第九話 「曙光」
ラクアたちが再び歩き始めてから、すでに一時間が経っていた。
二人は闇に押し潰されそうになりながらも、足を止めることなく、確実に山を下っていく。
歩を進める間、ラクアは危険に備えるため、探知眼を開眼し続けていた。
意識を張り詰めさせるたび、精神がすり減っていくのがわかる。
――カールは凄いな……。
俺より何十歳も年下なのに、泣き言ひとつ言わず、ここまでついて来てくれている
暗闇に慣れ始めた目で、ラクアが密かにカールを見つめていると、その視線に気づいたのか、カールが小さく口を開いた。
「ありがとう、ラクアくん。君がいなかったら、僕は今ごろ……」
「俺は、なにもしてないよ。君が一緒にいてくれるから、俺も正気を保ててる」
「それでも……僕は、君みたいになりたい」
その言葉が、胸の奥に沈んでいたものを静かに揺さぶった。
消えかけていた心の炎が、微かに、しかし確かに燃え直す。
「なれるさ。絶対に」
そう断言した、次の瞬間だった。
背後から、空気を裂く音とともに、鎌が振り下ろされた。
間一髪、ラクアは反射的にカールを抱き寄せ、横へと飛び退く。
地面を転がりながらも、ラクアはすぐさま体勢を立て直し、極視眼でリザードリッパーの脚へと狙いを定めた。
呪文を唱えようとしたその時、ラクアの左側から鱗に覆われた巨体が突進してきた。
次の瞬間、強烈な衝撃が全身を貫き、ラクアの体は宙を舞う。
十メートルほど吹き飛ばされ、背中から地面に叩きつけられた。
鈍い音とともに、ラクアは骨が砕ける音を聞いた。
――息が……できない……
ラクアは喉をひくつかせながら顔を上げ、探知眼で周囲を探った。
視界の端に映った光景に、心臓が凍りつく。
二体のリザードリッパーが、カールを挟み込むように詰め寄っていた。
――駄目だ……それだけは、やめてくれ……
恐怖に縛られ、カールは一歩も動けずに立ち尽くしている。
ラクアは歯を食いしばり、砕けそうな体に無理やり力を込めて立ち上がろうとした。
だが足元がもつれ、体は虚しく滑り、ラクアは再び地面に叩きつけられた。
二体のリザードリッパーが、同時に鎌を振り上げる。
それは、処刑の合図のようだった。
「やめろおぉぉ!!!!」
ラクアの悲痛な叫びが、闇に沈んだ森を引き裂く。
その直後だった。
カールの目前に立っていた二体の巨獣の首が、同時に、ずるりと滑り落ちた。
理解する間もなく、ラクアの背後で閃光が走る。
ラクアに体当たりしたあのリザードリッパーが、一瞬だけ光を帯びたかと思うと、細切れとなって砂埃を上げて地に崩れ落ちた。
あまりに突拍子もない光景に、ラクアの思考は完全に停止していた。
もうもうと立ち上る砂埃の中。
バラバラになった化け物の死骸の上に、ひとつの人影が静かに立っている。
やがて砂埃が晴れ、その姿がはっきりと現れた。
銀色のハーフアーマーに身を包み、黄金の剣を手にした人物。
赤い髪が夜風に靡いている。
「よく頑張ったな、少年」
凛としていながらも柔らかさを帯びた、中性的な声。
その声は、ラクアの張り詰めていた心は緩ませた。
その人物はラクアの方を振り返る。
ラクアは、息を呑んだ。
長いまつ毛に、鋭く吊り上がった目。
整ったその顔立ちの人物は、女性だった。
そしてその女性は無表情のまま言い放つ。
「後は、このリーファ・セリウスに任せるといい」
その言葉が合図であったかのように、ラクアたちを取り囲んでいた十数体ものリザードリッパーが、一斉にリーファへと殺到した。
胸に灯りかけていた希望が、一瞬にして崩れ落ちる。
――この数を一人で相手するなんて無理だ……
援軍を、呼ばないと……
そう思った刹那。
ラクアの視界から、リーファの姿が消えた。
そして一瞬だった。
だがその一瞬を、探知眼は確かに捉えた。
夜の闇を切り裂くように、一本の光の線が走る。
その軌跡がリザードリッパーたちの首元を、正確無比に繋いでいた。
次の瞬間、リザードリッパーたちの首が、一つ残らずその巨体から切り離され、直後、遅れて轟音が鳴り響き、衝撃波が森を裂いた。
大地が震え、木々が大きく揺れる。
巨大なカマキリの頭部が次々と地に落ち、それらに背を向けるように、リーファが砂埃を巻き上げながら滑るように着地した。
「光魔流剣式奥義・“繋燐拯翔”」
ラクアは、ただ呆然と目を見張る。
つい先ほどまで、恐怖と死の象徴として立ちはだかっていた怪物たちは、もはや一体として動く気配を残していない。
ほんの数秒。
それだけの時間で、自分たちに悪夢を見せ続けてきた存在は、跡形もなく沈黙へと叩き落とされていた。
突然、ラクアの意識が糸を断たれたように揺らぎ始める。
肺を圧し潰すような息苦しさとともに、肋骨の奥から耐え難い激痛が走った。
――助かった…のか……?
