み……?』
宰相は、まるで「卵の神託」とでも聞かされたかのような顔をする。
『本当に、そうなのか……?』
「全員が完璧に守ってるわけじゃないし、ゼロリスクってわけでもないけどね。殺菌だの、検査だの、流通管理だの、いろいろ面倒くさいことやってる。文明ってやつの副産物」
ちょうどいい頃合いになったので、男はカップ麺のフタを完全にはがした。湯気と一緒に、安っぽくも食欲をそそる香りが立ちのぼる。
麺をほぐしながら、黄身をつついて軽く崩す。半熟になりかけの卵が、スープと混ざって黄金色になる。
『……それは、食べ物なのか?』
宰相が、おそるおそる問う。
『見たところ、湯を注いだだけだな。鍋も火も使っておらぬように見えるが……そんなものが、食えるのか?』
「食えるよ。これでも、世界のどこかの誰かが、頭抱えながら考えた立派な商品だからね」
男はズルッとひとすすり。熱さに目を細める。
「……ふう。で、説明するとさ。これは『カップ麺』」
『カップ……めん』
「乾燥させた麺を、カップに入れておいてさ。食べるときに熱湯を注ぐと、麺が元の状態に近く戻る。いわゆる“戻し”ってやつ」
宰相は、穴の向こうでじっと観察している。姫巫女の姿は見えない。
男は、カップ麺の中身が見えるように、魔法陣の方へ向ける。
「で、この上に浮いてる謎の具材あるでしょ。小さく刻んだ肉っぽいのとか、ネギっぽいのとか、コーンっぽいのとか」
『うむ……色はそれらしいが』
「あれも乾燥させてあるんだよ。ただ、普通に干しただけじゃなくて、もっと手の込んだやり方ね。こっちの世界だと『フリーズドライ』って呼んでる」
『フリーズドライ……ただ干しただけの乾物とは違うのか?』
「ざっくり言えば、違う」
男は箸を動かしながら、なるべく噛み砕いて説明した。
「水分を含んだ食べ物を、マイナス三十度くらいまで一気に凍らせる。そのあと、今度は空気を限界まで抜いて、ほとんど真空に近い状態にするんだ」
『……真空。空気がない、ということか?』
「そう。で、その状態で、凍ってる水分を“溶かさずに”蒸発させる。氷が直接、気体になる感じ。そうすると、中の水分だけ抜けるのに、形とか栄養とかが、結構きれいに残る」
宰相は、目を見開いた。
『氷が……溶けずに、消える? そんな馬鹿な……それは魔法か?』
「科学って名前の、こっちの世界の魔法みたいなもんだと思ってくれればいいよ」
男は笑いながら、さらに続ける。
「水分が抜けてる分、軽いし、腐りにくい。だから、携帯食料としてすごく便利。山登りとか、災害用とか……あと、軍隊にもね。お湯さえあれば、そこそこマシな飯になるから」
『……軍用の食糧に、そこまでの工夫を』
宰相が、低く唸った。
『そちらの世界の技術は……随分と進んでいるのだな。貴族制度がなくとも、民は、そこまで歩めるのか』
「貴族っていう“肩書”が消えただけだよ」
男はカップの縁を持ったまま、苦笑する。
「今でも『指導者』はいるし、『偉い人』はいっぱいいる。ようするに、表向きの身分の名前が一緒になったってだけ。本当に中身が平等かって言われると、ぜんっぜんそんなことない」
『では、やはり下は下、上は上か』
「そういう構造自体は、たぶんどこの世界も似たようなもんなんじゃない? こっちでも、いまだに“カースト制度”って呼ばれる、身分差が露骨な国もあるし」
『他の……国?』
宰相が、そこでふと眉を上げた。
