ハシュ、何をやらかす気だッ?
そんな会話をして厩舎を後にし、ハシュはトゥブアン皇国の建築様式特有の建物と建物をつなぐ長い回廊をいくつも渡って目的の本庁舎へと戻り、ようやく最初に頼まれていた五月騎士団の内務府から預かった書類の山を無事に上官に届けることができた。
本来であれば、この作業だけでハシュの昨日は終わったというのに……。
いったい何の因果か、ようやくここに辿り着いた。
「上官、昨日は急なお願いをして申し訳ありませんでした。あらためまして、ご用の書類を預かってまいりましたので、お受け取りください」
そう言って、ハシュは上官の机に軍馬の栗毛色が運んだ書類のすべてを封筒ごと積む。
ハシュは器用に積めたぞと思う。
それでなくても周囲の上官たちの机には目を通さなければならない書類がいくつも積まれていて、ちょっとした山脈のようにもなっている。机によってはもはや山塊と言ってもいいだろうか。
その書類たちはつぎからつぎへと上官たちの手もとを渡り歩いて、確認済みの判子が捺されて、内容を精査され、それでようやく「決断の長」である十月騎士団団長の手元まで届くか、あるいはそれに近しい上層部の机に振り分けられて、ようやく最後の判を捺されて、返答を待つ各騎士団に振り分けられ、それをくり返していく運命を辿ることになる。
その受け渡しを役目とするのが、ハシュたち伝達係の伝書鳩――。
このように文官があつかう書類の流れとは終わりがなく、絶えずくり返すので、ほんとうに確認と時間がかかるのだ。
それ以外の事柄は、この十月騎士団にはない。
だいたいどこの部署も目に映るのは、書類、書類、書類。
あと、これらを捌ききらなければならない、悲愴に暮れる上官たちの顔だろうか。
――やっぱり文官って、こういう感じだよなぁ。
などと、ハシュは思う。
「そうだ、上官……」
ハシュは思い出したように背負っていた鞄を下ろして、十二月騎士団で寮母を務める女性たちや食堂で給仕を務める女性たちからもらったたくさんの菓子のひとつを取り出し、上官に差し出す。
選んだのは片手に乗る大きさだが、ぎっしりと包み紙にまとめられていたクッキーだった。
「昨日はポレットの差し入れ、ありがとうございました。これ、お礼です」
「何だ、ハシュ。気を遣わなくてもいいんだぞ」
「いただいたポレット、とっても美味しかったです」
きっと上官の奥さんが作ったのだろうあのポレットは、最終的に出会った実兄に全部食べられてしまったが、それでもハシュ好みの美味だった。
それもきちんと伝えると、上官は包まれたクッキーを見て微笑ましく口もとを綻ばせたが、すぐに話を変えようと咳払いをひとつしてくる。
「――それにしても、ハシュ。昨日言っていた、四月騎士団団長がどうのこうのだが……」
昨日は誰かが頼んだ「ついで」の件でハシュが皇宮内の四月騎士団の庁舎に向かったのはいいが、どういう経緯があったのか、普通であれば直截団長への目通りなどあり得ないのだが、ハシュはどういうわけか目通りしてしまい、しかも何やら時限式の用件を頼まれたというではないか。
本来であれば、昨日のうちにきちんと問い質しておくべき最重要案件だったのだが、当のハシュが相当なパニックを起こしていて、あっという間に十月騎士団を飛び出してそれどころではなかった。
これが上官たちの上官、さらにはその上官にまで知れ渡り、昨日のうちに詳細確認が取れなかったことについて落雷を受ける羽目になり……。
「十月騎士団は四月騎士団と揉め事を起こすつもりはない。だからハシュ、昨日は何があったのか、きちんと教えなさい」
じつのところ――。
今日、上官たちのほとんどが帰庁してくるハシュを掴まえようと機会をうかがっていたのだ。
最悪な場合は、網でも縄でも用意して。
気分はもう、珍獣を捕獲するそれに似ていたが、とにかくいまはハシュを掴まえて、四月騎士団団長とどんなやりとりをし、何を頼まれたのかを詳細に聞いて把握しておかないと、
『お前たちは、自分で駆っている伝書鳩の行動詳細も知らないのか?』
『伝書鳩は国の大事を預かる大切な下僕だというのに、嘆かわしい』
『それと何か? 十月騎士団は伝書鳩の正しい飼育の仕方も忘れたというのか? おお、それは由々しき』
『ならば、私が直截貴様らに飼育とは何か、叩きこむ必要があるな』
『――ん? 何だ、その目は? 何か不服か?』
事態によっては、このように乗り込んでくる危険があるのかもしれない。
これはあまりにも不謹慎な揶揄になるが、敵国の大軍船団に遭遇する恐怖に匹敵する。
それを避けるために直截の上官が覚悟をきめて質そうとしたのだが、そのハシュが完全な問題児と化していた。
「その件でしたら、ご安心を!」
いったい何を安心しろと、勝手に太鼓判を捺してくるのか。
ハシュが何やら嬉々として、両手に拳を握ってくる。
そして何を思ったのか、声が奇妙すぎるほどはつらつしていて、上官の予想を完全に凌駕してきた。
「俺、絶対にぎゃふんと言わせてみせますから!」
「はぁッ?」
刹那、上官は素っ頓狂な声を上げてしまった。
せっかくもらったクッキーも、手のひらから足もとへと落としてしまう。
昨日は半べそを掻いて、とにかくパニックになって手のつけようもなかったというのに!
