天狗になっていた? ハシュの号泣
「――え……?」
ハシュはそのひと言を聞いて脳内を真っ白にしてしまい、全身を硬直させてしまった。
「……え」
その脳内を真っ白にしたものはハシュの顔色から血色を奪い、見る見るうちに顔面を蒼白へと変えていく。
やはり、四月騎士団の庁舎に入ると血の気が引くのは地場のせいだろうか。
だがハシュに、そんな揶揄を叩いている暇はない。
ハシュは色も浮かばぬ脳裏の真っ白がそのまま剥がれ落ちていくような動揺に耐えきれず、目の前をぐらりとさせてしまう。
「――し……四月騎士団団長は……」
「ええ、外出中です」
玄関ホールでハシュを出迎え、その用向きを聞いた案内係の文官は「かわいそうだけど……」と同情を浮かべながらもきっぱりと言い放つ。
この伝書鳩は昨日、はじめて皇宮への使いに来て、不遇にもこの皇宮全体を統括する四月騎士団団長に目をつけられ、無理難題を命じられて一度は意識を失った。
それを知るだけに、目の前でどんどん顔色を悪くするハシュに対して、今日も貧血を起こして倒れるのではないかと内心でハラハラしてしまうが、事実はどのように伝えても変わりはない。
「ロワ団長は昼ごろ、本日の公務のため皇宮を出立しておいでです」
「……あ……」
何度も信じられない表情でハシュは文官を見やるが、文官はハシュの望む答えを口にしてくれない。
ハシュは途端に息苦しさを覚えて、無意識だろう、奇妙に浅い呼吸をくり返しはじめてしまう。
見開いたやや暗めの橙色の瞳が絶望の色に呑まれていく。
見ていてかわいそうになってくるが、文官にはどうすることもできない。
四月騎士団の庁舎内にある玄関ホールを行き交う文官の姿は、ハシュが昨日感じたように静寂として凛として、おなじ文官である十月騎士団の日常のような光景とは一切無縁だった。
通る人影は、まばら。
背筋もスタイルも、ハシュが絶賛した「文官らしい」スマートばかり。
だが――。
昨日は不遇の伝書鳩が一羽、四月騎士団団長を高笑いさせて奇妙な人探しを命じられたとの話は隅まで届き、誰もがハシュに興味を持っている。
周囲の視線はさりげなくも疑問を含め、集まりはじめている。
――来るのは明日でいいはずなのに。
――なぜ今日、四月騎士団団長に直截会うため目通りを求めるという寿命を縮めに来たのだろう?
「あ、あの……四月騎士団団長のお戻りは……?」
しつこく食い下がるつもりはないが、ああそうですか、とあっさり納得して引き下がることはもっとできない。
ハシュは震える声で尋ねるが、目の前の文官は心底申し訳なさそうに頭を振って、
「この皇宮では確実なお約束をいただいている方以外に、皇宮内に所属するいかなる人間の行動をお伝えするのは禁じられています。遵守していただきたい」
「で、でも……」
「――きみを悪いように扱いたくないんだ。明日は会う約束をしているんだろ?」
「え……ええ……」
「だったら、明日、来なさい。そのときにちゃんと案内するから」
「……」
でも……。
目の前の文官が、まるで耳打ちするようにハシュを優しく庇うように伝えてくれているのはわかる。
でも……。
明日では駄目なのだ。
ハシュは今日のうちに明日差し出す答えのために、すこしでも距離を縮めなければならないのに。
――あ……あれ……?
何だろう、この恐ろしい勢いでハシュの脳裏を襲ってくる喪失感は?
ハシュは動揺に見開いたままの目を戻せないまま、手もとを震わせる。
「あ、あの……今日は時間があるので、この場でお待ちすることは可能でしょうか?」
ハシュの口から出るのは、やっぱり食い下がるための言葉ばかり。
迷惑をかけるつもりなどないが、口が止まらない。
だが尋ねたところで、今日のハシュは完全に部外者だ。本日、明確な約束を持っていない者をただ留めるわけにもいかないと言われてしまい、文官は心底申し訳なさそうにハシュに対して否定の頭を振る。
「……」
皇宮の御用門は通れたというのに、まさかここで門前払いを食らうとは……。
思考が完全に真っ白になって、そのまま剥がれ落ちていく。
ハシュの脳裏には夜の世界より怖い絶望が急速に広がって、ハシュから希望を奪っていく。
――な、何で……?
