夜を怖がる、ハシュの過去
夜の道中に聞こえるのは、ハシュの騎馬である栗毛色の慎重な歩行の足音と息づかい。それと周囲の草むらで鳴く虫の音だった。
夏を終えて秋に入ったいまの季節――。
夜空に浮かぶ蒼月がもたらす、淡い蒼を含んだ月光の夜に聞くそれは大変美しいが、ハシュがそれに耳をかたむけることはない。
心にそんな余裕など、ありはしなかった。
聞こえるのはむしろ自身の心音で、これが緊張と不安で大きく、大きく脈打っている。まるで全身で「どくん、どくん」と言っているのではないかと思えるほどで落ち着かない。
実際、それほど自分が恐怖に震えているなど、ハシュは最初自覚できなかったが、
――どくん、どくん。
ハシュはただただひびく大きな心音に目を見開いて集中し、大丈夫、と何度も心中でつぶやいて静めようとするがうまくいかない。
――どくん、どくん。
思考がひとつでも逸れてしまうと「怖い、怖い」と言っているようで、そう聞こえはじめてしまうとなお心音の脈打つ音が全身を支配してくる。
バティアがくれた黒地の乗馬用の手袋をつけているのに、手が震えてうまく手綱が握れていない気がする。
――だ……大丈夫……。
唇も酷く震えている。
集中するためにかるく噛んでいるため、鼓舞の声は心中でつぶやくしかない。
実兄のオルクに見送られて国府の五月騎士団の敷地を出たあと、ハシュの背には敷地の周囲を巡る燈籠や長い回廊に吊るされているランタン、あるいはいくつもの建物内から浮かぶ明かりでずいぶんと幻想的な風景が見えたが、ハシュはそれを見ていない。
背にある光景を気にしてふり返る。
そんな余裕などあるわけがなく、ハシュは夜の視界で周囲を見失わないよう必死に一点集中している。
五月騎士団から親友のバティアが待つ十二月騎士団の敷地までは単調な道のりなので、迷うことはないのだが、道中にはいくつもの森があって、視界不良を避けるためにかなり大掛かりな迂回を余儀なくされる。
最初は幻想的に見えた五月騎士団の明かりも、トゥブアン皇国特有の低層建築様式では木々の影に隠れてすぐに見えなくなるし、周囲に家をかまえて家族と暮らす文官たちの地域の明かりもハシュとは方向ちがいなので、これはハシュに何の恩恵ももたらさない。
その地域に実兄のオルクが妻子と暮らす家がある。
オルクもいまごろ徒歩で帰っている最中だろうか?
義姉はハシュと会える機会が遠ざかり、落ち込んでいるだろうか?
ハシュはすこしでも思考に何かを浮かべようとするが、どれも長くつづかない。
――大丈夫、大丈夫……。
ハシュは震える手でしっかりと手綱を握るが、果たして自分はいま、ほんとうに握ることができているのだろうか?
『手綱をちゃんと握ってないと、騎馬は騎手の意思を読み取ることができないよ』
夕暮れ前、群然にも遭遇した少年兵を育成する十二月騎士団の馬慣らし――お散歩で出会った、騎馬に不慣れな新入生にそれを教えたのは他ならぬハシュだというのに。
その自分がこんな調子では……。
――あの子に言った以上、自分もしっかりしなければ……。
栗毛色はかなり気丈な性格だが、十月騎士団の厩舎に所属する騎馬になってから夜の歩行はほとんど経験がない。
だから、自分がちゃんと手綱を握って前を向き、適切に指示を出さないと栗毛色が困ってしまうではないか。
けれども夜の世界を極端に怖がるハシュのいまの精神状態を正確に理解しているのか、栗毛色はまるで包容力のある騎士のようにハシュの不安を一歩、一歩と踏みつぶしながら丁寧な歩行をつづけてくれている。
近辺に細く、うねるような道はない。
道幅もあって、定期的に整地もされている。
栗毛色はきちんと周囲を見落とさぬよう集中して、道と草むらの境界線に脚を踏み間違えることなく道の真ん中を歩いていた。
蒼月の月光を借りてもときおり視界不良を起こすハシュにとって、これほど心強い存在はない。
――これはほんとうに、さすが、としか言いようがない。
騎手として心底情けないが、いまは栗毛色の歩行感覚だけが頼りのすべてだった。
□ □
ハシュが暗闇や夜を恐れるのは、何も「お化けが出たらどうしようッ」という、そんな発想で怯えているわけではない。