『そうか、異世界と言えども、貴様の世界にも国は複数あるのだな。その中で、貴様のいる国は──』
「“身分制度は、もう無いことになってる国”って感じかな」
男はカップの底を軽く揺らしながら答える。
「昔は『武士』とか『官位』とか、まあいろいろあったよ。そっちと似たような、“生まれ”で差がつくやつ。でも、すったもんだの末に『もうやめよう』って流れになって、今に至る」
麺をすすり終えて、ふと思い出したように付け足す。
「……ところで、お姫様は?」
『姫様が、どうかしたか』
「さっきから姿見えないけど?」
宰相の目つきが、わずかに険しくなる。
『……泣き腫らして眠っておられる』
「うわ、ごめん」
『当然だ。貴様が、誉れ高き「勇者」の役目を断ったのだからな』
非難のニュアンスはある。が、さっきまでのような一方的な怒りとは違い、どこか疲れた色が混じっている。
男は、卵の残ったスープをズズッとすすりながら言った。
「そりゃ、悪かったよ」
『ならば──』
「でもさ」
男は、箸をカップに突っ込んだまま、魔法陣をじっと見た。
「こっちの言い分も、そんなに無茶言ってないってことくらいは……宰相さんにも、薄々分かってきたんじゃない?」
『……』
「異世界って聞けば、なんかロマンっぽく聞こえるけどさ。やってることは結局、『別の国からの誘拐』なんだよ。本人の同意なく連れて行くつもりだったんだろ? 大人しく付き合う義理は、ない。絶対に」
宰相は口を開きかけて──閉じた。
『……』
沈黙。魔法陣の光だけが、部屋の隅でわずかに揺れる。
「そっちだってさ」
男は続けた。
「自分達が、突然この部屋に“召喚”されそうになったら、絶対文句言うでしょ。『我らには国があり、責任があり、守るべき民がいるのだ!』って」
『……言うな』
「で、『君らの世界は我らには無関係だ、戻せ』って言うだろ? それと同じことを、俺が言ってるだけだよ。俺にとって、そっちの世界は“他国”で、“無関係”なんだ」
また、沈黙。
魔法陣の向こう側で、宰相は目を閉じていた。怒鳴りたい衝動を、理性が押しとどめる。
異世界が危機にあるのは、紛れもない事実。邪悪な竜は実在し、炎は城壁に迫っている。その危機感は、宰相の骨の髄まで染み込んでいた。
だが──だからといって、「無関係の世界」から、人を強制的に連れ去る正当性は、どこにあるのか。
冷静に考えれば考えるほど、男の主張は「当たり前」に思えてくる。少なくとも、男の立場から見れば。
『……貴様の言うことは』
やがて、宰相がぽつりと漏らした。
『腹立たしいが、理でもある』
「でしょ」
男は、空になったカップのフタを丸めてゴミ袋に放り込みながら言う。
「だからさ。“勇者として召喚する”って前提は、一旦捨てようぜ」
『なんだと?』
「こっちはこっちで生活がある。そっちはそっちで世界が燃えてる。それでも話を続けたいなら──まずは、『無関係な二つの国同士の話し合い』から始めるしかないでしょ。条約交渉みたいなもんだ」
宰相の細い目が、じっと男を見つめる。
『勇者ではなく……異邦人として。対等な“他国の人間”として』
「うん。そのほうが話しやすい」
男は、ペットボトルの水を一口飲み、床にあぐらをかいた。部屋の隅の布団に向き直る。
「じゃ、改めて。俺はこっちの世界の、どこにでもいる貧乏人。ただし、ちょっとだけ“他国の話”には興味ある。そっちは、竜に焼かれそうな世界の、偉い人。……だよな?」
