ハシュ! どうしてズボンを穿いてないのッ? *
バティアの意識は朦朧としていた。
どうやってあれからハシュの脱いだ軍装から顔を上げることができて、その場を立ち上がり、部屋を出て寮母たちが控えている場所へたどり着いたのか。
自分でも不思議なことに、そこまでの過程がまったく思い出せない。
それほどまでに何かが衝撃的で、ぼうっとしてしまって……。
ただ、自分がはしたない行為をしていた自覚は残っていたので、それで火照ってしまった顔から赤らめたものが冷めなかったせいで、
「ちょっと、バティアくん! あなた、飲酒したんじゃないでしょうね?」
などと寮母たちに誤解されてしまい、危うく彼女たちから複数の雷を落とされるところだった。
――トゥブアン皇国では、男女は等しく十八歳で成人を迎える。
その日が来るまでは未成年の子どもとしてあつかわれ、飲酒も当然ご法度だ。
バティアが解禁を迎えるには、あとすこし日数が必要となる。
普段であればバティアにそのような疑惑の目は向けられもしないのだが、今夜はハシュが新人文官として来訪している。
それに浮かれたのはハシュを慕う少年兵だけではなく、教官や教師陣も喜んでいたので、それで夕食の際にうっかり彼らから飲酒を勧められたのでは……と疑われたらしい。
バティアとしてはとんでもないことだったが、他者からそう見えるほど火照りが収まっていなかったのかと思うと、これは恥ずかしい。
バティアはどうしたらいいのかわからず、額を押さえながらなお顔を赤らめてしまった。
しかし、それからすぐに話も逸れて、バティアが選択を頼んだハシュの軍装を手渡す。
寮母たちは少年兵を育成する十二月騎士団では滅多に見ることのできない、正式な騎士の軍装に興味を移す。
トゥブアン皇国では武官の軍装は比較的目を惹くが、文官の軍装には飾り気がなくて、一見も地味だ。
けれども、十月騎士団の伝達係には伝書鳩だけが有する肩章があって、これは一般人には間近で見る機会はほぼ皆無。
なので、
「まぁ! これが噂に名高い天下御免の肩章なのね」
「楕円形で肩から垂らすなんて、不思議なかたちね。――ふふ、ハシュくんも立派になったじゃない」
などと母親のような眼差しで受け取ったハシュの軍装を見やり、日々の任務を労うように撫でていく。
「それで――、明日のハシュくんの予定は? 通常の起床時間には間に合うようお洗濯するけれど」
「……そうですね」
寮母たちに仕上がり時間を尋ねられて、バティアはやや上目遣いに考える。
ハシュは明日、とくに時間をきめて出立するとは言っていなかった。
いつものように起きることができるのか、それともすっかり寝過ごしてしまうのか。読みとしては、たぶん後者だろう。
バティアにとってはどちらでもかまわなかったが、疲労困憊で熟睡するだろうハシュを「寝ぼすけさんね」と言われるのは少々障りもあったので、
「ハシュは明日もお勤めがあるので、いつもの時刻に――」
と、それとなく伝えるのだった。
□ □
さて。
――ここからがバティアの受難の「本題」となる。
□ □
ここまではよかった。
いままでの経験からするとハシュは長風呂をする傾向があるので、寝ぼけて湯船で溺れていなければ、そろそろ湯から上がっているころだろう。
溺れる……。
これにはかなりの不安と現実味もあったが、たぶん大丈夫だと信じて、バティアは湯上りのハシュのためにレモン水を用意して私室に戻ったのはいいが、――問題はまったくべつのかたちで起こっていた。
「――え……?」
バティアは最初、それがどういう光景なのかがよく理解できなかった。
ハシュはたぶん、きちんと湯浴みを終えて、バティアが日ごろから予備で置いている未使用の下着とパジャマを着て、宣言どおりに大きなベッドの上に飛び込んで、そのまま力尽きて寝てしまったのだろう。それが推測できるように、ハシュはベッドの上で大の字になって寝転がっている。
そこまではよかったのだが……。
寝転がっているハシュが瑞々しい下半身をそのままに、大の字になっている。
なぜ、あんなにも肌の色が露わに見えてしまうのだろうか?
バティアはその光景を見て、理解するのに数十秒も要した。
――ハ……シュ……?
何で、絶対に見てはいけないものがあんなにもはっきりと見えて……。
――……えッ?
上半身はパジャマを着ている。
見たところやや大きめな印象もあったが、ぶかぶかというわけでもなかった。
それに反して下半身は……。
バティアはようやく肌の見え具合の差を明確に理解して、思わず自分の口元を「パンッ」と音を立てて叩くように片手で塞いでしまう。そのまま半ば呆然と立ちすくんでしまった。
「ハ……ッ、ハシュ!」
バティアは必死になって数十分ほど前の自分の行動を思い出す。
今夜のハシュに来てもらうパジャマを用意したとき、きちんと上下の揃いを用意し、下着も新しいものを用意して浴室に置いたはずだ。
自分たちにはまだ目立つ身長差はなかったので、たぶん不自由もないだろうと思い、渡した。用意に足りなかったものはないはず。
あ、洗面用具……。
これは用意し忘れたと、いま思い出したが、問題はそこではない!
