間話「師の葛藤」
ヘルバ王国の中心地、城壁に囲まれた城下町タルタリア。
その一角に、小さな居酒屋があった。
店内では、数組の貴族たちが談笑しながら酒を嗜んでいる。
その中で、カウンター席に一人、静かに座る女がいた。
淡い赤色の髪を背中まで流したその女は、店に入れば思わず視線を奪われるほど整った顔立ちをしている。
リーファ・セリウス。
世界で三人しかいない“剣帝”の一人である彼女は、日々の職務に疲れを滲ませながらも、気品を崩さぬままグラスを口へと運んでいた。
その時、チリンとドアチャイムが鳴り、一人の男が店に入ってきた。
二十代ほどの男で、髪は深い青にまばらな白が混じり、わずかにうねっている。
丸眼鏡の奥の切れ長の瞳は、どこか冷ややかな印象を与えていた。
男はそのままカウンターへと歩み寄り、リーファの隣に腰を下ろす。
「珍しいな。お前から俺に話があるとは」
男の低い声が、淡々と響いた。
「すまんな、アイゼス。お前も忙しいだろうに」
「仕事柄、移動を制限されている俺が、月に一度の出国許可を使ってまで来たんだ。さぞ重要な話なんだろうな」
「いや、ただ世間話の相手になって欲しかっただけだ。賢いお前とは、個人的に気が合う」
アイゼスと呼ばれた男は一瞬眉を寄せたが、やがて小さく息を吐き、リーファと同じ酒を注文した。
「それで、最近はどうなんだ」
アイゼスが問いかけると、リーファはグラスの中身をマドラーでかき混ぜながら口を開いた。
「弟子を取ったんだ。今年で七つになる少年なんだが、かなり出来がいい」
「お前が後進の育成に興味を持つとは思っていなかったが」
「事情が変わったんだ。案外悪くないぞ」
アイゼスはグラスを傾けながら、わずかに眉間に皺を寄せる。
「理解できんな。弱者に歩幅を合わせることほど、不愉快なものはない」
「お前らしいな」
リーファは小さく笑った。
「だが彼は弱くない。近いうちに、お前とも戦わせてみたいと思っている」
その言葉に、アイゼスはリーファをじっと見据えた。
「ひどく気に入っているようだな、その少年を」
「ああ。最近は、彼に驚かされてばかりだ」
そう答えたリーファの表情には、先ほどまでとは異なる、わずかな陰りが差していた。
「聞かせろ。その少年について」
アイゼスはグラスを置き、頬杖をついた。
「先日、弟子の妹が誘拐された。
そして私の弟子は、誘拐犯を半殺しにして妹を救い出した」
リーファの目は虚ろで、どこか儚げな色を帯びていた。
「私はそれを知って、少々取り乱してしまってな。
弟子に言ったんだ。
お前は人の命を奪うには若すぎると。
だが彼は言ったんだ。敵の命を尊びつつ、守るべき命を守るという行為は、最善と言えるのか、と」
「ずいぶん覚悟が決まっている少年だな。
目的のために他者へ殺意を向けることを厭わない。
実に合理的だ」
アイゼスはグラスを見つめたまま、淡々と応じる。
「ああ、あんな目をする子供を、私は見たことがない」
リーファは言葉を詰まらせた。
「私は彼に、戦い方を教えた。
敵を前にした時、迷わず牙を突き立てられるように。……それなのに、私は小さな少年が他者を傷つけることを恐れてしまった」
リーファはグラスの中身を飲み干し、静かにカウンターへと置いた。
「私は彼を、一人の“戦う者”として見てやれていなかった。……彼の言葉で、それを思い知らされたよ」
そう言って、リーファは自嘲気味に笑った。
その瞬間、アイゼスが不意に手を伸ばし、リーファの両頬を片手で挟んだ。
リーファの顔がわずかに持ち上げられ、強制的にアイゼスと視線が交わる。
「情けない顔をするな。不愉快だ」
低い声が、冷たく突き刺さる。
「お前が凛としていなくては、お前に続く者は誰の背中を追えばいい?」
その言葉にリーファは目を見開いた。
アイゼスはリーファの頬から手を離し、何事もなかったかのように椅子へと座り直す。
「お前は強者である前に、一人の人間だ。失敗は弱者にのみ許された醜態ではない。誰しもが踏むべき過程だ。
お前自身が紆余曲折の末に広げた狭き道は、お前の後に続く者にとって、安易な進路となる」
その言葉で、リーファの胸の中に渦巻いていた霧が、静かにほどけていく。
不意に、窓から一通の封筒が滑り込むように入り込み、アイゼスの前で静止した。
空郵便だ。
アイゼスはそれを開いて目を通すと、静かに立ち上がり、椅子に掛けてあったコートを羽織る。
「呼び戻しだ。緊急らしい」
「社畜め。お前はもう少し人と接した方がいいと思うが?」
リーファは口の端を吊り上げた。
アイゼスは鼻で笑い、わずかに口元を歪める。
「お前こそ、子供に構ってばかりでは婚期を逃すぞ」
「余計なお世話だ」
リーファも立ち上がり、アイゼスと向き合った。
「礼を言うぞ、アイゼス。おかげで思考が整理された」
「それはよかった。また生きて会えた時は、その借りを返してもらおう」
そう言ってアイゼスは勘定を済ませて店を後にし、少し遅れてリーファも外へ出た。
二人が去った後も、店内には時折響く笑い声と、グラスが置かれる乾いた音だけが残っていた。




