第六話「妹」
メリダの妊娠が発覚してから、一ヶ月が経ったある日。
一階から聞こえてきたファウロの朝食を呼ぶ声で、ラクアは目を覚ました。
夜遅くまで指南書を読み漁っていたせいで、目覚めは最悪だった。
重たいまぶたをこすりながらあくびを一つして、ラクアは階段を降りて居間へ向かう。
そこでは、ジーク、メリダ、ファウロの三人がすでにテーブルについていた。
メリダのお腹は以前よりも目に見えて大きくなり、最近は椅子に座って過ごす時間がほとんどになっている。
ラクアは急いで洗面所へ向かい、顔を洗ってから再び居間へ戻り、空いている席に腰を下ろした。
いつもと変わらない、穏やかな朝食。
特別な会話があるわけでもなく、時間だけが静かに流れていく。
食事を終えると、ラクアは自室へ戻り、平原へ向かう準備を始めた。
魔法訓練は、相変わらず成果が出ないまま続いている。
だが、ラクア自身の心情は、いつの間にか変わっていた。
作業のように失敗を繰り返すうちに、魔法に対する熱は冷め、自己嫌悪すらも薄れていった。
今では、ただ時間を潰すために魔法を練習しているというような感覚さえあった。
――そもそも、異世界から来た俺が、魔法を使えるようになること自体、不可能なんじゃないだろうか
そんな考えが頭をよぎった、そのとき。
コンコン、と扉を叩く音が、ラクアの耳に届いた。
「おい、坊主。開けるぞ」
声の主はファウロだった。
扉が開き、視線が合うと、ファウロは短く、だがはっきりと言い切る。
「少し付き合え。裏庭で待ってる」
それだけ告げると、ファウロは返事を待つこともなく踵を返し、扉を閉めて一階へと戻っていった。
ラクアは訝しみながらも、言われた通り身支度を進めた。
十分後。
家の裏口から裏庭へ出る。
裏庭は、小学校の教室より少し大きい程度の空間だった。
緑の芝生はよく手入れされていて、端の方には、立派な木が一本生えている。
その空間の中央に、ファウロは立っていた。
一メートルほどの、しっかりとした木の棒を手に持ち、いつもより明らかに不機嫌そうな表情を浮かべている。
「どうしたんですか? こんなところに、いきなり呼び出したりして」
次の瞬間だった。
ファウロの姿が、掻き消えた。
右頬に、鈍い衝撃が走る。
遅れて、視界が反転した。
気づけばラクアは宙を舞い、無様に尻もちをついて地面に叩きつけられていた。
何が起きたのか理解できないまま、ラクアは目を開ける。
さっきまで自分が立っていた場所に、ファウロがいる。
そこでラクアはようやく理解した。
ファウロに殴り飛ばされたのだ。
――速すぎる……!
「一つ、お前に聞きたいことがある」
ファウロは淡々とした口調でそう告げながら、倒れたラクアとの距離をゆっくりと詰めてくる。
「なぜお前は、支えてくれている両親の期待に応えようとしない」
「……は?」
あまりにも唐突な問いに、ラクアは思考が追いつかなかった。
「優秀であるはずのお前が、自分に甘え、成果を出そうとしない。その姿勢が、俺は気に食わない」
ファウロの目がギラギラと光る。
それはラクアが、どこかで見たことのある、本物の殺意を宿した目だった。
「もっと本気でやれ」
その言葉が放たれた瞬間。
ラクアの頭の中で、何かがぶちりと音を立てて切れた。
頬の痛み。
連日の失敗。
積もり積もった苛立ち。
すべてが一気に噴き上がる。
「朝早くから呼び出しやがって、何かと思えばそんなことかよ……痛ぇんだよちくしょう」
ラクアは自分の口から出たとは思えない荒れた声だった。
「お前に何が分かるんだよ……生まれて三年で自分よりも何十歳も上の人間に期待されるやつの気持ちなんて、お前にはわかんねぇだろうが!!」
ラクアの声は止まらなかった。
三年間溜め込んできた感情を、すべて吐き出すつもりで叫ぶ。
「俺だって必死にやってんだよ!!毎日街のやつらの気色悪い視線を浴びながら平原に行って!魔源子不足で頭が痛くなるまで練習して!それでも結果が出なくて!!……」
拳が震える。
ファウロを殴りたい衝動が、全身を支配した。
「一番俺にむかついてんのは俺なんだよ!!」
ついに衝動を抑えきれなくなり、ラクアはファウロへと殴りかかった。
だが、相手は本物の剣士。
伸ばした腕を簡単に掴まれ、体勢を崩され、そのまま
投げ飛ばされる。
「うあっっ!!」
再び地面を転がるラクアを見下ろしながら、ファウロは煽るように口を開いた。
「無駄だ。ガキのお前が、剣士である俺に近接で勝てるわけねぇだろ」
攻撃が不発に終わり、ラクアはさらに激情した。
ファウロを出来るだけ痛い目に合わせてやりたいと言う思いだけが頭の中を支配していた。
「練習してきたんだろ?だったら俺にぶつけてみろよ、欠陥品の風魔術をよぉ!!」
ラクアの感情は、怒りから殺意へと変わった。
――クソ野郎が。いいさ、やってやる……!!