――いったい、誰に「ぎゃふん」と言わせるつもりなのだッ?
上官が刹那に青ざめると、周囲の上官たちもあまりのことに動揺して席を立ってしまう。
「ハシュ! 気は確かかッ? 畏れ多くも四月騎士団団長――ロワ団長に対して何の不敬を言っているのか、自分でわかっているのかッ?」
あわてて問うてくるが、ハシュだってもう負けっぱなしではいられない。
あれは畏れ多いのではない。
ただの、非道、独尊、不遜、不敬の、七三黒縁眼鏡鬼畜なのだから!
上官の過度な怯えに対してハシュも確かに同種を抱いていたが、それは昨日までのこと。
ハシュにはもう、そんな恐怖はなかった。
あるのは奇妙な闘争心――。
「自分が何をするのか? わかっています。だって俺にはもう、この策しかないんです!」
「さ、策って……」
この子はいったい、何をしでかそうというのだろう?
上官は言葉を失い、口をパクパクさせてしまう。
するとハシュがどの時点で用意したのか、一枚の用紙を上官の前に出してくる。
「十月騎士団団長への面会申請書……?」
いまの話と、この用紙。
いったい何の関係があるというのか?
今度は上官のほうが半分混乱に陥って眉根を寄せていると、ハシュが懇願するように迫ってくる。
「上官、お願いします。俺、どうしても今日のうちに団長と会わなければならないんです。――許可の判子、捺してください」
「な、なぜそこに、うちの団長が絡むのだ?」
「可能かどうかはわかりませんが、とりあえずロワ団長を叱ってくださいとお願いするんです」
「――な、ななななッ、何を言っているんだ!」
上官もついに耐えきれず、席から立ち上がってしまう。
一瞬足もとがふらついたのは、あまりの状況に卒倒しかけたのかもしれない。
あのハシュがこんなにも強気に出てくるなんて……。
いつもであれば不満をあからさまに表情に出して「むぅ」と頬を膨らませて大人しく引き下がる、まだ子どもの気分も抜けない可愛らしいところもあったというのに、たったひと晩でこうも態度を変えてくるとは!
――これが成長なのかッ?
――それとも反抗期に入ったのかッ?
上官は周囲と顔を見合わせながら、ハシュの捕獲もやむを得ないと判断し、無言でうなずき合う。
「ハシュ! お前は職務に疲れていて、何かに憑かれているんだな! 今日は非番なんだから、いい子にして大人しくしていなさい!」
「駄目ですッ、今日のうちに布石を打たないと、明日じゃ間に合わないんです!」
「布石ッ? 何をやらかすつもりだ!」
「大丈夫です! しくじらないように、十二月騎士団団長と学長が俺に秘策を与えてくれたんです!」
「ハシュ!」
これには周囲もぎょっとして、いよいよ捕獲に向けて身を乗り出そうとしてくる。
――どうして、つぎからつぎへと国の重鎮たちの名が出てくるのだッ?
もしハシュが不始末を犯したら、誰が誰に土下座をすれば事態が鎮圧するのだろうか。
これはもう上層部まで直接連行して、そこであらためて問い質すしか他がない!
覚悟をきめた上官が数人がかりでハシュに詰め寄ってくるが、ハシュも怯まなかった。ほんとうに昨日までの自分とは別人のように、奇妙なところで度胸がついてしまったのかもしれない。
ハシュはキッと表情を露わにして、
「じゃあ、言いますけど! 俺、ロワ団長からクレイドルさんを連れてこいって仰せつかっているんです! でも、上層の許可が下りないと会えないから、うちの団長に助けてもらうんです!」
「ク、クレイドルッ?」
「誰だ、そいつは?」
「もうッ、クレイドルさんは二月騎士団団長ですよ! そんなことも知らないんですかッ」
ハシュだって昨夜までは知らなかったのだから、ここで得意げに叫んだって偉くもないが、
「もし、上官たちがクレイドルさんに会うのを邪魔するのなら、上官たちのなかでクレイドルの名前を持つ方をかわりにロワ団長に差し出しますからね!」
「――ッ!」
「わざとちがう人を差し出したら、叱られるのは上官たちですよ! いいんですか!」
「ハシュ!」
ハシュがはじめて口にする脅迫は、想像以上の効果があった。
ここから先は無言のまま、ハシュが差し出した用紙につぎからつぎへと判子が捺されていく。
普通であれば最短でも二時間はかかる面会申請書に必要な判子集めは、この一瞬ですべてが揃ってしまった。
あまりの呆気なさに、今度はハシュのほうが面喰ってしまう。
さすがは文官。
――我が身を護る的確な判断に、躊躇いもなく判子を捺すとは……。
自分もこのまま十月騎士団で文官をつづけていたら、いずれこんな上官と成り果ててしまうのだろうか?
それは嫌だなぁ、とハシュは冷静に思うのだった。




