ハシュはふたたび出立します 道中気をつけて
「――ああ、ごめん。すっかり待たせたね」
そんな実兄の揶揄いから逃れるべく、騎馬待機場に着くなり、ハシュをずっと待っていただろう騎馬の栗毛色に思いきり抱きつく。
栗毛色にはすでに五月騎士団の内務府から受け取るべき書類の束が鞄にまとめられていて、装着されていた。
周囲にいるのは馬番の男たちだったが、先ほどハシュとひと悶着を起こした文官たちの姿はどこにもいない。
――遅い!
――何をしていた? もうとっくに夜だぞ!
「あはは、ごめん。ちょっといろいろあったから」
荒い鼻息でハシュを叱ってくる栗毛色は、水も餌ももらってすっかり待ちくたびれていたらしい。宥めるように背を叩いて簡単に周囲を見やると、これから出立する騎馬はハシュの栗毛色だけのようすだった。
官舎を利用しない文官は、近辺の自宅から徒歩か騎馬で五月騎士団それぞれの府に登庁するが、そういった騎馬たちは専用の騎馬待機場に預けられるので、ハシュが栗毛色を預けた外部からの――つまり、他騎士団――騎馬を預かるここは時間帯もあって閑散としている。
すでに終業時間を迎えたというのに、この伝書鳩はこれから十月騎士団に向けて帰庁するのだろうか?
普段であれば、この時間帯に伝書鳩を見ることはない。
夏の時期であればまだ夕暮れどきの明るさもあって帰路に困難もないだろうが、おなじ時間帯でもいまは秋口。世界はすでに夜色に包まれている。
文官には武官とは異なり、年齢層関係なしに騎馬をあつかう時間に制限が設けられている。
それを知らぬ伝書鳩ではないというのに……。
「お勤め、ご苦労さま。――これからほんとうに帰るのかい?」
ハシュの軍装に付けられている伝書鳩の証である肩章を見やり、馬番たちは心配そうに声をかけてくるが、
「お勤めを果たすのが伝書鳩ですから」
ハシュは何とも言えない顔で苦笑いをしながら返す。
その表情にいつものようすはなかったが、ハシュは気丈に振る舞おうとする。
そんなハシュを見ながら、オルクは書類の束を詰め込んだ鞄を背にする栗毛色を見やる。
その鞄はちょうど騎馬の歩行と騎手の着座の妨げにならない、絶妙な位置に装着されているが、見ておどろいたのがその量だった。
山積みというわけではないが、騎馬に跨ればハシュの背の半分ほどの高さになるだろうか。素人然では身軽に走れる印象がない。
「伝書鳩は一度にこんなにもたくさんの書類を運ぶのか?」
すくなくとも人間が背負って運ぶには困難な量のため、これでは移動距離や時間のため云々、馬力のある軍馬でも騎馬にして書類を運んでもらわないと仕事にならないというのが理解できる。
十月騎士団の伝達係――伝書鳩は、ほんとうに過酷を日常にして皇都地域を奔走しているのだな、とオルクはようやく実感する。
だがハシュは実弟というより、どこか伝書鳩の顔をしながら微笑し、
「ここは国府の五月騎士団だし、しかも内務府だからね。いつもこんな感じだよ」
「……」
「前なんか伝書鳩を経験している先輩と一緒に、馬車で来たこともあるんだ」
「それは……すごいな」
「それに――」
この栗毛色は軍馬だから耐久も持久もあるので、この量ならハシュだけを乗せるのとおなじように全力疾走も可能だ、とハシュは誇らしげに説明する。
そうやってハシュにすっかり信頼されている栗毛色だが、栗毛色も夜の色に染まる世界を見やって、もうこの伝書鳩に猶予は与えないと、ぐいぐいと鼻先でハシュを押して「早くしろ」と促してくる。
「お~お、仕事熱心」
オルクはすこし揶揄い含みを口にしたが、どうやらこの騎馬は頼りになるぞと直感する。
