う~ん……ね~む~た~い~……
――ここに来るまで、ほんとうにいろんなことがあったなぁ。
それが命令なのか、勝負なのか。
ここまで来たら意地の見せ所のような気にもなってきたが、バティアのおかげでハシュを数時間とことん悩ませたものは終わり、あとはハシュ個人の力では届かない雲上人たちの采配に身を任せるだけになった。
――ここから先は大事になってしまう。
バティアと学長が授けてくれた策だが、ハシュにはこれが巻き込まれる団長たちには失礼に当たるという自覚はある。
だから、どこかできっとお叱りを受ける場面も出てくるだろうが、最悪それはハシュが頭に「文鎮の刑」を二、三発受ければ済むだけのこと。――たぶん。
――それでも、大きな区切りをつけることができた。
おかげでハシュは心底ほっとしてしまい、いよいよ睡魔に襲われてしまう。
「ふ……わぁ……」
先ほどまで歓喜に心を躍らせていたのに、直後途端に気が抜けて、ハシュは大きなあくびを漏らしながらおなじソファのとなりに座っているバティアに、こてり、と寄りかかってしまう。
「ハシュ……?」
「ごめ……、俺……」
バティアがハシュのために大事な話をしてくれたのに、その策を必要とする張本人が急に来た眠気に耐えきれず、身体を支えられなくなってしまうとは。
いま、親友の誠意に大変失礼な態度を取っている――。
わかってはいるが、ハシュには大きなあくびを止めることができない。
かたむく身体はバティアの支えが心地よすぎて、どんどん安心に身を浸して重たくなってしまう。
本来であれば……。
今日という日ほど西へ、東へと奔走を余儀なくされたことはない。
いつもだったら、業務終業時間を終えたら即座に同期の伝書鳩たちと食堂に走って楽しくおしゃべりをしながら夕食を取り、さっさと官舎に戻って着替えもそこそこ、すぐさまベッドの上に倒れて即座に爆睡しているころだ。
若さ溢れる十七歳の身体も皇都地域を走り回ればへとへとになって、翌日が非番であれば昼近くまで寝こけることだって珍しくもない。
そんな話をすでに聞いているバティアは、ハシュがいま極限から解放されようとしているようすをそのまま受け入れる。その優しさが心地よい。
「仕方がないよ。ハシュはそれだけ走り回ったんだから」
「走った……のは、栗毛……色……」
「うん、そうだね。ハシュの騎馬はほんとうにすごいよ」
「うん……」
ここまでの道のり、けっして自分が全力疾走で足を動かしたわけではない。
ハシュは目をとろりとしながら騎馬の栗毛色を褒めようとするが、また大きなあくびが出てうまく言葉にならない。
ハシュは出会った当時からこうだ。
いつだって協力者に対して感謝は惜しまない。
けっして自分の手柄に加えることがなく、こんなふうに慎ましい面もあるから、その心に触れるだけでこちらの心も温かく、優しくなってくる。
バティアはその心の温度で、もうほとんど寝てしまいそうなハシュの顔を見つめる。
友人は昔からいた。
周囲に人はいた。
個性もさまざま、いろんな人々がいた。
――でも……。
こんなふうに誰かに対して懇意を末々願い、大切にしたい、傍にいたいと思える情が芽生えたのはハシュだけだ。
そんなふうにバティアは思うようになってきた。
――いつからそんなふうに感じるようになったのだろう?
ハシュは大切な親友だ。友情は終生変わらないと、互いに誓い合った。
その誓いはいまもこうしてつづいている。
こんなにも大切な感情以上のものが、果たしてあるのだろうか?
――もし、あるとしたらそれは……。
バティアは深く考えそうになって、その先にある心の扉に触れるのが怖くなり、ひとまずハシュをこのまま寝かせるわけにもいかないので、まずはかるく肩を叩き、
「――ハシュ。ゆっくり寝ていいから。でも、先に湯船に浸かったほうがもっと気持ちよく眠れるよ?」
「う……ん……?」
「俺のでよければ着替えは用意するし、軍装も一度洗ってもらおう? 明日には仕上がるよう寮母さんにお願いするから」
「でも……ぉ……」
身体をやや強く揺すってもらわなければ、ハシュはバティアがとなりにいる、それだけで完全に安堵して、かくり、と頭を下に向けて睡眠へと意識を落としただろう。
あとすこしで寝落ちもできたのに……――。
ハシュはそれを妨げられて、やや不機嫌に唇を尖らせるが、
「ほら、浴室まで連れて行ってあげるから、ハシュ、もうすこしだけがんばろう?」
「う~……」
バティアに言われて、辛うじて歩行できるようにバティアに肩と腰を支えられるように腕を回されて、よいしょ、とハシュは無慈悲にもソファから立ち上がることを余儀なくされてしまう。
――もう! 俺はいま寝たいのに!