ラクアは手に魔源子を集めた。
何度も繰り返し行った作業だ。
一秒足らずで完了した。
――だが、今回はいつもとは違う。あのクソ野郎を吹き飛ばす為に…最大限の殺意を込めて……
ラクアは叫んだ。
毎日、日が暮れるまで口にし続けた、あの忌々しい言葉を。
「『強風』!!!」
次の瞬間、ラクアの手のひらから、弾丸のような風が放たれた。
直線に。
迷いなく。
メリダが放ったそれよりも細く、荒削りで、威力も劣るはずのもの。
それでも確かに、破壊力を持った風だった。
ラクアはその瞬間、初めてこの世界に触れることができたような気がした。
だが、成功の実感によってわずかに理性を取り戻したラクアは、想像よりも数十倍の威力を持った強風の進行方向、その先に立つファウロの姿を見て背筋が凍りついた。
――まずい……! 避け――
そう思った刹那。
ファウロは目にも留まらぬ速さで、手にしていた棒を放り捨てた。
同時に、腰の剣へと手が伸びる。
次の瞬間には、すでに剣は抜かれていた。
流れるような一動作。
迷いも、ためらいもない。
そしてラクアが放った、弾丸のような強風を、ファウロは真正面から真っ二つに切り捨てた。
切り裂かれた強風は勢いを失い、跡形もなく霧散する。
数秒の沈黙が流れた。
出るはずがないと思っていた魔法が飛び出し、ファウロを傷つけかけた焦り。
それと同時に、確かに魔法を成功させたという喜び。
ラクアはその二つに挟まれ、言葉を失っていた。
「ごめんなさい。本当に出るとは思わな――」
「これは有名な仮説だがな」
ファウロは、ラクアの言葉を遮って静かに口を開いた。
「魔法ってのは、感情の昂りで威力が跳ね上がることがある」
その顔には、先ほどまでの苛立ちは微塵も残っていなかった。
ただ真剣に、真っ直ぐラクアを見据えている。
「努力することの本質を見失うな。その感覚を、忘れるんじゃねぇ」
それだけ言うと、ファウロは踵を返し、裏口から家の中へと戻っていった。
ラクアは理解した。
ファウロは体を張って教えてくれたのだ。
自ら憎まれ役を引き受け、ラクアの感情を引き出してくれたのだと。
とても三歳の子供に向けるやり方ではなかっただろう。
だがファウロは、最初からラクアを「子供」としては扱っていなかった。
一人前の人間として向き合い、その上で叩きのめしてくれたのだと、ラクアはそう解釈した。
――だからこそ、これからは彼に取り繕った敬語は使わないようにしよう。
子どもとして扱われる言葉ではなく、一人の人間として向き合う為に。
敬意を払うってのは、きっとそういうことなんだ。
ラクアはそう心に決め、家の中へと戻った。
中に入るとすぐ、メリダとジークが駆け寄ってくる。
「ファウロから聞いたわよ! 風魔術を成功させたんですってね!」
「本当によく頑張ったな。さすが、父さんと母さんの息子だ」
二人に抱きしめられた、その瞬間。
ラクアの青い瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
この世界に来てから、ラクアは初めて涙を流したのだ。
それは、何度も失敗を重ねた末に、ようやく一歩を踏み出せたことへの静かな歓喜の証だった。
「ラクア!? どうしたの? どこか痛むの?」
その涙を見逃さなかったメリダが、心配そうに顔を覗き込む。
――やべっ!!
