バティアからの伝言
《――ハシュ、おはよう。いまはすっきりとした目覚めのなかにいる?》
ハシュがバティアの幾分流麗な字体で書かれたメモを見つけたのは、ベッドのすぐ脇にあるチェストの上をちらりと見たときだった。
メモと言っても、丁寧に書かれている紙はほとんど上質な便せんだ。
ハシュはすぐさまそれを手に取り、
《昨日、寮母さんに洗ってもらったハシュの軍装はちゃんと乾いているから、靴下、下着もまとめて寝室のクローゼットに掛けてあるから着用してね。
洗面は浴室にあるものを自由に使っていいから》
「――へ? 俺の軍装、洗ってもらったんだ」
いつの間にそのようなことになっていたのだろう?
ハシュは首をかしげるが、バティアとそのような会話をした記憶がない。
おまけに、この文面からして丁寧に用意してもらったハシュの軍装はクローゼットあるようだが、受け取ったバティアがそれをしまってくれたのだとしても、クローゼットはこの寝室のベッドの真向かい。
ハシュはそんな気配など全然気づかず、ぐぅぐぅ、と寝ていたことになる。
――うう……。
これは恥ずかしいやら、情けないやら。
この時点でかるく声をかけて起こしてくれたっていいのに……。
記されたとおりにクローゼットを開けると、見るだけでわかるほどに見事な手入れをされた軍装がハシュの着用を心待ちにしていた。
傍には靴下も下着もちゃんとたたまれたものが置かれていて、昨夜は会うことができなかった寮母たちからの温かなメッセージカードがいくつも添えられている。
少年兵時代の二年間、彼女たちにしっかりとお世話してもらったので、親戚の小母たちから大切なものをいただいた気分になって、ハシュはそのカードを胸に抱く。
「そうだ、このカードと一緒にバティアからのメモも記念に持ち帰ろう」
バティアはいつもとなりにいたので、用があるときはすべて会話だった。
なので、こんなふうにメモを通じて会話するのが酷く新鮮に感じられて、ハシュの胸は温かくくすぐられる。
《身支度を整えたら、居間に来て。
ソファ前のローテーブルの上に、つぎに伝えることを用意してあるから。
氷で冷やしたレモン水も用意してあるから、よかったら飲んで》
「わかったよ、すぐに身支度するから」
ハシュはメモのなかのバティアに答えて、洗面をするために浴室に向かう。
そうやって顔を洗っている最中にやっぱりズボンと下着がずり落ちてしまったので、ハシュは顔を濡らしたまま、「もうッ」と声を上げるのだった。
メモがあるということは、バティアはすでにこの団長私室にはいないということだろう。
ならば!
ハシュは思いきって、その場でズボンと下着どころか上着まで全部脱ぎ捨てて、完全に一糸まとわぬ姿となる。その姿を鏡で見て、ハシュは自分を冷ややかに見やったが、鏡のなかのハシュが「べぇ」とこちらに向かって舌を出してくるのでそれをねめつけて、一応こっそりと寝室に戻り、クローゼットに掛けられている軍装を素早く着る。
何度見ても飾り気のない、ただの文官が着用する軍装でしかないが、十月騎士団の伝達係――伝書鳩の証である肩章を付けるとほんのすこしだけ格好よく見える……か、どうかはともかく、ずいぶんと板についてきたなぁ、と思える姿が鏡に映る。
――似合うというか、しっくりくるというか。
また、日々右往左往の奔走がはじまるのかと思うと、バティアが引き連れて迎えに来てくれたランタン騎馬隊や、バティアと過ごしたこの部屋でのことが――と言っても、ほとんど覚えていませんが――とてつもない宝物のように感じられてならない。
しっくりと言えば、やっぱりいつも穿いている下着や軍装のスラックスはきちんとハシュの体型に合って、脱げる心配がないのがいい。
そこでようやくほっとして、ハシュはどうでもいいことを思い浮かべてしまう。
「そうだ! このスラックス――バティアに穿かせたらどうなんだろう?」
ハシュが着ていたパジャマは、状況的にバティアの私物を着せてもらったのだろう。
バティアとはそんなに身長も体型も差がないはずなのに、思えばパジャマの上着もすこし大きく感じられた。
バティアのほうが数ヵ月年上だから、青年期にかけての追い込みがハシュより早いのかもしれない。だとしたら、ハシュももうすこし背が高くなったり、痩せてきたと思われないていどに体つきも安定してくるだろうか?
そんな期待を胸にハシュは身支度を整える。
無論、脱いだパジャマや下着はきちんとたたんだ。
そしてメモのとおりに居間につづく扉を開けると、こちらはすでに完全にカーテンが開けられていて、何もかもがまぶしい朝の光をたっぷりと受けている最中だった。
たぶん、ハシュが来るのを見越してバティアが開けておいたのだろう。
ハシュはもう一度窓辺に寄って窓の外を見やる。
外はすでに快晴だった。
気持ちよさそうな青空が広がっている。
ローテーブルの上にはハシュのために用意されたレモン水があって、それは瓶に入っていて、きちんと氷が詰められているボトルクーラーに収まっていた。
氷はまだ解けた印象はないが、ボトルクーラーの外側には幾分か水滴が浮かんでいる。取り出すレモン水の瓶はほどよい冷えを保っている。
「う~~ん……!」
朝飲むレモン水は、やや酸味が効いている。
ハシュは身震いしながらグラス一杯分だけを飲み干し、つぎに記されているメモを見る。
その傍らには昨夜、バティアが学長と一緒になってあの七三黒縁眼鏡鬼畜――ああ、朝から何であの人のことを思い出さなければならないんだろう! もう!――に対する策を練ってくれた手紙、その封筒がきちんと用意されており、
《忘れないでね》
と、添えられている。
ハシュは思わず笑ってしまった。
確かにこの封筒を忘れてしまったら、これまでの苦労も水の泡。目も当てられない!