万が一、お化けが出たらきっと栗毛色が容赦なく蹴り飛ばしてくれるだろうし、ハシュだって「ぎゃあああッ」と叫びながら本能的に栗毛色を全力疾走させて、とにかく一目散に逃げてしまうだろう。
でも……。
そうではない。
夜が怖い理由はそうではないのだ――。
――ハシュにはもともと怖がりの一面もある。
自分がそうだという自覚もあるし、もともと夜の暗さは苦手だった。
小さいころは十二月騎士団に入団する前の実兄もおなじ家に暮らしていたので、夜はいつも手を握ってもらい、一緒に寝ていた。
オルクは「困ったやつめ」と言いつつも、「甘えん坊め」とハシュの左目もとのほくろを突いてくれて、いつだってぎゅっと抱きしめてくれた。
オルクの温かな体温はいつだってハシュを落ち着かせてくれて、ゆっくりと心地のいい眠りに誘ってくれた。それを覚えている。
――でも。
――七年前……。
トゥブアン皇国最大の敵国である西の大陸で文化中心圏を称する中央諸国地域が、それを統括する宗教国家の「シャトラリス聖皇国」から要請を受けて大船団を組み、まるで侵略戦争の集大成を築く勢いで攻め入ったことがある。
トゥブアン皇国もこれに迎撃。
島大陸であるトゥブアン皇国に攻め入るには、まずは海洋で激突するのが必至で、これを建国以来ずっと海洋の海戦で撃破しつづけてきたのがトゥブアン皇国唯一の海洋絶対防衛である海軍騎士の七月騎士団だ。
――海軍騎士の七月騎士団は、いつだって負け知らず。
あの七年前も、強大な勢力で進軍する敵大船団を見事に撃破してくれたが……。
――それは辛うじて勝つことができたという、紙一重の勝利だった。
そう、辛うじて。
多くの海軍騎士たち。
多くの軍船。
それらのほとんどを海の底へと失ってしまい、七月騎士団は戦勝と引き換えにほぼ壊滅状態に陥った。
七年経ったいまでも、それは完全に回復したとは言いきれていない。
――先にも述べたように、ハシュの父はその海軍騎士として七月騎士団に所属。
大破する軍船とともに、自らの命運を皇国と家族に捧げた。
その結末だけを残して、何も残さず……――。
トゥブアン皇国は勝った。
侵略に怯える必要は無くなった。
だが!
――二度と帰らぬ父に「護ってくれてありがとう」などどうして言えよう?
母は当時からすでに占術師として地域でも名が知られ、優しく、自活ができるほど気丈でもあったが、大恋愛の末に結ばれた夫を失った事実だけには勝てず、膝をついてしまい……しばらくは泣いて、泣いて、泣いて。
その場でずっと声を上げて泣き伏して、動くこともできなかった。
――当時のハシュは、十歳かそこら。
年齢でいえばまだ子どもだったが、何もできずに大人の手を借りなければご飯も食べられない幼子ではなかったし、だからといって、悲観に圧し潰されて動くこともできない母に代わって家事をして、料理をして、それができるかと言われればまだ難しい年ごろでもあった。
ハシュの故郷は海辺の町。
年の離れた実兄は皇都地域にある十二月騎士団に入団していて、もうじき二年間の厳しい修練を修了する時期を迎えようとしていた。
つまり、
――オルクはこの大海戦の時期は寮生活をしていて、傍にはいなかった。
そのため、ハシュが頼れる大人は母しかいなかった。
だがその母が四晩、五晩も経っても動かずに泣いて伏していれば、さすがのハシュも生活に困ってしまう。
昼間はまだどうにかできるが、夜はどうにもできない。
明かりを点したくてもハシュはまだ火をあつかうなと言われていたし、だから夜は暗く、お腹が空いても料理もできない。
最初は口にできるものだけを食べ、母に元気になってほしくて自分の食い扶持も皿に入れてそばに置いたが、母の手は一度も伸びない。
ハシュには食事の要領などわからないので、食べ物はすぐに底をつく。
幸いにして国内は領土侵略を受けたわけではないので、どちらかというと日常は不変で、食べ物に不自由することはなかったが、それを手に入れるためには買い物でお金を支払わなければならない。
そのお金は、母の財布に入っている。それは知っている。
だが、お金は母の承諾がなければ財布から取ることもできないし、
――お腹が空いたから、何か買ってもいい?