『……王国の宰相、という役職を預かっておる』
わずかに誇りを含んだ声で、宰相が答える。
『名を名乗るべきかもしれんな』
「まあ、それは追々でいいよ。ネットに本名書かないのと同じ感覚で」
『ねっと……何を網にかけるのだ』
「その話は長くなるから後で」
男と宰相のやり取りに、部屋の空気が少しだけ和らいだような気がした。
姫巫女はまだ眠っている。涙で腫れた目を閉じたまま、彼女は、自分の知らないところで始まった「交渉」の気配に気づかない。
邪悪な竜との戦争。その渦中にある異世界と、ボロアパートでカップ麺を啜る現代の一人暮らし。
両者のあいだに横たわる、途方もない距離と価値観の差。その溝を、まずは言葉で埋めるところから始めよう。
布団の上の魔法陣は、相変わらず青白く淡い光を放っている。
男はその前にあぐらをかき、空のカップ麺をゴミ袋に突っ込む。部屋の隅で、異世界と日本の六畳が、妙なかたちでつながったままだ。
「……で、そっちの状況を、そろそろちゃんと聞かせてよ」
そう促すと、魔法陣の向こうで、宰相が小さく頷いた。
『そうだな。まずは、我らの置かれた状況から話さねばなるまい』
穴の向こうの映像が、少しだけ引き、王城らしき一室が見えた。高い天井、石造りの柱、壁には王国の紋章を染め抜いたタペストリー。栄華と呼ぶに足る光景だ。
『我が王国は、この大陸の中央に広がる豊穣の地を抑え、多くの民と城塞都市、騎士団を抱える。……少なくとも、つい最近までは、そうした栄華に酔っていられた』
宰相の声は、老いを含みながらもよく通る。
『だが、そやつが現れた。邪悪な竜だ』
「邪悪な竜ねえ……」
いかにもファンタジーな単語に、男は思わず鼻を鳴らす。だが、すぐに口を挟まず、黙って続きを促した。
『空を飛び、灼熱の炎を吐き、鋼鉄の矢も強化した魔法も弾く鱗を持つ竜だ。古くから山脈の奥深くに棲み、互いに干渉せぬ“境界の向こう側”の存在であった』
宰相の額に、深い皺が寄る。
『それが、突然、国境を越え、我らの街に襲いかかったのだ』
男は、そこで首を傾げた。
「突然? 国境越えて?」
『そうだ』
「有り得るの? そんなこと」
男の問いに、宰相はしばし黙り込み、やがて自らのこめかみを押さえるようにして答えた。
『……無い。本来なら、有り得ぬ』
短く言い切る声には、迷いがなかった。
『竜は聡く、同時に傲慢な生き物だ。己が縄張りに誇りを持ち、安易に人の領域に踏み込むことはなかった。少なくとも、これまでの千年間は、そうであったと伝わっておる』
「じゃあ、なんで」
『解らぬ。しかし事実として、国境沿いの街は燃えた。城壁は砕かれ、田畑は灰と化し、民は焼け死んだ。……放置は出来ぬ。国の危機を防ぐのが、貴族の役目だ』
最後の一言だけは、宰相の中で揺るがぬ信念なのだろう。言葉に、静かな怒りが宿っていた。
『今、我が王国は、騎士団を動員し、魔法師団を前線に送り、王都の近衛軍までも出陣させて対処に当たっておる』
「軍全部出してるレベルか」
『それでも、決定打にはならぬ。炎の矢を幾千と放ち、雷の槍を浴びせ、神殿より加護を受けた聖騎士をぶつけても……竜は、傷を負いながらも退くだけだ。倒れはせぬ』
宰相は苦々しげに唇を歪めた。
『その間にも、国境の村々は焼かれていく。このままでは、王国側の被害ばかりが重なり……いずれ、力尽きて敗れ去る。そう判断せざるを得なかった』