反射的に腫れ上がった左頬を隠したが、時すでに遅し。
メリダはものすごい剣幕で踵を返すと、居間へ続く廊下を進み出した。
そのとき、居間の扉が開き、黒いエプロン姿のファウロが顔を出す。
「おお、メリダ。昼飯は肉か魚、どっちに――」
「そんなことどうでもいいわ! あなた、ラクアに手を上げたりしてないでしょうね!? 顔が腫れてるんだけど!」
詰め寄られたファウロは、視線を逸らしながら、バツが悪そうに答えた。
「わ、悪かったよ。でもあいつは大人びてるし――」
「大人びてても、ラクアは子供なの!!」
勢いの止まらないメリダを前に、ラクアの隣で苦笑していたジークは、ラクアの頭をぽん、と優しく叩いた。
そして一言も言わず、喧嘩の仲裁に向かっていった。
一人残されたラクアは、そっと涙を拭い、深く息を吐く。
不思議と、頭の中は冴え渡っていた。
――嗚呼、思い出した。
前世でも、今世でも。俺が努力してきた理由…
認めてほしかったんだ。
自分を産んで、育ててくれた、両親に…
その日、ラクアは一日中、体を休めることに使った。
訓練続きだったこれまでの時間を取り戻すかのように、ほとんどをメリダと過ごした。
夕食には、ファウロがいつもより少し豪華な料理を振る舞ってくれた。
多くは語らなかったが、それが彼なりの労いなのだと、ラクアにはわかった。
心も腹も満たされたラクアは、久しぶりの安らかな休息を噛みしめるように、その夜、深い眠りへと落ちていった。
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次の日の朝、ラクアは切羽詰まった様子のファウロに、文字通り叩き起こされた。
「起きろ、坊主」
強引に肩を揺さぶられ、ラクアは半分眠ったまま体を起こす。
「……なに、こんな朝っぱらから……」
呑気にあくびを噛み殺すラクアだったが、次に続いたファウロの言葉を聞いた瞬間、眠気は一瞬で吹き飛んだ。
「メリダの容態が急変した。今日、生まれる」
「……え?」
頭が、ついていかない。
言葉の意味を理解するより先に、胸の奥がざわついた。
「朝方、ジークが病院に連れていった。
もうすぐ戻るって話だ」
安心と不安が同時に押し寄せ、ラクアの思考はぐちゃぐちゃになった。
無事なのか。
本当に、今日なのか。
自分は、何をすればいいのか。
そんなラクアの様子を見て、ファウロは短く鼻を鳴らした。
「だから起こさなかったんだよ。
どうせ、こうなると思ってな」
呆れたように言いながらも、その表情はどこか硬い。
ファウロ自身も、平静ではないことが、ラクアにも分かった。
数分後、病院に行っていたジークとメリダが家へ戻ってきた。
そしてメリダの腕には、小さな赤ん坊が抱かれていた。
薄い白髪をしたその子は、すやすやと安らかな寝息を立てている。
「ラクア……あなたの妹よ」
その言葉に、ラクアは一瞬、言葉を失った。
昨日、魔法を成功させたときとは違う、胸の奥を直接掴まれるような衝撃だった。
メリダの腕の中の存在は、この世のものとは思えないほど小さく、愛らしい。
それが“妹”だと理解した瞬間、実感よりも先に、責任感に似た感情が湧き上がった。
ジークが穏やかに告げる。
「この子の名前は、リーアだ」
ラクアは、リーアの寝顔をじっと見つめた。
壊れてしまいそうなほど儚い存在。
そして間違いなく、自分の守るべき家族。
――俺は、この子の兄になるんだ
昨日、魔法を成功させたことで、ラクアはすでに一歩を踏み出していた。
だが今、その歩みに“意味”が加わった。
強くなりたい理由が、はっきりと形を持ったのだ。
妹に頼られる兄でありたい。
胸を張って、背中を見せられる存在でありたい。
ラクアは、静かに決意を新たにした。
この力を、誇れるものにすると。
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その日の午後、曇り空が広がる中、ラクアは平原へと向かった。
再び魔法を成功させるため、足を進めながら、先日の成功体験について思考を巡らせる。
――おそらく俺は、たしかに成功の「種」を持ってい た。でも、種だけじゃ駄目だったんだ。発芽するに は、水や空気……いろんな要素が必要になる。
歩きながら考え続けるうちに、ラクアは一つの結論に辿り着いた。
魔法を使う時には、なぜその魔法が必要なのか。何のために放つのか。
その意思を、はっきりさせる必要があるのではないか。
――あの時の俺には、ファウロに一泡吹かせたいという強い意志があった。
でも、失敗続きだった頃は違う。