問題はなぜ、ハシュが足の付け根も丸見えになる状態でベッドの上に大の字になって寝転がっているのだろうか!
「ハシュ!」
これには堪りかねて、バティアも声を上げてしまう。
「ハシュ! どうしてズボンを穿いていないのッ?」
バティアはあわてて、周囲にハシュが穿き損ねただろう下着とズボンがないかを探す。ベッドの上にはない。その足もとにも。
では、どこにッ?
きっとここだろうと思える浴室を見やると、一度は穿いたけど、そのまま下着ごと脱いだと思われるズボンが丸まっている。
うん、これはどういうことだろうかと考えたかったが、バティアは思考を完全にあわてさせて、その下着とズボンを救い上げるなり、ベッドの上で寝転がっているハシュに投げてしまう。
通常であれば、バティアがそんな態度をハシュにとるはずもなかった。
寝ているハシュに「困ったな……」とつぶやきながら、なるべく見ないように下着を穿かせて、ズボンを丁寧に穿かせたにちがいない。
だが!
いまのバティアにそれができるはずもなく、今度もあわてて寝具の上掛けを強引に引っ張ってハシュにかけようとしたところ、
「……ん……、バティア……」
すでに寝ていたハシュが鼻から抜けるような甘い声を漏らして、バティアの名前を口にする。
甘い寝息……吐息のようなものを吐いて、ぼんやりと目を開けるそのしぐさ。
バティアは耳から刺激的なものを覚えて、あわてて顔を逸らそうとしたが、ベッドの上でもぞりと身じろぐハシュからどうしてか視線が逸らせない。
「バティア……どこに……行って……」
いたの、と語尾につなげたかったのだろう。
ハシュはそのまま「ふぁああ……」と大きなあくびを漏らして、もそり、と上体だけをどうにか起こして、まだほとんど開けることができない目もとをどこか拙そうに擦る。
そのしぐさから垣間見える左目もとのほくろが、どこか艶めかしい。
そのまま足を横座りの体勢にしたが、何も身につけていない下半身は隠しきれていない。
バティアにとってそれは酷く魅惑すぎて、ごくり、と喉を鳴らしてしまい、その自分の好意にぎょっとしてあわててハシュに背を向けてしまう。
「ご……ごめん、ハシュ。寮母さんに届け物をして部屋をすこし開けていたんだ。起こすつもりはなかったんだけど……」
言って、バティアはベッドのすぐ脇にあるチェストに置いたレモン水のグラスを指差すが、
「よかったら、飲んで」
「う……ん……」
寝ぼけたハシュの声にクラクラきてしまう。
背を向けていても、ハシュが座ったまま手を伸ばし、レモン水を取ろうとしている動作が布の擦れる音で何となく想像ができる。――できてしまう。
バティアは耐えようと唇を噛んだが、
――ああ、ハシュ。嘘でしょ……?
いったい、何があってハシュがあのような格好をしているのだろう?
もしかすると、未使用とはいえ他人の下着を身につけるのが嫌だったのか。それとも長湯をしすぎて身体が火照り、それを冷ますために下半身だけを開放して、あとで穿こうと思って……そのまま寝てしまったのか。
バティアは必死になってハシュの奇行を考えるが、ハシュがこれまで着衣なく、気にするようすもなく寝てしまうことなどなかった。
バティアはもう、どうしたらいいのかわからない。
振動の鼓動がとんでもない早さで全身を揺さぶるように激しく打っている。
痛い、というより、怖い。
自分の顔が赤いのか、青いのか。それさえ判然つかない。
そうやってバティアが背を向けたままでいることに、ハシュはすこしだけ「むぅ」としてしまい、
「――ねぇ、俺、バティアとおしゃべりいっぱいしたいのに、なんでこっち向いてくれないのさ?」
咎めるように問われるが、下半身が素肌のままのハシュに向かえるはずがない。
だが、レモン水のグラスを、ことり、と置いた音がして、たぶん、ベッドの上で四つん這いのような姿勢を取りながらハシュがこちらにもぞもぞと近づいてくる気配があって、バティアはどう逃げればいいのかわからなくなり、一歩離れるように前に出ると、それが気に食わないのか。ハシュがベッドの上を「ぽんぽん」と叩き、
「バティア……ねぇ」
「……」
どうやら、こちらを向いて、というハシュの合図なのだろうけど、こればかりは仕方がないからと言って従うわけにもいかない。
それほどまでにバティアの心情はいま、不可解な感情に揺さぶられている。
なのに、
「バティア……」
ハシュが手を伸ばして、バティアの、いまだ軍装姿の上着の裾に指をかけてくいと引っぱってくる。
刹那、バティアは堪らなくなって全身をぶるりと震わせてしまう。
バティアはこれ以上ないくらいにぎゅっと目をつむる。
そして――叫んでしまった。
「ハシュ! わかったから! でも、お願い!」
――お願いだから、ズボンを穿いてッ!