「――そこで、姫巫女様の出番ってわけね」
男が言うと、宰相は頷いた。
『姫様は、王家の血と巫女の資質を併せ持つ、稀有なお方だ。神殿において祈りを捧げ、女神の御前に進み出られた』
男は、ちらりと部屋の奥を見る。画面には映っていないが、その姫巫女は、今は泣き疲れて眠っているのだ。
『姫様は、国を救う術を希われた。民を守る方法を、女神に問われたのだ』
宰相の声が、少しだけ低くなる。
『そして、告げられた。竜は邪悪に染まり、このままでは世界さえ壊してしまう。異界より勇者を召喚するのです……とな』
王国の誰もが膝を折って聞いたであろう神託を、今、宰相は六畳一間に向かって繰り返している。その光景が、なんともシュールだった。
男はしばらく黙っていた。頭の中で、聞いた情報を並べ替える。
竜。千年の均衡。突然の越境。邪悪に染まる、という表現。そして女神の神託。
「……『邪悪に染まり』、ねえ」
ぽつりと呟き、男は魔法陣をじっと見据えた。
「その“邪悪に染まった理由”って、わかる?」
『理由だと?』
「うん。なんで突然、国境越えて暴れ始めたのか。何かきっかけがあったのか。多分そこ、かなり重要なポイントだと思うんだけど」
男は、指を一本立てて続ける。
「仮にさ、俺がそっちの世界行って、女神様の加護もらって、竜ぶっ倒したとして。もし“邪悪に染まった理由”が放置のままだったら……それ、単なる対処療法じゃない?」
『対処……』
「原因が残ってるなら、第二第三の竜が出てくるかもしれないし、別の何かが同じように“邪悪に染まる”かもしれない。そうなったとき、また異世界から誰か引っ張ってくるの? それ、あまり賢いやり方には思えないけど」
宰相は唸り、小さく首を振った。
『……解らぬ。女神も、その点については語られなんだ。ただ「邪悪に染まった」とのみ告げられた』
「そこ、もやっとしてるよねえ」
『だが、その場しのぎであろうと、手は考えねばならぬのだ。竜を放置すれば、民は死ぬ。国は滅びる。たとえそれが貴様にとって納得できぬ策であったとしても、だ』
それは、宰相なりの「覚悟」の表明だった。彼にとっては、民の命と、異界の一個人の納得が、同じ天秤には乗らない。
男は、頬の内側を噛んだ。
(……まあ、そう言うよな)
国家規模の危機と、六畳一間の平穏。どちらが重いかと言われたら、道徳の教科書的には答えは決まっている。だが、現実の男は、その教科書通りに動くつもりはない。
「……宰相さん」
考えながら、ふと別のことが気になった。
「今、その部屋に宰相さん以外の人っている?」
『ん?』
「神官様とか。女神様に仕える人、とかさ」
宰相は、ちらと背後を振り返り、それから魔法陣に視線を戻した。
『いや、今はワシだけだ。貴様の言葉は、劇薬にして劇毒。徒らに神官共の耳に入れるわけにはいかぬからな。……だが、神官が必要なら呼ぼうか? 竜や神託の詳細を問いたいのであれば──』
「駄目」
男は即座に遮った。声に、いつになく強い調子が混じる。
「逆。絶対に呼ばないで」
『……何?』
宰相が眉をひそめる。理由がわからない、という顔だ。
男はしばらく黙り込んだ。頭の中で、言葉を選ぶ。
神官。女神。信仰。禁忌。異世界。自分はどこまで口を出していいのか。いや、そもそも、この魔法陣って、信号みたいに女神側にもダダ漏れなのか?