練習は流れ作業になっていて、なぜ自分が魔法を使 えるようになりたいのか、それすら分からなくなっ ていた気がする……。
自分の中で整理された考えに、ラクアは静かに頷き、歩みを進めた。
数分後、平原へ辿り着く。
いつものように手の平を前方へ向け、深く深呼吸をした。
目を閉じ、ゆっくりと魔源子を手に集めていく。
――俺は、一度成功させた。
なら、出来るはずだ
手の平に力が集まっていく感覚を確かめながら、ラクアはさらに思考を深める。
――思い出せ。俺が魔法を放つ理由は何だ。
それは、認めてほしいからだ。
俺を信じ、応援してくれる人たちに、応えるためだ
魔源子を限界まで集め、意識を自分の小さな手だけに集中させる。
――そして、信じろ。自分自身を。
ここまで積み重ねてきた、努力の時間を
「『強風』!!」
次の瞬間、ラクアの手の平から、とてつもない強風が唸り声を上げて吹き出した。
それは、メリダの放つ風と比べても、ほとんど遜色のない、完成された魔法だった。
――やった!!
ついに……やったんだ!!
だが、その喜びは一瞬で恐怖へと変わった。
突然、ラクアの小さな体がふわりと宙に浮いたのだ。
大人すら吹き飛ばすほどの強風に、三歳の身体が耐えられるはずもなかった。
「うわあぁぁぁっっ!!!」
制御を失った強風は止まることなく、ラクアの体を上へ、上へと押し上げていく。
高度は増し続け、気づけば、まばらに生えている木々の梢すら、はるか下に見えていた。
その瞬間、ラクアの頭に鈍い痛みが走る。
魔源子切れだ。
吹き荒れていた風は、嘘のように途切れた。
支えを失ったラクアの体は、重力に引かれ、真っ逆さまに落下し始める。
――まずい!……このままじゃ!!……。
視界いっぱいに、地面が迫ってくる。
だが、魔源子を使い果たしたラクアには、もう何も出来ることは無かった。
ラクアは死を悟り、ぎゅっと目を閉じた。
死の痛みに身構えたラクアだったが、いくら待っても、その瞬間は訪れなかった。
落下の衝撃も、衝突の感覚もない。
不自然さを覚え、ラクアはゆっくりとまぶたを開いた。
小さな体は淡い黄色の光に包まれ、地面と衝突する寸前で、静止するように宙に浮いていた。
――これは……どうなってるんだ…?
理解が追いつかないまま、ラクアの体は、まるで何かに抱き留められるように、ゆっくりと地面へと降ろされていく。
そのときだった。
厚く垂れ込めていた雲が割れ、曇天の空から一筋の陽光が差し込む。
光は次第に広がり、空はゆっくりと晴れ渡っていった。
地面に足が着いた直後、ラクアは背後から、確かな人の気配を感じた。
振り返ると、そこに立っていたのは、流れるような桜色の髪を持つ、一人の美女だった。
二十歳前後に見えるその美女は、白く透き通るような肌に、大きな青い瞳を持っていた。
どこか儚げで、現実離れした雰囲気を纏っている。
身にまとっているのは、白い布で作られた服で、その佇まいは、神話に語られる女神を思わせるほど、神聖なものだった。
だが不思議と、ラクアの胸に湧いた感情は警戒ではなく、理由のわからない安心感だった。
ーーこの人、どこかで……
美女はラクアと視線を交わした瞬間、笑っているようで、同時に悲しむような、不思議な表情を浮かべた。
そして次の瞬間、その青い瞳から涙が一筋、また一筋と、静かに零れ落ちた。
ラクアは戸惑う。
死んだと思った次の瞬間に救われ、見知らぬ美女は、なぜか自分を見て泣いている。
何か言葉を発しようとした、その刹那、美女の方が、先にゆっくりと口を開いた。
「……よかった」
その声は、震えていて、今にも消えてしまいそうなほど弱々しい。
「無駄じゃなかった……」
美女は、美しい顔を涙で濡らし続けていた。
ラクアは何も出来ず、ただ呆然と、その様子を見つめることしか出来なかった。
だが、そう長い時間はかからなかった。
美女は静かに涙を拭い、ラクアの方へと向き直ると、優しく肩に手を置いた。
「……私は、力を使ってしまいました。
いずれ、ここにも追っ手が来るでしょう」
そう言って、美女はラクアの頬にそっと手を添える。
その瞳は、はっきりとした意志を宿していた。
「貴方に、力を分け与えます。貴方なら、この三つの力を使いこなすことが出来る」
「ちょっと待ってくれ!」
困惑したラクアは、思わず声を張り上げた。
「あんたは一体、何者なんだ?」
問いかけに、美女は一瞬だけ目を伏せ、そして凛とした表情で顔を上げる。
「……教えることは出来ません。
知れば、結末が変わってしまう」
「じゃあ、その“力”って何なんだ?