なぜ人の行動を先読みしたかのように、彼は……四月騎士団団長はこの庁舎にいないのだろう?
無論、彼はハシュばかりを虐めて遊んでいられるほど暇ではない。
四月騎士団の本質は皇宮諸事に関する一切を取り仕切ることだが、だからといって年中皇宮に籠っているわけでもないだろうし、団長の立場ともなれば他騎士団に出向く用だってあるだろう。
それくらいハシュにだってわかる。
むしろ――。
この場合はハシュに落ち度があるだろう。
団長というものは執務室に籠っているのが一般的で、だったら今日、訪ねれば会えるだろう。トゥブアン皇国に十二ある騎士団の頂点のひとりに対して、安易に考えてしまったハシュに短絡の非があるといえば、ある。
ハシュはようやくそこに思い至り愕然とするが、理解して納得しなければ……と自分を説得しようと必死になる。――が、うまくいくはずがない。
何だろう?
この嫌なもやもやは……。
――だって、今日は……。
朝から十二月騎士団における教免の長――学長があの七三黒縁眼鏡鬼畜に呼びつけられて、こちらに伺っている。
いまはもう昼を過ぎているので、ひょっとするとすでに訪問を終えて帰路の最中かもしれないが、それでもハシュが今日ここを訪ねてくると、学長がそれとなく四月騎士団団長に伝えておくと言ってくれていたので、手筈どおりであればハシュが来るとわかっているはずだ。
畏れ多くも学長が伝書鳩来訪の先触れとなってくれたのだ。
だから十月騎士団団長もその話を基軸にして、ハシュに与えられた最後の策に協力してくれた。
なのに、出かけているなんて……。
――わかっていて、俺……意地悪されている?
ハシュは刹那にそんな意固地を発想してしまったが、もし今日、彼に正式な公務が最初から予定されていたら、あくまで個人として訪ねてくるハシュを待つなど道理もない。
例えそうでなくても、今日来ると伝えられはしたが、明確な到着時間もわからない伝書鳩を待つことは彼には必要のない動作だ。
だいたい……。
あの七三黒縁眼鏡鬼畜が学長にハシュのことを伝えられたからといって、大人しく従うはずもない。
――だとしたら……。
――これは意地悪なんかじゃなくて、俺の早とちり……?
想像もしていなかった事態にハシュはどんどんと気焦りし、脳裏には、
『なぜ貴様は、物事をすぐに自分の都合で動こうとする?』
『情け深い私は、きちんと時限を与えたではないか?』
『今日、貴様が訪ねてくる謂れはないし、当然、私に待つ謂れもない』
『ん? 伝書鳩は日時計算もできないのか?』
まるで耳もとで直截言葉を受けているかのように、四月騎士団団長の声が聞こえてくる。ハシュは、ぞぞぞ、と全身の肌を震わせてしまう。
昨日までだったら、それは逃れようのない嫌味と恐怖、軽視に嘲笑、見下しにまみれた集合体のような言葉となってハシュに立ち直れないほどの震えを与えるだけだったろうが、いまはちがう。
言われてみれば、どこか素直に「そうかもしれない」と腑に落ちるように、すべてが正しく聞こえてしまう。
でも……。
「俺……」
こんなつもりではなかった。
今日はただ、明日の時限を目指して「クレイドル」に会えるように取り計らってほしいと、ただそれを願い出に来ただけだ。それ以外、ハシュにはもう手立てがない。
これに関して無理をしてでも会おうなんて考えてはいけないよ、と十月騎士団団長からは釘を刺されているし、「クレイドル」の立場を知ったいま、それは重々了承している。
だから――。
今日は手紙を渡してしまえば、あとは四月騎士団団長が判断するだけ。
あとはどうにでもなれ!
ハシュは今日の予定をこんなふうにどこか楽天的に考えていた。
それだけでも計画が崩れたというのに、ハシュはすでにさらなるしくじりを口にして、まさに危機に瀕していた。
「――だから今日、きみがロワ団長に直截手渡すよう十月騎士団団長からお預かりしたという手紙を、私たちが預かることはできない」
「え……」
「今日は失くさないようきちんと持ち帰って、明日、受け渡しに来なさい。私たちはきちんと出迎えるから」
「で……も」
そう伝えられてハシュは絶句するが、文官はこれを正しく理解させようと四月騎士団の文官らしく厳格な気配を露わにする。
「伝書鳩が上層部以上の相手に直截手紙を渡すために預かるということは、それだけの重みがある。無論、相手がその立場でなくても、直截、と仰せつかったものを、間接、で渡すわけにはいかないんだ」
「……」
「これは武官、文官問わずのきまりごとだ。もし解釈を誤っているのなら、いますぐ正しなさい」
「……ッ」
そう。
ハシュは最初から四月騎士団団長不在の事態を知らなかったので、出だしから言ってしまったのだ。
十月騎士団団長に言われたとおり、
――四月騎士団団長に直截手紙をお渡しするよう、仰せつかりました!