「……この魔法陣ってさ」
男は、床に描かれた光のラインを見下ろしながら言った。
「神様に、つながってるの?」
『どういう意味だ』
「いや、こっちの世界の電話とかインターネット……ああ、なんて言えばいいのかな? ようするにこの会話が、女神様か、その関係者に直接で聞かれてる可能性ってある?」
宰相は、少し考えてから首を振る。
『少なくとも、この召喚陣は“異界との門”に過ぎぬ。女神の御座とは別の層に刻まれておるはずだ。……はずだが』
「はず、ねえ……」
男は、こめかみを指で押さえた。
(読まれてる可能性はあるし、ない可能性もある。どっちにしても、ここで黙ってたら、ずっとモヤモヤが残るだけか……)
悩む。とても悩む。男はかつてないほど苦悩していた。
「ああ、どうするかな。言うべきか、黙るべきか……」
男のブツブツは、半分は自分への愚痴だ。
「……ま、ままよ」
最後は、ため息混じりに投げた。
顔を上げる。魔法陣の向こうで、宰相がこちらをじっと見つめている。
「多分、今から言うことは、そっちの国にとって……いや、下手したらそっちの“世界”にとって禁忌になりかねない話だと思う」
男は苦笑した。
「それでも聞く?」
宰相の目が、一瞬大きく見開かれ──そして、ゆっくりと細められた。
『聴こう』
短く、しかしはっきりとした答え。
『どうせ貴様は異世界の人間。どれほどの戯言を口にしようとも、我らの法では罰せられんしな』
「言い方よ」
男は肩をすくめる。
「まあ、確かに“お前の神様の悪口”とか、こっちの世界の法律じゃ特に罪にならないけどさ。……でも、これは多分、善悪とか信仰とかの“外側”の話だと思う」
少しの沈黙が落ちる。
部屋の時計の針の音がやけに大きく感じられた。男は息を吸い、吐く。言うべきことを、できるだけ簡潔に、しかし逃げずに言おうとする。
「多分だけどさ」
ゆっくりと口を開く。
「俺、この魔法陣くぐって、そっちの世界に行って、女神様の加護ってやつを受けたら……“人格変わる”と思う」
『……何?』
「そっちが望んでる『勇者』像に合わせて、精神構造をチューニングされる。文字どおり、そっちの世界を救うためなら喜んで命投げ出せる、“勇者を喜んでやる人形”になると思う」
言葉が落ちた瞬間、魔法陣の向こう側から気配が消えたように感じた。
宰相は、目を見開いたまま固まっている。まばたきすら忘れているようだった。
『……な……』
かろうじて漏れた音は、言葉と呼べるほどの形を成していない。
男は、自嘲気味に続ける。
「だってさ。そっちの神託、よく考えたらおかしいじゃん。『異界より勇者を召喚せよ』って、前提として“召喚された異界人は世界を救う役目を負うものだ”って決め打ちしてるわけでしょ」
ゆっくりと片手を広げる。
「でも、実際に召喚されるのは、こういう六畳一間でカップ麺すすってる冴えないおっさんかもしれない。正義の味方でも聖人でもない、ただの人間。それなのに『勇者』として機能させるには……どうする?」
宰相の喉仏が、ごくりと動いた。
『……女神が、加護を与え……勇者とする』
「そう。“加護”っていう名札をつけて、身体を強くする。ついでに、多分、心も“強く”する。自分の命より他人の命を優先できるように、世界のために自分を犠牲にできるように、“調整”する」
男は淡々とした声で言う。
「そっちから見れば、それは崇高な祝福だと思うよ。英雄の資質が与えられるんだから。でも当人から見れば、それ、自分の人格に他人の手が突っ込んできて、好き勝手に書き換えられるのと、どこが違うの?」
宰相の顔から、血の気が引いていく。
王国にとって、女神の加護は絶対だった。神官達は日々「加護」の尊さを説き、勇者の物語を語り継いできた。誰も、その内側を疑おうとしたことはない。