ハシュは「むぅ」と頬を膨らませてしまう。
なるべく自分で歩いてもらおうと、そんなふうに支えられているが、ハシュはすでに足にうまく力が入らない。バティアもわかっているから力をかけて支えてくれている。
でもハシュも、眠気が勝っていてもバティアに迷惑はかけたくない……その思考がまだ残っていたので、どうにか、どうにか一歩ずつ歩くことができた。
そのまま数歩進んで、寝室側へと入る。
寝室もかなり広さを感じるものがあった。
真っ先に目についたのが大きなベッド。これはハシュとバティアが並んで寝てもまだ余裕がありそうだった。
傍には簡単な小物を入れる小型のチェスト、窓側には外の風景を見やることができるようにひとり掛けのソファが置かれていて、丸型の小さなローテーブルが付属している。
おまけに扉が四つもあるクローゼットがあって、やっと贅沢な私室という感じが見受けられる。でもそれは調度品の造りであって、私物がすくないと言っていたバティアのそれが目につくのはなかった。
もっとも――。
いまのハシュにそこまでの視線の動きはなく、否応なしに目に入るベッドだけに反応してくる。
「バティアの……ベッド……おお……きい……」
辛うじて残る意識で、ハシュはその大きさと寝心地のよさそうな寝具の印象に半分寝ぼけながら、
「ねぇ……飛び込んで……いい?」
などと言ってベッドに向かおうとしたが、バティアは困ったように微笑する。
いまここで甘やかしたらハシュは即座に寝落ちして、明日はいつ起きるかわからない。そうやって寝てしまったハシュの身体を勝手に拭うわけにもいかないので、
「きちんとお風呂に入ったあとなら、好きにしていいよ。今夜はあのベッドで寝ていいから」
「約束だから……ね、……俺、絶対……飛び込むから……」
「飛び込んでもいいけど、弾みでどこかに顔を打たないでね」
「う……ん……」
などと妙なところで約束の有効性を強いてくるハシュが可愛らしいと思えて、バティアはなお微笑ましく見やってしまう。
「この奥に浴室があるんだ」
「……」
バティアがそう話すが、ハシュの目は朦朧として返事はない。
二人並んでも使えそうな洗面台、その左右に個室タイプのシャワーブースとお手洗いがあって、トゥブアン皇国は湯船に浸かる文化なので、完全な青年期を迎えていない年ごろならゆっくりと身を浸すことができる置き型の浴槽まで備え付けられている。
それらを行き来するスペースも充分に広い。
ここ少年兵を育成する十二月騎士団の寮棟でも、他の騎士団の官舎でも。湯船文化のため浴室は共用となるが、そのぶん大浴場の規格となるため、入り心地はいい。
それを思うと個室に個人の浴室があるのは、やはり破格の待遇に他ならない。
――さて、問題は。
この寝ぼけているハシュを、ひとりで浴室に置いてもいいものかどうか。ハシュもどうにかして自分の頬をぺちぺちと叩いているが、目はほとんど開いていない。
バティアはハシュがいきなり倒れないよう、浴室の床に腰を下ろすように一緒にしゃがんでハシュの肩や腰を支えていた腕をそっと離す。幸い、ハシュはそのまま床に寝転がろうとはしなかったので、ホッとはするが、
「う……ん、軍装は……洗わなくていいよぉ、明日……着るし……」
そう言いながら、バティアが浴槽に温かなお湯を張るので、ハシュも渋々と唇を尖らせて、軍装の首もとを緩めようと襟のホックを外し、そのまま上着のボタンも外そうと懸命に指を動かす。
途中……。
何度も眠気に耐えきれず、「ん……」と気怠そうな声か音のようなものを漏らすので、バティアが思わず顔を逸らしてしまうが、ハシュはまったくのおかまいなし。
――なぜ、これだけのしぐさや声で動揺を覚えてしまうのだろう?