――お母さんは何が食べたい?
何度か問うても、母は失意に暮れてハシュの声さえ届いていない。
どうしても困ったときは、近所の人たちに助けてもらったが……。
けれども、海辺の町に住むということはそれだけ海軍騎士の七月騎士団とは縁が深く、町の男たちも実際、ほとんどが海軍騎士となって七月騎士団に入団している。その多くが犠牲になった。
家族を失った痛手、悲しみはハシュの家族だけではない。
各地、随所で誰もが失意のどん底に落ち、――とくに大人たち、母や妻である女たちの絶望は容易に語れるものではなかった。
失意は国中に満ちていた。
そのためハシュのように父を、兄や親戚の伯父や叔父、あるいはまだ若い祖父を失った子どもは近所のあちらこちらにいて、すこしでも年長の少年や少女たちが知恵を出し合い、助け合った。
とくに少女たちのほうが料理を学ぶのも早かったので、とにかく食べられるものを大鍋に入れて、何でも作ってみた。
食べながら、みんなで涙をこぼして「お父さんッ」と泣いて叫んだ。
――その強固な絆は、いまもつづいている。
幸いにしてハシュの母はようやくのことで気丈を取り戻し、現実を受け入れて、ハシュを泣きながら抱きしめてくれた。
だが……。
なかには耐えきれず、幾日かの朝を迎えたころには男たちの後を追うように息を引き取る母や女性たちもいた。
ハシュの町でも、それが原因で孤児になった子どももいる。
それを経験したため、夜もずっと泣き伏している母の姿があまりにも切なくて、どうすることもできない自分が情けなくて、明かりのない夜がどんどん怖くなって……。
夜の色に染まる居間で母の影を見るのがどんどん怖くなって――。
――ハシュが夜を怯えて怖がるのには、そのときの心理が多大に影響している。
□ □
「もう、子どもじゃないんだ……」
ハシュはようやくのことで声を出す。
いまのハシュには最低限、生活できる術がある。
火も熾せるし、買い物をするためのお金も文官騎士となったので給金を賜り、自分で支払うことだってできるようになった。
簡単でもいいのなら、ご飯だって作ることもできる。
十二月騎士団では剣技や武芸、学術のほかにもこういった生活の面を修練のひとつとして叩きこまれた。
――そう!
――いまなら、母だって助けることができる。
でも……。
それでも暗闇や夜の色に染まる世界が来てしまうと、あのころの自分が甦ってきて、――自分でもどうすることもできなくなるのだ。
ハシュは、ぞくり、と全身を震わせてしまう。
ハシュの夜を怖がる心理は、十二月騎士団時代をともにした同期は勿論、直近の上級生や下級生、教官や教師陣なら誰もがよく知っている。
――ハシュは新入生すぐのころ。
――同期に何かを冷やかされて、暗がりに閉じ込められたことがある。
最初はおもしろがっていた同期たちだが、閉じ込めた室内でハシュが意識を失って倒れているのを知って青ざめて、あわてて教官や教師陣たちを呼び、大目玉を食らって猛省した事件があるのだ。
そのとき寮生活で同室だったハシュの姿が見えず、心配になって建物中を駆け回って探し出してくれたのが、
――他ならぬバティアだった。
それがきっかけで同室の友人同士はあっという間に親友同士になった。
唯一無二の親友。
この友情はまちがいなく永遠だろう。
先ほど会って、ハシュが乗馬用の手袋をしていないことで手を痛めてしまうと心底心配したのも、きっとこの名残と心配性になった延長線だとハシュは推察している。
「大丈夫だよ、バティア……」
いまも怖くて、怖くて堪らないが。
いまの夜道も栗毛色が全身で視界に集中し、ハシュはただ手綱を持っているのが精いっぱいの状態ではあるが。
震えるその手にはバティアの黒地の手袋がはめられている。
どんなときでも一緒だよ、と手を握っていてくれている。
だから……。
「大丈夫……」
目指す先に親友のバティアがいるのだ。
ハシュが来るのを待ってくれているのだ。
だから、ハシュはかならず到着することができるはず。
――だから、怖くない。
オルクからもらったタリアルのカード。
その絵柄の少年を思い浮かべ、ハシュは軍装の内ポケットにしまったカードを抱くように震える手で胸もとに触れた。