その「加護」が、異界の人間の人格を“弄る”行為だと指摘されたのは、おそらく王国史上初めてのことだ。
『……女神が……異界の者の心を……弄ぶ、と……?』
かすれた声で絞り出す。
「弄ぶ、ってほど悪意があるかどうかは知らないよ」
男は首を振る。
「そっちの世界と女神様にとっては、『世界を救うために必要なプロセス』なんだろうし。善悪で言うなら、たぶん“善”側のつもりなんだと思う。……でも、俺個人から見れば、“俺を勝手に作り替える”行為には変わりない」
静かな怒りが、声の底に混じっていた。
「だから、俺はこの魔法陣をくぐるつもりがない。正義感で動いてるわけでも、冷たさだけで拒んでるわけでもない。単純に、“自分の頭の中だけは、自分のものであってほしい”っていう、わがままだよ」
それは、あまりにも人間くさい、ささやかな願いだった。
魔法陣の向こうで、宰相はただ呆然と、男を見ていた。
勇者。加護。神託。女神。自分達が信じて疑わなかった単語の一つ一つが、今、別の意味を帯び始めている。
世界のために、異界の人間の人格を造り替える。そこに、果たしてどんな罪があるのか。あるいは、ないのか。
答えは出ない。だが一つだけ、確かなことがあった。
この異界の男は、少なくとも「女神の人形」ではない。自分の頭で考え、自分の価値観で世界を見ている。
その事実が、宰相にとっては、竜の炎にも劣らない脅威であり──同時に、これまで出会ったことのない種類の「希望」のようにも思えた。
『……貴様』
長い沈黙のあと、宰相はかろうじて言葉を紡いだ。
『そのような考えを……王国の者が口にすれば、それこそ大逆罪だぞ』
「でしょ」
男は苦笑する。
「だから、神官様は呼ばないでって言ったんだよ。俺が“処刑される”のは勝手だけど、そっちの世界で誰かが一緒に巻き込まれるのは、さすがに寝覚め悪いからね」
六畳一間と王城の一室。
世界を隔てた二人の人間の間に、重たい沈黙が横たわった。
邪悪な竜の咆哮も、女神の神託も、その沈黙の中では聞こえない。
ただ、自分の頭の中を誰に預けるか――そんな、ごく個人的で、とても大きな問いだけが、そこにあった。
宰相は、しばし声を失う。
ただでさえ「人格を書き換える加護」という発想で足元を崩されたところに、男はさらりと、さらに爆弾を投げ込んだ。
「あとさ」
男は、膝の上で指を組みながら言った。
「言いたくないんだけど……竜が邪悪に染まった理由。女神様が絡んでると思うよ、俺」
『…………は?』
宰相は、素っ頓狂な声を漏らしたあと、激しく咳き込んだ。
『ごほっ、ごほっ……っ、ば、馬鹿な! 世界を見守る女神が、何のためにそんなことをなさる!? あり得ん! あり得ん話だ!』
老人らしからぬ勢いで、穴の向こうから男を睨みつける。その視線には、怒りだけでなく、純然たる「恐怖」も混じっていた。
男は肩をすくめる。
「落ち着いて。別に、女神様に“悪意”があるなんて言ってないよ」
『では、何と?』
「多分……事故の類いだと思ってる」
宰相の眉間に深い皺が刻まれる。
『事故……だと?』
「たとえばさ」
男は、例えを探すように天井を見上げ、それから言葉を選んだ。
「そっちの世界の軍隊。騎士団でもいいけど。訓練中に、剣とか槍が折れてさ。その折れた破片が飛んで、見学してた一般人に刺さって大怪我させちゃった――ってケース、仮にあったとするじゃん」
『……』
「この場合、“訓練してた人達”には、“理由”はあるよね。国を守るために必要な鍛錬だったけど怪我させちゃった、っていう理由。でも、“悪意”は無い。ただの訓練のつもりだった。でも結果として、一般人が傷ついた。そういうの、こっちの世界だと基本的に“事故”って扱いになる」
宰相は、黙って聞いている。理解が追いつこうと、必死に頭を回しているのがわかる。