張り詰め続けていた緊張が、ようやくほどける。
その反動のように、安心感と深い疲労が一気に押し寄せた。
抗う間もなく、視界が暗転する。
ラクアはそのまま、地面へと崩れ落ち、静かに意識を失った。
---
ラクアが目を覚ましたのは、事件から二日が経った朝だった。
意識を取り戻した瞬間、視界いっぱいに映ったのは、目を泣き腫らしたメリダの顔だった。
次の瞬間には、力いっぱい抱き締められ、危うく締め殺されかける。
慌ててジークがリーアを抱えながらも割って入り、どうにか最悪の事態は回避された。
落ち着いた後、ラクアはジークから事件の顛末を聞かされた。
魔生物が存在しないはずのルーマスの森に、何者かが意図的にリザードリッパーを放ったこと。
その首謀者はいまだ捕らえられていないこと。
ラクアとカールを除き、オリエンテーションに参加していた園児と教師は全滅したこと。
そして、責任を取る形で魔童園は廃園となったこと。
どれも重く、胸に沈む事実だった。
だが最後に、ジークは最も重要な情報を口にした。
ラクアが命懸けで守り抜いた少年、カール。
その正体は、ブロンズ王国の第三王子だったのだ。
ジークは一通の手紙をラクアに手渡した。
ラクアは呆然としながらも、それを受け取り、震える指で読み進める。
そこに記されていたのは、ブロンズ王国からの正式な感謝の言葉と、王国の事情についてだった。
手紙によれば、ブロンズ王国では王子であっても市民と同じ教育を受けさせるという伝統があるらしい。
カールは身分を隠し、魔童園に通う予定だったのだ。
しかし第三王子という立場の低さゆえ、警護は最低限に抑えられ、まともな護衛すら付けられていなかったのだという。
ラクアは、手紙を握り締めたまま、言葉を失っていた。
それを見かねて、ジークが静かに声をかけた。
「多くの人々は、今回の事件を第三王子の座を巡る政治的な争いだと考えている。だが、真実は誰にも分からない。……お前は、ただ感謝を受け取ればいい」
ラクアは小さく頷き、その日は一日中、布団の中で過ごした。
疲労は確かに残っていた。
それでも、眠りはなかなか訪れなかった。
――俺は結局、一人しか助けられなかった。
俺はこの現状に喜んでいいのだろか。
いや、言い訳がない…
わだかまりは解けることなく、胸の奥で重く澱み続ける。
自分より遥かに年下の少年少女の死を目の当たりにしたことで、ラクアの精神は、すでに崩壊の縁に立たされていた。
ラクアの心を支えていたのは、無事にカールを守り切ることができたという事実だけだった。
翌日、ラクアはシトローンにある教会で行われた、事件で命を落とした者たちの葬儀に、メリダ、ジーク、リーア、ファウロと共に参列した。
会場に足を踏み入れた瞬間、ラクアは息を呑んだ。
そこには、悲しみしか存在しなかった。
まだ幼い我が子を失った親たちが、会場いっぱいに立ち尽くしている。
声を上げて泣き崩れる者。
涙も流せず、ただ虚空を見つめる者。
ラクアは、この世界から喜びという感情が失われてしまったのではないかと錯覚した。
重く沈んだ空気の中、ラクアは一歩、また一歩と奥へ進む。
座席の先にある講壇には、銀の盾が整然と、そして無機質に並べられていた。
数は一つや二つではない。
何十という盾が、まるで壁のように立ち並び、鈍く光を反射している。
近づくにつれ、ラクアはそれぞれの盾に刻まれた文字を目にした。
そこには、亡くなった人々の名前が一つずつ、逃げ場のない現実として刻み込まれている。
写真が存在しないこの世界では、葬儀に遺影はなく、代わりにその者の生を示す証として、銀の盾が捧げられる。
ラクアは、この日初めてその事実を知った。
名前だけが並ぶ光景は、
顔や声を思い出す余地すら与えず、
死そのものを数として突きつけてくる。
その中に、つい昨日まで言葉を交わしていた名前があることを、
ラクアは理解していた。
これほど多くの死が一度に、しかも目に見える形で並べられると、ラクアは悲しみよりも先に、恐怖を感じた。
その後、リーアを抱えたメリダとジークが受付で署名をしている間、ラクアはファウロと共に、会場の隅で黙って立っていた。
重苦しい沈黙が続く。
ふと顔を上げると、ラクアの前に、ベージュ色の髪をした婦人が立っていた。
その瞳には涙が滲み、同時に、はっきりとした敵意が宿っている。
ラクアが言葉を発するより先に、婦人は静かに口を開いた。
「どうして……うちの子を助けてくれなかったの?」
「…………え?」
あまりにも唐突な言葉に、ラクアの思考が止まる。
婦人は視線を逸らさず、続けた。
「あなたが……うちのマールボロを助けてくれていたら……私は、こんなふうに一人にならなくて済んだのに……!」
その瞬間、ラクアは自分の頭に血が昇るのをはっきりと感じた。