その手紙を今日、届けるのかと思うと、ハシュは伝書鳩の本能で緊張を覚える。
最初に届ける先は、ハシュにとっては最高位上官となる十月騎士団団長――本人。彼がこの手紙を受け取った瞬間から、ハシュの局面は大きく変わってしまう。
果たして功を成すのか、それとも……。
ハシュは不安を覚えるが、それはここまで協力してくれたバティアの努力を不安に思うことにつながる。
せっかく自分のために導きの光を与えてくれたバティアに、そんな失礼な感情は浮かべたくない。
頭を振ると、昨日、実兄からもらったタリアルのカードがきちんと封筒に添えられているのを目にする。
意味を持つ絵柄は、導きの光を持った少年。――ハシュはそれはバティアそのものだと思い、お守りとして持とうときめている。
――このカードのことは、バティアに話せたっけ……?
ハシュは思い出そうとするが、昨日はとことん疲労に参ってしまって知らずのうちに寝てしまったようで、ほんとうによく思い出せない。
それを残念に思いながら、ハシュはきちんと封筒を軍装の内ポケットにしまう。
これでいよいよバティアのメモも終わるのかと思えたが、
《食堂で食事をすませたら、そのまま出立できるように準備を整えて団長公室へ来てほしい。
ハシュが来るのを待っているから……》
そう記されているメモがあって、文章の最後にバティアがこれを記入した時間が添えられているのを見てハシュは青ざめた。
「う、嘘ッ!」
ハシュはあわてて時計を探し、壁にかけられているそれを目にして、いま針が指している数字を見て思わず声を上げてしまった。
バティアが自分のために用意をすませてくれた時間から、ゆうに一時間は経っているではないか!
「もうッ、バティアの馬鹿ッ! こういうときは起こしてくれたっていいのに!」
昨夜は自分だけが疲労に参っていたわけではない。
バティアだって、上級生となる後輩だって、教官や教師陣。自分を温かく出迎えてくれた新入生、それらを支えてくれた寮母や食堂の給仕係、多くの在籍者のために腕を振るった料理を提供してくれた料理人。困った難問に巻き込まれたけれど、ハシュの新人文官としての成長を喜んでくれた学長。
多くの者が疲れた夜を迎えたのに、自分だけが朝をゆっくりと過ごしていたなんて!
来訪者……客人としてあつかわれたのは嬉しいけれど、これではとんだ遅刻ではないか!
「ごめんッ、バティア! すぐ行くから!」
わぁああああん、と泣きそうになりながら忘れ物はないかと周囲を見やり、団長私室を出ようと扉に手をかけたとき、バティアが最後に記したメモが目に入る。
刹那、ハシュは目をぱちくりとさせた。
《部屋を出る前に、今度一緒に街に出ようと約束できる日がわかっていたら教えてほしい。
――その日にきみを迎えに行くから》
「バティア……」
どのメモもバティアらしい丁寧な文字で書かれていたが、なぜかこのメモだけはバティアの嬉しそうな微笑みが見えたので、ハシュも苦笑しながら扉に貼られていたメモを丁寧に取り、ゆっくりと胸もとに押し当てる。
ここに来るまでいろんなメモでバティアと会話したような気分になれたが、このメモ……手紙だけは特別だ。
無論、どのメモも大切にたたんで持って帰るが、このメモだけは何だか特別な気分になって、わずかにドキドキしてしまう。
これは自分の部屋の机の引き出しにしまって、大切に保管するべきか。
それとも忘れないようにカレンダーに貼っておくべきか。
考えただけで何だかわくわくしてしまう。
――一緒に街に出よう。
その約束はハシュが乗馬用の手袋をしていなかったことが発端で、昨日ハシュはそれを咎められたが同時にバティアが着用していた手袋を借りることになって、そのお礼をどうしよう……と思ったときに、ハシュがバティアに新しい手袋を買うことで話が進み、どの手袋がいいのか一緒に出歩いて選んでもらおう。その流れで新たな再会の約束が生まれたのだ。
バティアとは親友になってずっと一緒にいたが、その期間は少年兵ということもあって、皇都の街を気軽に歩くことができなかった。
一緒に歩くとしたら、手袋を買うだけではつまらない。
何か美味しい店で一緒に食べたり、散歩にちょうどいい路、男同士だから買い物に話は弾まないだろうけど、何かを適当に見て歩くのはちょっと楽しそうだ。
それは考えただけで胸が温かくなり、まだ日取りも決めていないのに、心なしかそわそわしてしまう。
「いまわかる範囲で、バティアと予定が合う日はあるかな……」
この居間のどこかにカレンダーがあれば……と思い、急いで首を巡らせていると、ちょうど簡単な執務が行える窓辺の机の上にカレンダーが置いてあって、すでにバティアがこの先二ヶ月分ほどの日付のなかで都合のいい日をいくつか赤ペンで印をつけている。
《ちなみに、俺が休める日はペンで囲った日。
予定が合えば嬉しいな》
などとメモ付きで書かれているのが何だかおかしい。
ちょっとだけそわそわしたような、バティアの目印。
見ているだけでハシュもそわそわ感が移ったような気がして、楽しくなってしまう。
ハシュはカレンダーに添えられていたペンを取り、数はすくないが、非番が重なる日に丸を付けて笑んだ。
「――よし。こうなったら同期たちに美味しいお店でも聞いて、先に皇都の街を勉強しておくか」