「……俺のイメージだと、竜が邪悪に染まったのって、その類いなんじゃないかな、って。だから邪悪になった理由を話せなかったんじゃない? 世界を守る神様の事故で、世界が危機ですなんて言えないだろうし」
『……女神が行う何かの“働きかけ”の巻き添えで、竜が変質した、ということか』
「かもしれないし、違うかもしれない。でもさ」
男は指を折りながら続ける。
「もし女神様に“悪意”があって竜を邪悪にしたんだとしたら、わざわざ勇者召喚して止める理由、なくない? 最初から世界ぶっ壊したいなら、そのまま放置すればいいわけで。それが、俺が事故だと思う理由」
『……確かに、理屈としてはそうだが』
「あと、もうひとつ気になるのはさ」
男の視線が、魔法陣の縁をなぞるように動く。
「なんで、そっちの世界の人達に女神様は“勇者レベルの加護”を与えないんだろうね。宰相さん達の世界の人間に、筋肉モリモリ魔法無敵セットを配ったほうが、本来は筋がよくない?」
『それは……女神の御心の領分であり、我ら凡夫の測るところでは……』
「うん、そのテンプレ回答はわかる」
男は苦笑する。
「でも、さっき言った“人格いじり”の話と組み合わせると、ちょっとだけ……穿った見方ができちゃうんだよね」
『……どんな、だ』
「“自分の子供達の頭の中は弄りたくない”って考え方」
宰相の呼吸が、ぴたりと止まる。
「そっちの世界の人間たちは、女神様から見たら“自分の世界の子供”なわけでしょ。直接加護与えたら、そのぶん人格もいじることになる。自分で育てた子達の頭の中に、手突っ込んで書き換えるのって、さすがに抵抗あるんじゃない?」
男は、そこで一拍置いた。
「だから、“他所の世界の子供”を攫ってきて、“勇者”にする。こっち側の世界の人間の人格なら、遠慮なくいじれるし。……そういう構図も、一応、あり得るよねって」
宰相の顔から、見る見るうちに血の気が引いていく。
『……貴様』
声が掠れていた。
『今の言葉を、姫様や神官の前で口にしたら……間違いなく、異端者として捕らえられ、拷問ののちに殺されるぞ。王の耳に入ったなら、国を揺るがす大事となろう』
「でしょうね」
男はあっさりと頷いた。
「だから、最初に確認したんだよ。そこに神官さんいる? ってさ。いないって聞いてからじゃないと、とてもじゃないけど言えなかったよ」
再び、重い沈黙が落ちた。
男は、頭の中の荒っぽい仮説を整理しようとし、宰相は、心臓の鼓動を落ち着かせようとしていた。どちらにも、少し時間が必要だった。
やがて、沈黙を破ったのは宰相だった。
『しかし……だ』
老いた声が、かすかに震えている。
『どうすると言うのだ、貴様。貴様は、何があろうとこちらの世界に来る気はあるまい?』
「まあね」
男は、あっさりと言った。
「さっきも言ったけど、これだけ怪しさ満点の片道切符で“よし、行こう!”って踏み出せるなら、その人、たぶん勇気じゃなくて別の何かが壊れてると思う」
『……ふむ』
「宰相さんだってそう思うでしょ? 見知らぬ世界からいきなり召喚魔法陣開いて、“世界のために命懸けろ”って言われて、“はい喜んで”って飛び込む奴。信用できる?」
宰相は、そこで初めて、かすかな苦笑を漏らした。
『確かに……狂信者か、あるいは、捨て鉢な者くらいであろうな』
「そういう人に世界預けるのも、結構怖くない?」
『否定はできんな』
ほんの一瞬だけ、二人の間に薄い共感のようなものが流れた。
それでも、宰相は諦めきれない声音で問う。
『……望む限りの名誉、権威、金、女、暮らし。王城に住まわせ、名を刻み、千年の栄誉を約そう。全てを条件に載せても、駄目なのだろうな』
男は、少しだけ目を伏せた。
「……そうだね」
言葉を選ぶように、ゆっくり続ける。
「今の暮らしが楽なわけじゃないし。家賃はギリギリだし、貯金も無いし、彼女もいないし。場合によっては“あり”だった未来も、どこかにはあったのかもしれないけど……」
