ハシュは蜂の巣になって、落第点をもらいます
「――シュ……」
声が、……聞こえる……。
「――ハシュ……」
誰かが、自分の名前を……呼んでいる。
それがわかる声が聞こえる。
「――ハシュ……どうした?」
――どうした?
どうしたって、何が?
見てわからない? わからないの?
もうッ、見てよ!
わかるでしょ!
自分はいま、軍馬一斉号令の「一斉構え」の標的にされて、そのあと蜂の巣にされたのか串刺しにされたのかはわからないし、そんなの想像もしたくないけれど、でも――人生で最悪の末路を送っている最中だというのに!
――それを見て、どうしたこうしたもないでしょッ!
ハシュはぎゅっと目を閉じながら、そんなふうに自分を気にかける声に「もうッ!」と思いながら「むぐぅ」と頬を膨らませ、心中で憤懣をまき散らす。
「――ハシュ……、おい、ハシュ」
見てもわからないのなら、放っておいて!
俺はいま、蜂の巣なのッ!
もうすこししたら、四月騎士団団長のもとまで化けて出るんだから!
邪魔しないでよッ!
頭のなかに浮かぶのは、こんな恨み言と被害妄想だけ。
いったい何に囚われて叫んでいるのか、ハシュにだってわからない。
「ハシュ……、ハシュ! まさか気を失っているんじゃないだろうな?」
――気を失っている?
それどころじゃないよ、もうッ!
蜂の巣にされたら気を失うどころか、身体だって失っているよ!
もうッ、見てわからない?
ハシュは脳内で散々に叫ぶ。
だが、直截口に出して文句を言っていないぶん、ただ目を閉じて硬直したようなハシュを見て案じる声がいよいよ本格的な心配を含ませて、「ハシュ? ハシュ?」と何度も声を上げて呼んでくる。
でもそれは、――すでに天に召されたハシュにとっては煩わしい声にすぎなかった。
――うるさいなぁ……。
不機嫌の絶頂になれば、ハシュだってこれくらいの口は叩けるのだ。
そうやって脳内でぶつぶつ叫んでいると、
「――ハシュ!」
いきなり肩を掴まれたかと思うと、やや乱暴に前後と揺すられる。
あまりの急な接近に、これにはハシュが騎乗する栗毛色が警戒と威嚇を爆発させて、「触るなッ」と甲高く嘶く。ハシュを護ろうと乱暴に身体を震わせた。
だが意識のないハシュにその揺れが耐えられるわけがない。
「おっとッ」
突然暴れ出す栗毛色に声をかけつづけていた男があわてて手を伸ばし、栗毛色の手綱をハシュに代わって握り、御する。
制するではなく、御する、だ。
「安心しろ、俺はこいつの先生だ」
男は言って、自分の立場が何なのかを明かすように握った手綱を器用に操り、栗毛色に直截信号、あるいは合図のようなものを送り、興奮を止める。
そのやりとりの最中、
「!」
突然の感覚にハシュはハッとして、それまできつく閉ざしていた目を大きく見開いた。
男はそれに安堵しかけたが、ハシュのようすはおかしいままだった。
何かに呼び戻される感覚で目を開けたのはいいが、では、いまほどまで自分が何をしていたのかがまったくわからず、ハシュはそのまま「きょとん」としてしまう。
――あれ? 俺……。
蜂の巣になったはずなのに、何だか身体があるような気がする……。
蜂の巣は、夢?
それとももう魂だけの存在になって、身体を持っている夢を見ているのだろうか?
目を開けたはずのハシュは、まだ現実を見ていない。
ハシュの脳内は完全にパニックを起こしていた。突如ひびき渡った軍馬一斉号令――その「一斉構え」の指口笛を理解した途端、思いきり被害妄想こそ現実なのだと意識を混乱させてしまっていたのだが、ハシュはそれに気がつけていない。
「くそ……ッ、目を開けたままほんとうに夢を見ているのか? ――ハシュ!」
すぐそばで乱暴な声が聞こえる。
すこしだけ野太い、大人の男の声。
だがハシュの目は現実をひとつも捉えていない。
ぼんやりと惚ける表情で、虚ろ。
左目もとにあるほくろまで「ぼけぇ」としているように見える。
なので、ハシュを心配する声はまだ意識を失っている状態に近いと判断し、盛大なため息をついてくる。
そのままハシュの顔をできるかぎり至近で覗きこもうとして、男は自身が騎乗する茶色の軍馬とハシュの栗毛色を器用に操りながら、やや楽しそうに伝える。
「これから、こいつを説教するからな。――大人しくしていろよ」
すると説教という言葉を即座に正しく理解したのか、栗毛色は途端に自らの意思で気配を静め、「存分に叱ってくれ」と支持し、「手加減するな」とつけ加えるように鼻息を鳴らす。
男と栗毛色はこの瞬間、奇妙に意思を疎通し合った。
どちらも「気に入った」という意味合いで口端をつり上げる。
そして、男が大きく呼吸した――!
