ハシュ、行ってらっしゃい!
ふたりのスタートが切られる前。
馬場はけっして彼らの集中力を妨げてはならないと誰もが本能で感じ取り、息を吞むように、あるいはけっして声を出さないように自身の手で口を塞ぎながらその瞬間を待っていた。
そして、スタートの合図が振られた瞬間。
ハシュとバティアの騎馬が同時に飛び出したと思った瞬間にはもう、ハシュが四馬身の差をゆうにつけて独走状態に入っている!
――誰もまばたきなどしていないのに、いったいハシュはどのように?
バティアもけっして遅れを取ったわけではないのに、その差はもう追いつける見込みがあるのかと見ているほうがあきらめてしまう。
それでもバティアの白斑は必死にハシュの栗毛色に追いつこうとするが、ハシュの覇気がそれを許さない。
栗毛色の脚に魔力のような威力を与え、前へ、前へと疾走していく。
――武芸に優れた十二月騎士団団長が、ああも容易く差をつけられるなんて!
――いや、ハシュ先輩が早すぎるのだ!
馬場は極度の静寂から一変し、誰もがはじめて心の底から身を震わせる興奮に肌を粟立たせ、「わぁああああ!」と声援を上げてしまう。
「くそッ、バティアじゃ無理か!」
「バティア!」
競走馬の脚に比べれば軍馬の全力疾走も劣るが、それでもハシュの栗毛色は劣らぬ速度で外周をあっという間に半周し、内周にいた教官らの目の前を一瞬で横切っていく。
ハシュの独走はこれ以上ない気迫があった。
表情も感情も多彩で、まだ子どもっぽいところもあるのに、これがあのハシュかと疑うほどに勇ましく、もう五馬身も引き離している。
だが、バティアにだって底意地を出してほしい。
二馬身とは言わないが、せめて三馬身近くまで詰め寄ってほしい。
教官らはバティアに檄を飛ばす。
――これがハシュ先輩……ッ。
馬術の教官が日ごろから名を口にしていたが、まさか、こんなにもすごい方だったなんて!
「ハシュ先輩ッ!」
「先輩ッ、がんばれ!」
声援を送れば送るほど、ハシュの速度は奇術のように上がる。
本来、馬場の外周を全力疾走するには、それにもっとも適した競走馬が望ましい。競走馬はそれだけの脚力を持っている。
つぎに脚力を持つのが軍馬だが、どちらかと言えば軍馬は耐久と持久力が特徴で、鎧甲冑を纏った武官騎士や武器、その他装備を背負い、距離に速度にと酷使させられても耐えきるので、こういった全力疾走の維持はじつは難しい。
それでもハシュの栗毛色はものともせず、ハシュが望む速度に応えている。
もしかしたら――。
その速さは、バティアが競走馬に乗って全力疾走しても負けはしないだろう。
「あれが十月騎士団の伝達係――伝書鳩だ」
役目はただひとつ。
――どのような条件でも、確実に走る。
それができるからこそ、伝書鳩は国事、国政、軍事のすべてに権限を持つ「決断の長」十月騎士団団長のために書類の受け渡しを担うことができるのだ。
ハシュはそれを「体のいい小間使いだ」と嘆いているが、まったく、どうしてそう考えるのだろう?
伝書鳩本来の動きを正しく目の前で披露するハシュの馬術に、見惚れぬ者はいない。
誰もが敬意を敬慕に変えて、興奮と感動で瞳を爆発させそうな勢いでかがやかせながら声援を送る。
――誰もがハシュしか見ていない。
これは当然のこと。
それほどまでにハシュは素敵で魅力があるのだから。
バティアはそれを覚悟で走っている。
自分はけっして引き立て役になったつもりはないが、ハシュの素晴らしさがこの場全員に伝わるのであれば……と思い、それでも歯を食いしばって距離を縮めようと必死に追走する。
だが、どうしても四馬身から先に近づけない。
バティアも凄まじい気迫で前を見やるが、ハシュの背中が遠すぎる。
――こんなことでは、ハシュに……。
そう思ったときだった。
「団長ッ、負けるなぁッ」
「バティア団長、行けぇッ!」
そうだよ、団長が負けるはずがない!
ハシュが独占していた声援がついに二分する。
「バティア団長!」
「バティア先輩ッ!」
白熱した声援がついに自分にも向けられた。
こんな状況で、自分を見てくれる後輩たちがいるなんて!
