第三話「街へ」
夏の訪れが足音を忍ばせていた頃、ひときわ涼しい風が町を撫でた。
その心地よい風に誘われ、少年は眠りから目を覚ます。
まだ幼児と呼ぶ年齢ではあるが、整った容姿は、大人さえも思わず目を留めるほどだった。
眉まで伸びた柔らかな黒髪と、蒼い瞳を持つ少年、ラクア・シャーデットは、ベッドから降りると、先ほどから唸っていた腹の虫をなだめるため、居間へ向かった。
居間に入ると、白髪の美女が椅子に座って編み物をしていた。
美女はラクアが近づくと振り返り、微笑みかける。
「おはよう、ラクア」
「おはよ、母さん。朝ご飯はもう出来てる?お腹ペコペコなんだ」
「先に顔を洗ってらっしゃい、スープを温めておくから」
ラクアは言われるまま、洗面台に向かった。
この世界の洗面台は、魔法器具でできている。
魔法器具とは、人が魔法を使うのではなく、レバーやボタンによる信号で道具が魔法を使うという画期的なものだ。
その仕組みは複雑で、ラクアにもまだ理解できない。
蛇口から水が流れ出し、ラクアはそれで顔をすすいだ。
眼前にある鏡には、ついこのあいだ三歳になったラクア・シャーデットが写っていた。
この年齢になると、文字の読み書きと言葉の習得をすでに完全に身につけていた。
三歳児とは思えないほど達者に話すラクアだったが、両親はもはや驚きもしなかった。
三年間共に過ごす中で、自分たちの息子は「普通」とはかけ離れた優秀さを持つ子供であることを、嫌というほど思い知らされていたからだ。
ラクアは顔を洗ったあと居間に戻り、テーブルについた。
目の前には見慣れた朝食が並んでいる。
ふわふわのバケットに野苺のジャム、熱々のオニオンスープといったところだ。
ラクアはあくびをしながら、それらをゆっくり口に運ぶ。
食べ慣れたものばかりだったが、ラクアは幸せを感じながら朝食を噛みしめた。
ふとテーブルの端を見ると、新聞が畳まれて置いてあった。
ジークが読んでそのまま置いていったのだろう、とラクアは考えながら新聞を手に取り、目を通した。
新聞には、アークディアの新任教師の着任記事や、大量発生した害虫への注意喚起、つまらなさそうな政治の話題まで載っている。
中でも一番大きな見出しは、中央都市アランベールの王統城、クルドア城から龍が一体逃げ出したというものだった。
どれもラクアが興味を持つようなニュースではなく、落胆しながら新聞を閉じた。
朝食を食べ終えると、ラクアはすぐに自室へ籠った。
密かに文字の勉強を始めてから、もう二年ほど経つ。
そして今日、ラクアはその最後の総復習を終えようとしていた。
ーー今日一日、勉強に費やせば終わりそうだな
ラクアは凄まじい集中力を持っていて、一日中自室に籠って勉強に打ち込む日々を送っていた。
いつもと同じように机に本と羊皮紙を広げ、羽ペンを手に一心不乱に書き込んだ。
次にラクアが気づいたときには、日が暮れ、外は暗くなり始めていた。
羊皮紙には、地球人には読めないであろう文字がびっしりと書かれている。
ラクアはそれを達成感に満ちた気持ちで眺めた。
ーーやっと、終わった……
ラクアは二年間で文字をすべて覚え、使いこなせるようになったのだ。
小踊りしたくなる衝動を抑えつつ、次に挑戦すべきことを考え始める。
メリダの夕飯に呼ぶ声が聞こえる頃には、ラクアの考えはまとまっていた。
居間へ行くと、ちょうどジークが帰宅し、メリダに「お帰り」のキスをされているところだった。
見慣れた光景を横目に、ラクアは手を洗いに洗面所へ向かう。
そして数分後、シャーデット一家は家族そろって夕食の席についた。
食卓が整うのを前に、ラクアはメリダとジークに口を開く。
「母さん、父さん。お願いがあるんだ」
「どうしたんだ?急に。お前が父さんたちに頼み事なんて珍しいじゃないか」
ジークは優しく微笑みながらも、どこか怪訝そうに問い返した。
「ラクアは一人でなんでもできちゃうものね」
対するメリダは、誇らしげに笑った。
