ええッ? ハシュ先輩が走るんですか!
それまで何も知らない新入生――下級生たちは、速さを競う馬術の授業で外周を全力疾走できるほどの大きな馬場の内周にいて、朝から剣技の鍛錬に励んでいた。
通常であれば剣技の鍛錬に適した訓練場があって、一クラス四十人規模の人数で集中して模擬用の木剣を振っているのだが、今日にかぎって下級生は全クラスが馬場の内周に集合して、かなりの大所帯で授業を行っている。
馬場の外周は全長一五〇〇メートル近くもあるので、その内周も相当の広さを有している。そのため狭さは感じられない。
下級生たちは少年兵の軍装である上着は着用せず、普段は中に着ているシャツ姿に腕まくりをしながら熱心に木剣を振っていた。
誰の額にもきらきらとした汗が浮かんでいる。
――季節はまだ秋はじめ。
上空は朝から快晴。雲ひとつない青。
吹く風は穏やかだったが、すぐに汗ばむ身体には心地よく、かえって気分も冴えて集中できるので、誰も彼もが真剣な表情を崩していない。
その十二月騎士団の敷地の周囲に広がるのは、広大な森林ばかり。
葉はまだ濃緑が多いが、いつの間にか見事なくらいに黄葉に染まる。
だが夢見る武官、理想の騎士を目指す下級生たちに情緒はない。
誰もがわき目も振らずに木剣の素振りをくり返している。
そんなときだった――。
校舎に近い方角から数頭の騎馬が外周を全力で駆けてくる。
これには何事かと思い、下級生たち少年兵の手は思わず止まり、それを指導する剣技の教官までも「素振り停止!」と声を上げて、向かってくる騎馬に注視する。
騎馬には馬術の教官らが騎乗している。
――確か、ハシュのスタートの合図は空砲だったはず……。
剣技の教官たちは怪訝に思うが、馬術の教官らはとにかく興奮を浮かべて、
「これからハシュが走る!」
と、予定どおりの内容を伝えてくるが、
「あと、バティアがそれに勝負を挑んだ。一騎打ちがはじまるぞ!」
「は?」
「そんな予定あったか?」
「知るか! とにかく内容変更だ! さっさと見学の準備にかかれ!」
そんな声を荒々しく上げながら、馬術の教官たちはとにかく叫んで予定変更を伝え、ふたりがスタートの準備をはじめたことを知らせる。
今朝、馬術を教授する教官たちがバティアに「ハシュを一周だけでいいから走らせてほしい」と懇願し、それにバティアが渋り、何やら言い合いになっていた。気になって剣技の教官たちが尋ねると、これほど面白そうなことはない。
ハシュが走るのであれば、自分たちだって見ていたい。
そして、少年兵にもその走りを実際に見てほしい。
だから教官や教師陣は共同戦線を張ってバティアに頼み込み、ハシュならうなずいてくれるだろうと予測して、それを眼前できるこの馬場の内周で剣技の授業を行い、じつは「いまか、いまか」と内心高揚しながらそのときを待っていたのだった。
――そこにバティアが身を乗り出した!
どういう風の吹き回しだと思ったが、この際、経緯はどうでもよかった。
機を逃したらもう拝む機会もないだろう。――こうしてはいられない!
「よし! 全体、素振り終了!」
「これより休憩に入るが、絶えず馬場の外周に注目していろ! これからハシュが走るぞ!」
ただ、ここにいてはスタートのタイミングがわからない。
剣技の教官たちもあわてて声を上げ、少年兵たちに馬場の外周に注目しろと叫んでいく。
だが――。
ハシュが走るって……?
突然言われても、少年兵たちにはよくわからない。
「ハシュって……」
「教官、ハシュって昨夜の先輩文官のお名前ですよね?」
少年兵たちはそれぞれ近場にいる教官に問い、そうだ、と即答を受ける。
「彼は十月騎士団の文官。職務のため、もう帰らなければならないが、最後にこの馬場の外周を一周疾走してくれるそうだ」
「あの噂のハシュだぞ。競馬は望んで拝めるものじゃない!」
「外周は広いが、ハシュはとにかく早い」
「いまのうちに水分を取って、確実に見られる位置に散らばっていいから、しっかり目を開けて待機しろ!」
そんなふうに教官自ら興奮めいて指示を出してくるものだから、少年兵たちも一斉に「わぁ!」と声を上げて、高揚が感染したかのように舞い上がってしまう。
――ハシュ。
その名前は馬術の授業があるたびに教官らに聞かされているので、もう誰の耳にも馴染んでいる。
自分たちとおなじ年ごろからはじめて馬術を習った、初心者。
なのに、わずか二年の修練で騎馬隊の八月騎士団から入団を熱望されるほど才覚を思いきり開花させた、伝説の先輩。
――なぜ、文官の十月騎士団に入団されたのかはわからないけど。
その先輩が昨日、十二月騎士団を来訪……いや、凱旋するというので、我らの十二月騎士団団長が上級生で結成した「ランタン騎馬隊」を率いて自ら出迎えに行き、護衛を果たした。
こちらも負けずに盛大な歓声で出迎えたが、その規模は熱烈すぎて、ハシュ先輩のお姿を近くで見ることは適わなかった。
見た者から聞くと、とても優しげで柔らかくて、即席で馬術を教授できるほどカッコいいのに、左目もとのほくろが印象的でどこか可愛らしいというではないか。
「ああ! そんな素敵な先輩が走ってくださるなんて!」
「教官、ハシュ先輩はこちらの方向から来るのですか?」
少年兵たちも興奮を露わに、ハシュ先輩の勇姿を見るのだと意気込み、一斉に外周をめがけて駆け出していく。
――まさか、こんなふうに自分が誇張されているなんて……ッ。
可愛い後輩たちのあまりの理想像に、ハシュは知ったらもう卒倒するしかないだろう。
――護衛だなんて、大げさな!
――ほんとうに誰だよッ、俺のことを大げさに言っているのは!
――もうッ、憤死するからやめてよねッ!
まさか夜の世界を好めないことを知っている彼らに心配されて、大規模なお迎え行列を作らせてしまった……。
これが事の顛末だというのに、ハシュの来訪はすでに英雄の凱旋そのままの印象で語られはじめている。
これはまずい。非常にまずい!
――この噂、どうしたら消すことができるのか?
よし!
この熱狂ぶりの印象、見事静めてくれたら外周を走ってやろう。
彼らの興奮を知っていたら、ハシュはまちがいなくこれを取引材料に使っていただろう。
そんなハシュの心情など知らず、少年兵たちは純粋な敬意と敬慕を爆発させながら、ハシュの騎馬が疾走する外周に目を向け、そのときを待つのだった。