男は顔を上げ、まっすぐ宰相を見る。
「それでも、無理だね」
宰相は、深く息を吐いた。
彼は、元々、平民を「蔑んで」いるわけではない。貴族と平民と奴隷を区別し、役目を割り振り、秩序を守ることが自分の仕事だと信じている。その過程で、平民の言い分に耳を傾け、その暮らしを慮るだけの思慮は持っていた。
だからこそ、理解できた。
この男の拒絶は、贅沢を知らぬがゆえの拗ねではない。頭の中を書き換えられることへの恐怖と、自分自身でありたいという、しつこいほどの我がままの表現なのだと。
どれほど条件を積み上げても、ここは崩れない。崩してはいけない場所でもある。
『……そうか』
小さな呟きに、諦めと、奇妙な敬意が混じっていた。
男は、膝の上で指を鳴らした。
「じゃあさ。話を少し方向転換しよう」
『ほう?』
「問題は、竜が邪悪に染まった“原因”だよ」
男の声が、少しだけ鋭くなる。
「そこが分かって、対処できれば、極論、“勇者”って存在は不要になる。竜が暴走したのが事故なら、事故を起こしたシステムを見直す。病気なら、病巣を潰す。呪いなら、呪いの発生源を絶つ。それができれば、わざわざ異世界から人を攫ってくる必要はなくなる」
『……理屈としては、そうだ』
宰相も応じる。
『だが時間がない。竜の炎は、今日もどこかの村を焼こうとしている。原因を探る猶予が無いのだ。すこしでも早く、竜を討たねばならぬ』
「うん。そこも分かる」
男は頷き、立ち上がった。
部屋の端に置いていたスマホを手に取り、電源ボタンを押す。画面が明るくなり、ロック画面が表示される。指紋認証でロックを外すと、見慣れたホーム画面が現れた。
(……解らないなら、“聞けばいい”)
頭の中に、そんな言葉が浮かぶ。
異世界では不可能なやり方だ。だが、情報社会に生きる現代人には、取れる手がある。世界中の人間の知識や妄想を、一瞬でかき集めてくる、異端の一手。
検索エンジン。オンライン辞書。論文。掲示板。SNS。まともな情報も、とんでもないデマも、全部ごちゃ混ぜで流れてくる、その濁流。
ファンタジー世界の竜だからといって、まるっきり現実とかけ離れているとは限らない。大きさ、質量、エネルギー。空を飛ぶなら飛ぶなりの制約がある。火を吐くなら、その原理がある。生き物である以上、弱点は必ずある。
(生き物なら、必ず殺せる)
かつて、この国の武将が言ったと歴史の教科書で読んだ言葉が、ふと脳裏をよぎる。
――滅せぬ者のあるべきや。
「じゃ、とりあえず」
男は、スマホを片手に、再び魔法陣の前に座り込んだ。
「まず――詳しく聞かせて」
画面のブラウザアプリのアイコンに指を乗せたまま、男は言う。
「その竜の生態、体長、色、鱗の硬さ、吐く炎の性質。過去の言い伝え、神話、竜に関する伝承。討伐を試みて失敗した事例。逆に、少しでも傷を負わせたことがあるなら、そのときに何をしたのか。知り得る限りの、全部」
宰相は目を瞬かせた。異世界の老人には、「情報収集のプロセス」が理解できていない。しかし、その声音だけは伝わる。
この男は、真剣に、竜という“敵”を殺す方法を考え始めている――と。
『……良いだろう』
老宰相は、姿勢を正した。
『語ろう。ワシが知る限りの全てを。王国の書庫に蓄えられた伝承も、戦場から届いた報告も、覚えている限り全てだ』
「助かる」
スマホの画面に、検索窓が開かれる。まだ何も打ち込んでいないが、男の指はすでに動く準備をしていた。
六畳一間と、栄華を誇る王国。そのあいだを繋ぐのは、布団に刻まれた魔法陣と、小さな黒い板切れ。
異世界の危機と、現代の情報社会が、いま静かに交差しようとしていた。
とりあえず書きたい部分まで書いたので、一旦ここで終わりです。
続き書こうかどうかは悩んでます。一応最後まで構成は立ててあるのですが。