「俺に、魔法を教えてほしいんだ」
その一言に、ジークは目を見開き、メリダはますます嬉しそうに口角を上げた。
それぞれの反応を見せる二人を見ながら、ラクアは続ける。
「ずっと夢だったんだ。母さんみたいに魔法を使っていろんなことに挑戦したいんだよ」
ジークはしばらく黙り込み、思案するように目を閉じた。
ラクアも、即座に首を縦に振ってもらえるとは考えていなかった。
この世界には「魔童園」という、保育園に近い教育機関がある。
英才教育を望む家庭の多くは、その魔童園に入園する四〜五歳頃に、魔法の基礎を叩き込む。
そのことをラクアは本で知っていた。
たとえ言葉の習得が早かったとしても、三歳児に魔法を教えるのは事故の危険が大きい。
だからこそラクアは、半ば諦めつつ、両親に願いを伝えたのだった。
「ねえ、いいでしょ?あなた。ラクアなら偉大な魔法使いになれるわ!」
メリダはジークとは裏腹に、興奮を隠せない様子だった。
ラクアはその反応に希望を見出す。
ジークはメリダの意見にはめっぽう弱い。
――これは、いけるかもしれない。
しかし珍しいことに、メリダの説得にもかかわらず、ジークは沈黙を貫いた。
ラクアはもう一押しするべく、言葉を放つ。
「頼むよ、父さん。一人では絶対魔法を使ったりしないからさ」
その言葉を聞いたあと、ジークはゆっくりと口を開いた。
「別に父さんは、お前が問題を起こすかもしれないなんて思っていない。お前が父さんの子とは思えないくらい優秀だってことは、よく知っている」
「じゃあなんで……」
「お前が魔法を学ぶということは、家の外に出る必要がある。この家は、魔法の基礎を学ぶには少し狭いからな。」
さらに一呼吸置いて、ジークは語りだす。
「外の世界っていうものは、家の中とは違って、お前を守ってくれる人も少なく、絶対的な居場所も存在しない。選択肢に正解なんてないし、正しいと信じた己の行動に疑問を持つこともある。理不尽が練り固められて出来た世界だ。そんな世界に、お前は足を踏み入れようとしているんだよ」
ラクアは生前の記憶もあったため、社会の仕組みは理解しているつもりだった。
だが、ジークのこれまでにない神妙な様子から、自分が知っている社会とは違うのだと想像できた。
「だから、その世界で自分を見失わず、お前がお前でいられるように努力し、生きていく覚悟があるのなら、父さんは、魔法を学ぶことを許可しよう」
それはラクアが三年間見てきた軟弱そうな父からは決して発せられないと思っていた、責任を背負わせるほどの厳格な言葉だった。
ラクアは、その瞬間初めてジークに“貫禄”というものを感じた。
だが、それも束の間だった。次の瞬間にはいつもの頼りなさげな空気が戻り、ジークは気恥ずかしそうに付け加える。
「とはいえ、教えるのは母さんだがな」
ジークは照れ隠しのように笑った。
ラクアはジークから、これまでメリダほどの愛情を感じたことは少なかった。
しかし、今こうして真剣に向き合おうとしてくれている姿に、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
「父さん、約束するよ。俺は絶対に逃げたりしない。
ちゃんと外の世界に向き合って、俺がやりたいこと、やらなきゃいけないことを見つけてみせる」
ラクアは茶色に光るジークの瞳をまっすぐに見据え、一語一語を確かめるように言い放った。
その言葉を聞いたジークは、満足そうに深く頷く。
「そうと決まれば……明日は家族全員で、朝から平原へ行こう。今日はゆっくり寝て、明日に備えるように」
ラクアはその夜、胸の奥で膨らむ期待を必死に抑え込み、いつもより早く眠りについた。
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翌朝、いつになくはっきりと目が覚めたラクアは、胸の高鳴りを抑えつつ、できる限りの最速で朝の支度を済ませた。