「ハシュ! ――落第点が欲しいのかッ!」
「――ッ!」
途端にとんでもないことを言われて、ハシュはようやく本能の最奥からハッとする。ギョッと目が見開いた。
この声は、紛れもない鬼教官の声!
いま落第点をつけられたら、修了試験も通らず、武官だろうが文官だろうが「騎士」にもなれないではないか!
何のために二年間も厳しい修練を積んだのか。
嫌だよ! 冗談じゃない!
その一心で、
「すッ、すいませんッ、やり直しますッ!」
ハシュはあわてて叫び、姿勢をびしりと正して、もう一度今度は記憶の最奥からハッとして、
――いや、待って?
――俺、もうちゃんと十二月騎士団を修了して、十月騎士団で伝書鳩をやっているよねッ?
懐かしい声に怒鳴られて、ハシュはようやくのことで現実に戻る。
ハシュを脅した覚えのある声。深みと低さが特徴の、よくひびく男のそれ。
壮年の部類に属するだろう、はっきりとした体躯はいまも変わらず、太い線を感じる眉目や顔立ちは野性味というか、風格のある男臭さを感じさせ、力強い印象を一瞬で与えてくる。
怒れば鬼だが、笑えば気風のよさが伝わる優しい教官。
ただ……。
ハシュの記憶ではいつもきちんとした服装で馬術を教えてくれていたというのに、今日の教官は腕まくりのシャツにスラックスといった私服の軽装で、それはそれで男らしさが全面に溢れているのだが、
「あ……れ? 教官?」
ハシュは自分の顔を覗きこむ教官に、はて、と思い、不思議そうにまばたく。
彼の経歴は元武官、騎馬隊で構成される八月騎士団に所属していたが、いまは少年兵を育成する十二月騎士団で馬術の教授を担当している。
少年兵が勝手に敷地の外に出られないとおなじで、教官や教師陣も例外ではない。
その教官と、どうして夜の道中に出くわすのだろうか?
「……ひょっとすると、教官もどこかにお出かけだったのですか?」
ハシュとしては現状最適な判断で問うたつもりだったが、問われた方の教官は「まだ寝ぼけているのか」と思い、今度は呆れたため息をつきながら、
「ハシュ……。即時の状況判断不適正と見なし、――特大の落第点をくれてやる!」
と言うなりがっしりとした腕を伸ばして、親指を土台に中指を曲げて飛びきりの威力を込めて、ほとんど遠慮なしにハシュの額を「バシッ」と弾いてくる。
「ぎゃんッ」
遠慮のない一撃にハシュは一瞬、痛みと反動で首ごと仰け反らしてしまう。
相変わらず、酷い一撃だ。
これを食らったら最後、赤くなるどころか、しばらく痣のようなものが落第点の判子のように残るというのに……。
「なッ、何するんですかッ!」
自分はもう少年兵ではないというのに!
ハシュは額を押さえながら叫ぶが、教官は容赦しない。
「ハシュ! もう一撃食らいたくなかったら、即座に状況報告をしろ!」
「は、はいッ」
こんなふうに凄味のある勢いで言われてしまえば、ハシュに勝ち目などない。
ハシュはあわてて口を動かす。
「げ……現状……、え……っと」
――確か、俺……。
五月騎士団を出たあと、どうしても苦手な夜の道中をどうにかして騎馬の栗毛色に助けてもらいながらゆっくりと歩行していたはず。
怖くて、怖くて堪らなかったが、そこに不思議な灯りが見えたと思ったら、今度は軍馬一斉号令の指口笛が聞こえて――。
しかもそれは、一斉構え、だ。
撃たれると思ってすっかりパニックになって……。
気がついたら修了したはずの十二月騎士団で大変世話になった馬術の教官が目の前にいて、思いきり指で額を弾かれた。
これは不当な暴力だ!