と、意気揚々に。声高らかに!
このひと言さえ言わなければ、この事態に陥ってもハシュにはまだ活路もあっただろう。
だが、悲しきは伝書鳩の習性。
先に伝家の宝刀のように口にしてしまった以上、引っ込みや修正は利かないし、そもそもハシュは伝書鳩だ。直截、の規則を自ら曲げて他者に渡すことなど絶対にできない。
大切な手紙を何通も抱えながら、何ひとつ行き場のないそれにハシュは震えながら考える。
――お、俺……。
いったい、どこで何を考え違えて、そのまま猛進してしまったのだろう?
極論から言えば、この先にある階段を上り、その先にある四月騎士団団長執務室の扉を開けて、ポン、と手紙を置いてしまえばそれで済むのに……。
それをしたら最後、ハシュは伝書鳩としてのすべてを失うことになる。
ハシュは震えながら階段の先を見上げるが、そこは午後の日差しを受けて明るいというのに、ハシュにはもう闇黒のような空間に見えてしまう。
明日……。
あらためておなじ用件で訪ねたとき、四月騎士団団長はハシュの手紙を受け取ってくれるだろうか?
そのあと「クレイドル」に会うことができなくても、ハシュに難問を与えた彼はこの顛末に満足するだろうか?
いまの状況で明日のことを考えるのは、あまりにも恐ろしすぎる。
でも、いま引き下がったら、協力してくれたバティアに何て詫びればいいんだろう?
――バティア……バティア……ッ。
ハシュは――覚悟をきめる。
「あ……あの、今日は突然のことでお騒がせして申し訳ありませんでした。俺、明日……きちんとお伺いします。今日はこれで――」
そうだ、そうだよ。
これ以上は規則に反するし、ハシュの目の前にはもう道がない。
道がなければ引くしかない。
ハシュは恥じるように全身を震わせながら頭を下げるが、
「う……っ」
何だろう、この肩透かしを食らった気分は?
いまは先んじてしまったハシュに完全な落ち度があるというのに、ここまで来るのにどれほどの温かな協力があったにもかかわらず、それをハシュ本人が台無しにしてしまうなんて!
ハシュは途端に申し訳なくなってしまい、その場から動けなくなってしまう。
一礼したままうつむき、下を向いていると目頭がどんどん熱くなってくる。
悲しくて、虚しくて、恥ずかしくて。
どこで何をまちがえて、こんなふうになってしまったのか。
発端を探したくても思考が混乱を極めて、ハシュの目からは大粒の涙が溢れて頬を伝い、あるいは直截足もとの床に滴って落ちてしまう。
「う……うう……」
何で今日にかぎってあの人がいないのだろう?
それとも最初から読みを誤解したハシュが、「ぎゃふん」と言わせてやるぞと目的意識を変えて勇み、何かをまちがえたことがこの結果なのか。
ハシュにはもうわからなくなってしまった。
「お、おい、伝書鳩くん?」
ハシュのようすがいよいよおかしくなってきた。
うつむいたハシュが震えながら涙を流していることに気がついて、文官が心配げに声をかけ、手を伸ばしたときだった。
「――……っ、わぁああ……んッ」
自分の不甲斐なさに耐えきれず、ハシュはその場で膝を崩すように座り込んでしまい、大声を上げて泣いてしまう。
「おい、伝書鳩くん!」
泣くつもりなどなかったのに、ハシュは泣いてしまった。
突然のことに、これを見守っていた周囲がぎょっとする。
――うまくいかなかったら、子どものように泣くのか。
――貴様はどこまで馬鹿なのだ?
ああ……。
どこかで四月騎士団団長にそう罵られている気もしたが、涙も声も止められない。
□ □
もしこの場でハシュを慰め、冷静に導いてくれる人物がいるとしたら、それは誰だろう?
その人は、いまのハシュの背中を優しく撫でてくれるだろうか?
それとも……。
――ハシュはいま。
誰の顔を浮かべて、その名を心中で叫んでいるのだろう?