それだけでも教えてくれよ!」
食い下がるラクアに、美女は首を横に振った。
「力については、貴方の脳内に直接書き記します。
……私は、もう長くありません」
そう告げて、美女はラクアを真っ直ぐに見つめる。
「だからこそ、貴方に私の想いを託します」
そう言った桜髪の美女は、ラクアの頭に優しく手を置いた。
次の瞬間、ラクアの視界は、眩い光に包まれた。
とても目を開けていられず、ラクアは反射的にまぶたを固く閉じる。
それと同時に、体の奥を何かが流れ抜けていく感覚がした。
それは、魔源子が体内を巡る感覚によく似ていながら、どこか決定的に違っていた。
その“何か”は、美女の手からラクアの頭へと流れ込み、脳裏をかすめ、やがて瞳の奥へと沈み込んでいく。
意識が遠のくような感覚。
同時に、確かに何かを刻み込まれているという実感。
やがて、その感覚が徐々に薄れていった頃、ラクアは、頭に置かれていた手が離れるのを感じた。
そして、辺りを包んでいた眩い光が唐突に消え去った。
恐る恐る目を開くと、そこに桜髪の美女の姿はなかった。
広がっていたのは、見慣れたいつもの草原。
風に揺れる草と、どこまでも続く空。
何一つ変わっていない光景だった。
だが、ラクアはすぐに、自身の異変を自覚した。
右目に、今まで感じたことのない違和感がある。
熱を帯びているような、重さを抱え込んでいるような、不思議な感覚だった。
理由を探ろうとした、その時。
遠くの地平線から、砂埃を巻き上げながら近づいてくる“何か”が、ラクアの視界に映った。
胸の奥がざわつく。
好奇心と、正体不明の不安に駆られたラクアは、咄嗟に近くに生えていた大木の裏へと身を隠した。
息を潜め、近づいてくるそれを凝視する。
それは、黒いコートを身に纏った男たちだった。
数は、ざっと見ても数十人。
全員が馬に跨り、無駄のない動きで進軍してくる。
黒いコートの胸元には、サファイアのように青く輝くボタンが留められていた。
その統一された装いと、隙のない隊列は、彼らがただの集団ではないことを雄弁に物語っている。
男たちから放たれる威圧するような空気は、さながら軍隊のようだった。
その集団の先頭に立っているのは、青い仮面をつけた白い長髪の男だった。
仮面には目の位置にだけ穴が空けられており、そこから冷たい銀色の瞳が覗いている。
表情の大半は仮面に隠されている。
だが、わずかに見える口元と、その視線の動きから、男が感情というものを一切表に出していないことだけは、はっきりと伝わってきた。
その男の隣を走る側近と思しき人物が、馬上から声を張り上げる。
「まだ近くにいる可能性がある!王龍庁の名にかけて、なにがなんでも見つけ出せ!!」
号令とともに、男たちは隊列を崩すことなく、地面を蹴り、一直線に駆け抜けていく。
彼らは、ラクアが身を潜めている大木から、およそ三十メートルほど離れた位置を通過していった。
――気づかれてない
その事実に、胸の奥で固まっていた息が、ようやく流れ出る。
――面倒ごとに巻き込まれるのはごめんだ。
一度、家に戻ろう
ラクアはそう判断し、音を立てないよう慎重に平原を後にした。
幸いにも、王龍庁の男たちは、ラクアの家とは反対方向へと進んでいた。
そのため、帰路で彼らと遭遇することはなかった。
だが、胸のざわめきだけは、いつまでも消えずに残っていた。