「――これが顛末です!」
悲劇のふり返りは体験するより、自ら口で説明するほうが数倍傷つくが――何でいつもこうなのだろう……と――、相手に何かを伝える、それでようやく真実意識を取り戻してハシュが心底疲労のため息をつくと、教官もようやく安堵の表情を浮かべた。
――いまコイツ、愛の鞭を不当な暴力と言ったが、ま、ご愛嬌だ。
たった三ヵ月で言えるようになってきたな、と感心しながら、
「よし。やっと合格点まで戻ってきたか。――よくがんばったな、ハシュ」
言って、今度は大きな手のひらでハシュの頭を乱暴に撫でてくる。
「わッ、き、教官ッ」
ハシュは脳天から身体ごと大きく揺すられるような体感にあわてたが、この力強さがどれほど慈愛に満ちているのかを知っているため、ハシュはホッとしながらすこしだけ照れてしまう。
そして――。
ようやくのことで周囲が不思議な色味を持つ灯りで包まれていることに気がついて、はて、と首をかしげてしまう。
灯りは輪郭を持ってはっきりとはしていない。
どこかぼんやりとしたふうに感じてしまうが、弱くはない。
どちらかというと温かな色合いで、これまで夜の道中を怯えながら歩行してきたハシュに安堵の気持ちを与えてくれる。
でも、何だろう?
この周囲に灯りをもたらすものはないというのに。
でもハシュの周囲はまるで複数のランタンを点しているように、夜の世界に温かな色を浮かべている。
ランタン――?
「え……?」
よく見たら、周囲にはいつの間にかハシュと教官を囲むようにして手に持つランタンでふたりを……ハシュに優しい灯りを与えようとする複数の騎手と騎馬がいる。
どうしてそれに気がつかなかったのだろう?
騎手たちはややハシュから離れているとはいえ、見慣れない騎馬が複数視界に入れば栗毛色はすぐに気性荒く威嚇するというのに、それをしない。
むしろ大人しくしていて、ハシュが宥める必要もなかったので、深く気配を察することに失念していた。
「……」
複数の騎手たちが持つランタンは、一般的な形状――指先ですぐに持つことのできる吊るし状の輪がついているものではなく、あるていどの長さがある持ち手の棒があって、それであるていどの距離まで灯りを差すことができる。そういう形状をしている。
そんなランタンが複数。
物理的な灯り、心情的に優しく温かな明かり。
もうハシュの世界は暗くない。
「あれ……?」
さらに不思議の思えたのは、そのランタンを手にする周囲の騎手たちの正体だった。
どの顔にも見覚えがあって、しかもハシュと年齢的に差異がない。
年相応、あるいは大人びた、あるいはまだ子どもっぽい。
さまざまな顔つきはどれも懐かしく、彼らは一同に十二月騎士団に所属する少年兵の軍装をきちんと着用している。
――そうだよ。
――この子たちは俺の直近の後輩……。
だったら、夜の時間は寄宿舎である寮棟を含め、十二月騎士団の敷地から出ることなど適わないというのに、どうして少年兵の彼らがこのような時間に、このような場所でランタンを手にして騎乗しているのだろうか?
状況がまったくわからない。
思わずきょろきょろとしてしまうと、少年兵たちがハシュに柔らかくて温かな笑みを送り、あるいはすこしだけ照れくさそうに苦笑してくる。
「みんな、どうしてここに……?」
ああ、どうしよう?
また突然のことがはじまって、惚けてしまい、理解できなくなったら、またあのデコピンが飛んでくるではないか。
ハシュは予測される未来の痛みに怯えたが、だが、教官の指はハシュの額に狙いを定めることはなく、自身の口に咥えられて、
――ピィイイイッ!
と、軍馬一斉号令の指口笛特有の高いひびきを発する。
確か、この音は「待機」。
号令の指口笛は視界の奥へと向けられ、何度も、何度もひびく。
ハシュの周囲にはすでに十騎近くの騎馬がいるというのに、まだ道先の奥に複数の騎馬が待機しているのだろうか。
よく目を凝らすと、さらに灯りが見える。
ほんとうに道先の奥までつづくように灯るものが一定の高さで浮かんでいるのが見えてくる。
まるで等間隔に並べられた燈籠みたいだ、とハシュは思った。
実際にあるはずがない場所に燈籠のような灯りの並びがあって、蝋燭の温かな色が夜道に浮かんでいて、ハシュの視界を護るように灯っているので、ハシュはかえって混乱してしまう。