――確かに俺は、カール一人を助けて、残りの五十三人を見殺しにした。
でも、俺だって全員助けたかったんだ。
俺自身が死んでいた可能性もあったし、全員を救う余裕なんて無かった。
なんで俺がそんな目で見られなきゃいけない?……
精神の均衡を失っていたラクアは、冷静さを欠いていた。
今この場で、吐き出してしまえば楽になる。
そう思い、反射的に口を開きかけたその時だった。
ごつごつとした大きな手が、ラクアの頭を強く掴んだ。
有無を言わせぬ力で押さえつけられ、ラクアの視界が下を向く。
ラクアはすぐに、その手がファウロのものであると理解した。
ラクアが隣を見ると、ファウロ自身も、深々と頭を下げている。
ラクアは混乱した。
なぜ今、自分が頭を下げさせられているのか。
なぜ、反論する権利を奪われているのか。
なぜ、ファウロまで頭を下げているのか。
そのまま数十秒、二人は頭を上げなかった。
婦人が鼻をすすり上げる音だけが響き渡る。
やがて婦人は、二人を一瞥したきり、何も言わず会場の中央へと戻っていった。
ラクアが何か言おうとするより先に、ファウロは手を離した。
そして前を向いたまま、低い声で言った。
「俺はな、お前に責任があるなんて微塵も思っちゃいねぇ。一人の命を守り切った。それだけで十分だ。
お前は、よくやったよ」
「……じゃあ、なんで……」
「人間は何かに寄りかからねぇと生きていけねぇ。
だからその拠り所を失った時、人は簡単に折れちまう。そうならないように、誰かが代わりに憎しみのはけ口にならなきゃいけねぇ……」
ファウロはゆっくりとラクアに向き直り、はっきりと言い切った。
「お前は強い。だから、お前は多くの人間の拠り所になってやれ。それが、強く生まれた者の責務だ」
その言葉を聞いた瞬間、ラクアの胸の奥が焼けるように熱くなった。
そして同時に、自分がどれほど未熟で、子供じみていたのかを、嫌というほど思い知らされた。
葬儀は滞りなく進み、わずか一時間ほどで終わりを迎えた。
会場を出たラクアは、ふと視線の先に見覚えのある赤髪を捉える。
リーファ・セリウス。
鋭い眼差しを持つ華奢な美女は、会場外のベンチに腰掛け、俯いたまま動かなかった。
ラクアはジークに一言断りを入れると、ゆっくりと彼女のもとへ向かい、隣に腰を下ろした。
「こんにちは。ラクア・シャーデットと申します」
ラクアが発した声は落ち着きを持っていた。
「先日は……命を救っていただき、ありがとうございました」
リーファは顔を上げ、ラクアを一瞥する。
感情を削ぎ落としたような無表情のまま、短く答えた。
「君は、あの時の少年か……
意識が戻ったんだな。よかった」
「貴方がいなければ、今ごろ母は干からびて死んでいたでしょう」
「だろうな。気を失った君の姿を見ただけで、彼女は洪水を起こす勢いで泣いていたよ」
一瞬だけ、リーファの表情が緩む。
しかしそれも束の間、すぐに引き締まり、鋭さを取り戻した。
「……君には謝罪しなければならない。
もっと早く情報を掴み、君たちの元に駆けつけていれば、君の友人をより多く救えたはずだ」
ラクアの胸が、ずしりと重くなる。
「いえ……」
ラクアは首を振り、視線を落とした。
「一番近くにいたのは、俺です。
俺が……もっと力を持っていれば……」
「それは遺族の方に言われたのか?」
リーファはラクアの心を見透かすように見つめる。
ラクアは一瞬だけ言葉に詰まり、視線を落とす。
だが、すぐに顔を上げて答えた。
「いえ、俺の意志です」
その答えに、リーファはわずかに目を見開いた。
「そうか。して、君はこれからどうするつもりだ。
魔童園は閉鎖されるんだろう?」
ラクアは今度こそ、深く沈黙した。
――俺は弱かった。
強いと思っていた自分は、ただ“四歳児としては”出 来が良かっただけだ。もう、誰も死なせたく無い。
だったら、俺がするべきことは………
ラクアは立ち上がり、リーファの正面に立った。
そして、まっすぐ前を見つめて言った。
「リーファ・セリウスさん、貴方にお願いがあります」
「……なんだ、言ってみろ」
「俺を弟子にして、育ててくれませんか?」
リーファは息を呑み、何も言わず目を閉じた。
そして、しばらく沈黙を貫いた後、再び口を開いた。
「……わかった、私は君を育てよう。
だが、私は君を子供として扱わないぞ?」
ラクアは、胸に確かな高揚が灯ると同時に、冷たく重い覚悟が骨の奥に沈み込んでいくのを感じた。
しかし、ラクアの中で答えはすでに決まっていた。
ラクアは唇の端をわずかに吊り上げ、年相応とは言えない挑戦的な笑みを浮かべる。
「望むところです」
その一言に、リーファは目を細め、初めてラクアに笑みを向けた。
「よろしく頼むぞ。ラクア・シャーデット」