「ほんとうなら……できるかぎり同行して、せめてお前の足もとをランタンで灯してやりたかったが……」
ハシュとは異なり、最初から文官騎士になることで将来の安定を目指していたオルクは、学術の成績は優秀だったが、少年兵を育成する十二月騎士団の本領である剣技や武芸の成績となると、順位は恐ろしいほど反比例している。
そのため、「ほんとうに馬術に秀でた弟の兄かッ?」と呆れて揶揄も出ないほどにおどろかれるオルクの馬術は、明るい日中に近くの市場にならどうにか買い出しもできる――そのていど。
なので、ハシュのために並行するように騎乗し、足もとを手やしてやるなどとてもではないができない。
「道中――ほんとうに大丈夫なのか?」
心配そうに自分を抱きしめて、実弟の左目もとのほくろを指で突いてくるオルクに、ハシュは小さく笑う。
笑って、オルクの胸もとにぐっと顔を寄せる。
ほんとうは、とてもではないが大丈夫ではない――。
でも……。
「大丈夫だよ。俺が気弱になったって栗毛色が気丈だし、この子は騎馬隊で構成される八月騎士団も経験しているんだ。俺には頼りになりすぎる騎士だよ」
――それに……。
ここまでの道中、バティアから借りた――いや、あの場合はもうもらったというべきなのか――黒地の手袋もある。
これをはめてしまえば、今度はバティアと手を取り合っているようにも思えるから心強くなれる。心細いなんかあるものか。
ハシュはスラックスのポケットに丁寧にしまっていた乗馬用の手袋を取り出し、すっとそれを身につける。それだけで気弱そうなハシュの表情が一変し、凛としたものが生まれる。
「――そうか」
馬を相手に騎士と表現するとは。
まさかの返答にオルクはかるく目を丸くするが、それだけ信頼関係があるのなら、この騎馬にハシュを預けるのはきっと正しいのだろう。
それにオルクの目前で難なく騎乗し、その所作を間近で見てしまうと、身内贔屓ではなくほんとうに惚けそうなほどハシュが雰囲気を変えるので、オルクは文官として成長している実弟に心配ではなく、信頼を浮かべるようとする。
ただ騎乗するだけの姿でこう思えてしまうのだ。
ほんとうに騎馬隊で構成される八月騎士団に攫われなかったのが不思議なくらいだ、と思い、オルクは栗毛色の顔にそっと手を伸ばす。
「道中、弟を頼む」
これしか言えないのは実兄として辛いところだが、栗毛色が「当然だ」と言いたげに力強くうなずいてくるので、たいしたやつだとオルクは苦笑してしまう。
ハシュもまた、そんな栗毛色の首筋を撫で、よろしくと伝える。
「じゃあ。オルク兄さん、今日はありがとう。義姉さんとユゥエによろしくね」
「ああ。道中、気をつけて――」
かるく手を挙げて背を向けるハシュに、オルクは実兄としてではなく、五月騎士団に所属する文官として礼節の姿勢を取る。
十月騎士団の伝達係――未成年の少年たちが伝書鳩として日々、こうして職務を全うしてくれるのだ。
ひとりくらい感謝と敬意を込めて頭を下げ、見送るのが礼儀というものだろう。
オルクの姿勢にはそれが込められていた。
ハシュは栗毛色をゆっくりとした歩調で進ませ、騎馬待機場を後にする。
敷地内にある燈籠でわずかにその姿も見えていたが、すぐに夜の色に溶け込むようにして見えなくなってしまう。先ほどまで腕のなかにいたというのに……。
――さっき、ハシュに渡したカード。
ハシュの今後を導く灯りを抱く少年。
それがどのようなかたちでハシュの前に現れるのかはわからないが、できることなら見事に照らしてやってほしいと、オルクはそう願わずにはいられなかった――。
「ハシュ、行ってらっしゃい」