その瞬間、バティアの表情が泣きたいくらいの嬉しさに溢れた。
□ □
――ほんとうは……。
――ほんとうに剣技の武官に憧れて、剣技の騎士になりたかった。
けれどもハシュの同期は「化け物揃い」と後に謳われる才能が集まってしまい、ハシュの憧れは日の目を見る機会を失った。
どんなに鍛錬をつづけても追いかける同期たちの背中はあまりにも遠く、手を伸ばしても指の先さえ届かない。
それがどれだけ悔しくて、泣いたことか。
――でも……。
思わぬところで馬術の才能が開花するなり、ハシュの目の前にはいつしか誰の背も映らなくなった。ふり返ると、多くの同期たちが必死になって自分に追いつこうと騎馬を走らせている。
ハシュはこの事実を有頂天に捉えることはなかったが、
――ああ……。
――この瞬間だけは、俺も「騎士」だ。
剣技の武官には蕾が固すぎて開花するのに時間もかかるだろうけど、馬術……騎馬の手綱を握っている間はハシュも騎士だ。
憧れの武官騎士――。
これだけが手に届く理想の騎士のひとつと言うのであれば、ここから先はもう誰の背も見るものか! 誰も近づけさせるものか!
――この瞬間だけは。
独走をつづけている間だけは、ハシュが夢見ていた「騎士」の世界そのものなのだから!
これだけは自分で手に入れたのだ。
――誰にも渡すものかッ!
ハシュは気迫を爆発させる。
「はぁッ!」
俺に近づくことは絶対に許さない!
そんな鬼気で咆哮し、ハシュはまだ加速できるのかという勢いを栗毛色に与えて威力というものを知らしめる。
このハシュに誰が近づけよう?
これ以上の追走はハシュの邪魔になってしまう。
バティアはついに失速を決意する。
――ああ、ハシュ……。
最後の直線が終わり、外周の曲線を走ったら、最後は正門を目指して馬場を離れるハシュは振り返ることなく駆け抜けていくだろう。
勝負は見事に完敗だが、悔しいどころか、誰もが見惚れるハシュの独走をずっと追うことができた。こんなにも素晴らしい時間が他にあるだろうか?
それに……。
この距離を縮めないかぎり、バティアはとてもではないがハシュに秘めた想いを告げることもできない。そうと決めたバティアにとって、昨夜の卑怯を戒めるためにもこの現実は必要だった。
バティアは知らず、自身を嘲笑する。
――ハシュ……。
バティアはこれまで全力を投じてくれた白斑の脚の負担にならないよう、失速の走りをしながらハシュの背を見送る。
「ハシュ! 行ってらっしゃい!」
聞こえるかどうかわからない。
だが、こうやっていちばん素敵な姿の親友を見送ることができるのは、ほんとうに幸せなことだった。
まだ午前の日差しを受けて、バティアの金髪が心地よくかがやく。
バティアが声を上げて大きく手を振りながら見送ると、周囲も大歓声と感謝を向ける。
「ハシュ先輩! ありがとうございました!」
「お気をつけて!」
「ハシュ先輩ッ、行ってらっしゃい!」
わぁああああ、とひびく大歓喜は昨夜ハシュが受けたそれよりも大きくて、ハシュの真骨頂を見ることができた感動と興奮で馬場は一層盛り上がった。
――この時間、わずか二分に届くかどうか。
誰もが待ち遠しかった瞬間は、口惜しいほどあっという間に終わってしまった。
つぎにお会いできるのはいつだろう?
――ハシュは予定どおり馬場を一気に駆け抜け、正門へと向かう。
そこでも後輩や教官、教師陣が集まっていて、誰もが笑顔と敬意、敬慕を向けて大きく手を振ってくる。
「ハシュ、行ってこい!」
力強く温かな声援に感謝して、ハシュは正門を抜ける瞬間、片手だけをかるく上げて彼らの声に応えるのだった。
□ □
ハシュはこの日、まさに英雄の出立と刻まれるような全力疾走を披露した。
そして向かうは伝書鳩の巣――十月騎士団。
まずは帰庁して、当初の職務である五月騎士団の内務府から預かった書類を上官の手もとにまで無事に届けること。
――そして……。




