これはおもしろくなってきた
ハシュとバティア。
ふたりの間で交わされた馬場一周での競馬一騎打ちは、すぐさま周囲の教官や教師陣の耳に届き、驚嘆を誘った。
「おい、とんだ予定変更になったぞ!」
「は?」
「くそッ、馬場の内周で剣技の授業をしているやつらに伝令だ! バティアが参戦するぞ!」
「こうなったら上級生も呼んで来い!」
「いや、十二月騎士団に居る奴らを全員かき集めろ! 寮母たち家政従事者も全員だ!」
「おい、ハシュ! 俺が戻ってくるまで勝手にスタートするんじゃないぞ!」
「は……?」
彼らの表情はすでに止めようのない興奮でいっぱいだった。
教官や教師陣がどんな段取りをすでに組んでいたのかは知らないが、急な予定変更を伝えるために蜂の巣を突いたように走っていく。
ハシュは、途端にやんちゃな大人然ではしゃぐ教免たちに唖然とするしかない。
――へ……?
ハシュはただ、帰り際に馬場一周を全力疾走するだけでよかったはず。
そこにたまたまバティアが参戦するかたちになっただけなのに、まるで何かの祭りがはじまったかのように、異様な興奮を広げていく。
「せ、先生……?」
――どうしよう……。
――俺もバティアも真剣勝負で走るつもりなのに。
外野がこんなに盛り上がっては、うまく集中できないではないか!
自分はともかく、バティアは……。
そう思ってハシュは厩舎の外ですでに準備を終えているバティアをちらりと見やるが、こちらを見返すバティアの碧眼はいつものような柔和を浮かべていない。
すでにバティアは集中をはじめているし、勝負を挑んだ本人として、大衆目のなかで打ち負かされる覚悟をきめたように周囲の盛り上がりを鎮めようとする気配も出していない。
そのせいで、ハシュのほうがかえってあわててしまう。
「あの、これは大事にしないでください。その……みんなには見世物……かもしれませんけど」
「わかってる、わかってる」
「……」
――うん、先生。絶対にわかっていないぞ。
ハシュのお願いに教官たちはかるく手を上げて応えるが、その浮足立ちがどうも信じられない。
確かに最初は余興の延長でハシュが走るだけだったかもしれない。
ハシュもそのつもりだった。
でも、状況は一変した。
――バティアとの一騎打ち。
確かにこんな機会はもうないかもしれない。
ハシュは何度か呼吸をくり返して、ようやく状況を真剣に捉えはじめた。
意識を集中させようと、自身の瞳にも真剣な光を宿しはじめる。
そう。
俺は……。
「この一周、全力を投じます。だから――」
バティアに真剣勝負を挑まれたのだ。
ハシュの走りはもう、――周囲を賑わせる道楽ではない。
ハシュがまっすぐな目を向けて決意すると、周囲もそれだけ本気になって真剣勝負をするのだなとふたりの向き合う姿勢を理解して、表情をあらためて敬意をもってうなずいてくれる。
「――悪かった。年甲斐もなくはしゃいで」
「いえ」
「でも、俺たちはほんとうに嬉しくて仕方ないんだ。教え子の真剣勝負を眼前で見られるんだからな」
「先生……」
「育てた甲斐、とことん拝ませてもらうぞ」
「……はい」
ハシュとバティアの競馬勝負。
いや――。
真剣に競馬に挑むハシュの姿。
これはほんとうに見るべきと言い張るに値する。
とくにハシュの実際の走りを見たことがない新入生は、これを機に馬術に対する意識が一変するだろう。
ハシュが武官ならいざ知らず、
――文官の十月騎士団の伝書鳩の走りを見て、そう思わせる。
これは異例中の異例だし、以降は伝説となって十二月騎士団で長く語り継がれるにちがいない。
教官らはそれを確信する。
ただ――。
そうと知ってハシュに挑むバティアの心情には、やや理解し難い。
ふたりの少年兵時代の馬術成績は、教授した教官や教師陣がよく知っている。
言いたくはないが、この勝負、スタートした瞬間にはすでにハシュの独走状態で終わるだろう。バティアが何馬身か詰め寄るかもしれないが、その走りも追走と言うべきかどうか……。
――バティアのやつ、何でまた急に?
教官らもちらりとバティアを見やったが、何より本人が自覚している、その表情のままハシュを見やっている姿に、教官らはいま浮かべたバティアに対する評価を心中で謝罪する。
「ほんとうなら、軍馬ではなく競走馬で全力疾走を投じてもらいたいところだけど」
バティア側につく特徴的な鼻髭の教官が、自身の愛馬である軍馬の白斑の手綱を渡す。バティアは受け取りながら、
「ハシュは忙しい身ですので、馬場を一周したらそのまま正門から出立します。――騎馬には負担のある走りをさせますが、ハシュがそれでいいと言いましたので」
「……そうだね。伝書鳩はその装備で日々奔走しているからね」
――ハシュ……。
バティアには個人で賜った競走馬の若き白馬がいるが、白馬はまだ本格的な走りを鍛錬していないし、公平性を期すため、ハシュの騎馬が装備する書類の重量と鞄の同量を背負わせるにしても、これは競走馬には向かず、本体に多大な負担を与えてしまう。
なので、バティアは経験と耐久がある教官の軍馬を借りることになった。
こちらには書類と同量の書籍が急きょ詰め込まれている。
それでも日ごろから装備と重みに慣れて疾走しているハシュの栗毛色に対し、公平かどうか……。
教官は思ったが、ハシュもバティアも似たようなところがあるので、こうときめてしまうと頑なに動かないところがあるのだ。
ほんとうに似た者同士の親友だな、と心中で苦笑を浮かべ、
「ところで、ハシュ。その背負ってくるのは何だい?」
速度が命の競馬で、ただでさえ不利な書類を鞄に詰め込んで背負わせているのに、その騎手も負けず劣らず奇妙に膨らんだ鞄を背負っているとは。
何事にもスマートな性格の教官としては見栄えに呆れるが、これにはハシュ側についた教官が笑いながら答えた。
「あれはハシュがもらった真心だとよ」
「は――?」