バティアはまだ、その真実の意識に辿り着けない。
だからできるだけ、早くこの場を立ち去りたかった。
「軍装なら心配ないよ。寮母さんたちがきちんと洗って、乾かしてくれるから」
「でもぉ~」
「今日はたくさんお勤めしたんだ。軍装も奇麗にしてあげないと」
「う~……」
「お湯は自分のタイミングで止めて。ゆっくり入っていていいから。――ああ、俺は扉越しにいるから、ちゃんと下着まで脱いで」
「えぇ……いいよぉ……」
下着まで洗濯に持っていかれたら、湯上りに身につける下着がない。
すでに軍装の上着を脱いで、なかに着ていたシャツのボタンも全部外せたハシュは、むぅ、と頬を膨らませるが、
「ちゃんと新しいものを用意するから。――今夜はそれで我慢して」
バティアに宥められるように言われると、渋々だがハシュも承諾するしかない。
無言でうなずいて、すぐさまシャツも脱ぐ。
伝書鳩という日々の激務で鍛えている? せいか、ハシュの身体つきはほっそりとしているが、柔らかそうな肌は年ごろらしくて瑞々しく、なめらかそうな印象もあった。
触れればきっと、触り心地もいいのだろう――。
そう思えるものが視界に入り、顔を逸らしたはずなのにまたハシュを見ている自分に気がついて、バティアはあわてて顔を逸らす。
――触れれば……?
――誰の、何に?
そんな目でハシュを見ていたなんて……。
自分は何てはしたないのだろう!
そんなバティアの心情をよそに、ハシュは眠気と格闘しながらスラックスのベルトを外そうと奮闘する。カチャカチャ、となる金具の音が、聞こえるだけで耳の奥まで奇妙な刺激を与えてくる。
さらに……。
ハシュのしなやかな足から落ちていくスラックスを脱ぐ音が否応なしにバティアの鼓動を高鳴らせてくるので、それに耐えきれず、バティアは浴室の外へと移動したが、
「……はい、バティア」
「――ッ」
ハシュが何かを手渡そうとしてきたので、反射的に手を出すと、その手に「ぽん」と置かれたのが、何といま脱いだばかりのハシュの下着!
なぜ、軍装の上下よりも先に下着を手渡すのだろうか!
バティアはその下着を直視して完全に全身を赤らめて、そのまま硬直してしまう。
――そして。
ハシュが脱いだ軍装を扉の隙間から器用に投げてくる。
その扉を閉めようとした刹那――。
バティアの目には細くしなやかな身体つきのハシュの後ろ姿……裸体が目に入ってしまい、バティアはぎゅっと目を閉じてしまう。
駄目だ、鼓動がどんどん早くなる――ッ!
「じゃあ、ハシュ。ゆっくり浸かってね」
辛うじて声をかけて、返事を待たずにバティアは浴室の扉を閉める。
そのまま力が抜けたように扉に背を当て、ずるずると座り込んでしまった。
ハシュの裸体など、少年兵時代の三ヵ月前まで毎日寮棟の大浴場で見ていたというのに。あのときはこんな奇妙な意識などなかったというのに……。
なのに、どうしていま、
――こんなにも意識が過剰に反応するようになってしまったのだろう?
ハシュはとても心根が純真で、その素肌も清らかで尊いのに……。
どこか不埒めいた想いで見てしまうなんて、何て自分は汚らわしいんだ!
ハシュを穢すな、とバティアは全力で頭を振る。
だが――。
バティアはそれを、先ほどの夕食の席で教官や教師陣たちに何かとハシュとの仲を揶揄われたせいだと責任転嫁するが、ほんとうに意識が過剰反応しているのはそのせいなのだろうか?
――ああ、ハシュ……。
どうしたらいいのだろうと思い、そのまま膝を立てて顔を伏せようとしたとき……バティアは思いがけずハシュが脱いだ軍装に顔を埋めてしまう体勢になってしまった。
「ッ!」
鼻をくすぐるのは、ハシュの――匂い。
それは汗を含んだ匂いでもなければ、香水のようなものを纏った匂いでもなく、ハシュそのものを表すような彼の存在という匂い。
は、はしたない……ッ。
顔を上げなければ!
バティアは即座に思ったが、身体も意識も言うことが聞かない。
まだ体温の温もりも残すハシュの軍装に顔を埋めたまま、バティアは顔を上げることもできなかった。
――まるで、ハシュを抱きしめているような感覚……。
先ほど部屋に来るまでしがみつくハシュと一緒に廊下を歩き、浴室に運ぶまでの間身体を支えていたときとはまったく異なる、どう表現したらいいのかわからない、この感覚――。
愛しく、心地がいい。
――ハシュ……、ハシュ……。
バティアはそこからほとんど意識がなかった。
大切な親友の名前を何度も心中で愛しくつぶやき、想像のなかで服を着ているハシュではなく、いまほど裸体になったばかりのハシュの姿を抱きしめて、強く脳裏に焼き付いてしまったあの肌を弄るように、バティアはハシュの軍装を抱きしめるのだった。