洗顔をざっと終え、朝食をスープで流し込むと、いつもより少しだけおしゃれな服を身にまとう。
支度を終え、玄関で五分ほど待ってみたが、メリダとジークはのんびりと準備しているらしく、なかなか姿を見せない。
ラクアの視線がふと、目の前の扉に向く。
これまで一度も開けたことのない扉、開けようと考えたことすらなかった扉だ。
その前に立つと、言葉にし難い緊張が胸に満ちた。
しかし、その緊張を上回るほどの好奇心が、ラクアの背を押す。
ついに痺れを切らし、ラクアはその重厚で頑丈な扉を押し開けた。
扉の向こうは、ラクアが想像していた以上に幻想的だった。
煉瓦造りの家々が立ち並ぶ街並みは、中世ヨーロッパを思わせる華やかさに満ちている。
行き交う人々の装いも様々だ。
魔法使いのようなローブをまとった者もいれば、腰に剣を帯びた者もいる。
ラクアより少し年上と思われる子供たちが、笑いながら駆けていく姿も確認できた。
だが、ラクアの目を一際引いたのは、街並みでも道ゆく人々でもなかった。
何十枚という洋形封筒が、人々の頭上を自由に飛び交っているのだ。
ラクアは最初、誰かの手紙が風に吹き飛ばされたのだと思った。
しかし、封筒が角を曲がるのを見て、その考えはすぐに覆された。
「“空郵便”を見るのは初めてか?」
ラクアが振り返ると、いつもと変わらない格好のジークと、紺色のローブに身を包んだメリダが立っていた。
「特別な封筒に手紙を入れて宛名を書けば、勝手に宛先まで飛んでいって届けてくれるんだ」
ジークはラクアに説明を施しながら、家の戸締りをきちんと終えた。
こうしてシャーデット一家は、初めて三人そろって街へと踏み出した。
歩いているうちに、ラクアはすれ違う人々の視線が、妙に自分へ向いていることに気がついた。
それだけではない。
周囲の人々は、明らかにシャーデット一家を避けるようにして道を開けている。
居心地の悪さをごまかすように、ラクアは街並みへ視線を移し、建物や通行人を観察し始めた。
しかし、世間話に花を咲かせている主婦たちのそばを通りかかったとき、嫌でもその会話は耳に飛び込んできた。
「ねぇ、あれ……噂のシャーデットさんの子供じゃやい?」
「しーっ、聞こえるわよ」
「本当に髪が黒いなんて、不吉だわ。不景気の原因に決まってるわよ」
「まるで悪魔みたい」
その瞬間、ラクアは両親が自分を外に出したがらなかった理由を、はっきりと理解した。
思い返せば、ラクアの外の世界との隔離は徹底していた。
家の窓はすべてすりガラスで、予防接種も、わざわざ医者を家に呼んで済ませていたほどだ。
――父さんと母さんは、俺を世間の目から守ってくれていたのか。
ふと横を見ると、メリダは頬をふくらませ、怒りを露わにしている。
「あの人たち……うちのラクアに、なんてひどいことを言うの」
「メリダ、抑えるんだ。みんな今は、不景気で気が立っているんだよ」
ジークは静かにメリダを諭した。
ラクアはメリダの顔を見て、安心させるように微笑む。
「母さん、俺は大丈夫だよ。何があっても逃げないって、約束しただろ?」
その言葉に嘘はなかった。
前世のラクアは、幼い頃こそ女優の息子として騒がれたが、大学生になる頃には誰からも注目されなくなった。
だからこそ今向けられている視線はむしろ新鮮で、ラクアにとっては、気が沈むほどではないのだ。
「ごめんね……そうだったわね。
ラクアは強いのね。私なんかより、ずっと」
メリダはそう言って力なく笑う。
ジークはそんな彼女をそっと抱き寄せた。
「メリダは弱くなんてないさ、誰よりもラクアを愛している君は、世界で一番の母親だよ」
「まあ、ジークったら。あなたも私にとって最高の夫だわ」
そこから数分間、ラクアは、いつもの夫婦のいちゃつきを外でも健在なまま見せつけられることになった。
家の中で見慣れているとはいえ、さすがに外でやられると気まずさは倍増だ。
ラクアの居心地は、さらに悪くなった。
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家から歩き続けて十分ほど。
少しずつ周囲の景色が変わり、出店が並ぶ通りに入った。
活気こそあるものの、店先に立つ人々の表情には、どこか曇りが差している。
「うそ……! 前に来たときは、トマト一つ2グリフもしなかったのに……」
八百屋の値札を覗き込んでいたメリダが、思わず声を上げた。
ラクアは実際の出店を見るのは初めてだったが、物価や通貨についてはすでに学んでいた。
この世界で流通している通貨は三種類。
ガルド金貨、ギニット銀貨、そしてグリフ銅貨だ。
日本円に置き換えるなら、
•1ガルド = 1万円
•1ギニット = 1000円
•1グリフ = 100円
といったところだ。
さらに、この街の景気についてもラクアは理解している。
ヘルバ王国の中でも端の方に位置するカルケルは、人と物の流れが悪く、商売には向かない街だ。
そのため景気は長く低迷し、結果として物価だけがどんどん上がってしまっていたのだ。
とはいえ、出店に並んでいる商品は、投げると噛み付いてくるシルクハットや、七色に輝くブランケットなど、地球ではまずお目にかかれない奇妙なものばかりだ。
ラクアは歩きながら、しばらくウィンドウショッピングを楽しんだ。
結局いちばん気に入ったのは、ロープのように際限なく伸び続ける孫の手だった。
通りを抜け、さらに十分ほど歩く。
シャーデット一家はついにカルケルの外へ出て、草原へと足を踏み入れた。
辺り一面に広がる明るい緑。
ところどころに木々が点在し、どこか地球に似ていながら、やはり違う世界の景色が広がっている。
膝下まで伸びた草が夏風に揺れ、その柔らかい葉が足元をくすぐった。
「ここなら、かなり規模の大きい魔法でも遠慮なく使えるわね!」
メリダはローブをジークに渡し、腕まくりをして、やる気に満ちた表情でラクアと向き合った。
「それじゃあ始めるわ。まずは“魔法とは何か”、簡単に教えるわね」
そう言うと、メリダは二人から少し距離を取り、前方へ手を突き出した。
「魔法には大きく三つの種類があるの。それぞれ『放出系』『作用系』『呪い』と呼ばれているわ。まずは放出系から…」
メリダは深く息を吸い、はっきりと唱えた。
「『火炎』!」
次の瞬間、彼女の手のひらから炎が勢いよく噴き出した。
火炎は三十メートルほど進むと、煙となって消えていった。
「こんなふうに、火や水みたいな“物質”を生み出して放つのが『放出系』よ」
ラクアはただ呆然とその光景を見つめ、胸の奥で高鳴る興奮を抑えられなかった。
――すげぇ……これが本物の魔法使い……
ラクアの驚きを横目に、メリダは続ける。
「次は『作用系』。これは何かを放ち出すんじゃなくて、目に見えない力で対象に直接働きかけるタイプね」
彼女は足元に転がる小さな石へと手を向けた。
「『浮遊』!」
石は少し揺れたかと思うと、ふわりと宙に浮かび上がった。
そして、ラクアの周囲を一周すると、メリダの手のひらへと収まった。
「最後に『呪い』。これは放出系に少し似ていて、発射された閃光が当たった対象に“効果”を与えるの」
ちょうどその時、一羽の小鳥がメリダの近くを横切った。
メリダは素早く唱える。
「『叫べ』!」
紫の閃光が飛び、小鳥に触れた。
ピイィーーーーッ!!
突然、小鳥は甲高い声を上げた。
なんて非情な、とラクアはメリダの人間性を疑ったが、小鳥は何事もなかったようにそのまま飛び去っていく。
「こんなふうに、閃光そのものに威力はないけれど、種類によっては危険な効果も付与できるわ。だから一番悪用されやすいの」
説明が終わるころには、ラクアは自分がどこまでやれるのか、試してみたくて仕方がなくなっていた。
「じゃあラクアにはまず、放出系と作用系を一つずつ使えるようになってもらうわ。年齢的にはかなり早い段階だけど……あなたが自分で決めたことだもの。私も全力で教えるわ」
こうして、のどかな平原で、三歳児の魔法訓練が始まった。




