「きみはまだ馬が怖い?」
――カッコつけろとは、いったい……。
ハシュというこの伝書鳩……騎手が唐突にわけのわからないことを言い出すのはこれが一再ではないと、軍馬の栗毛色は重々その人となりを学んでいるが、先ほどは自分を叱り、今度は格好つけろとは。
いったい、この騎手は何をしたいというのだ?
――お前がやらなくてはならないのは、前進あるのみ、だろうが。
栗毛色はまるで勇壮な騎士が心底呆れるような表情をして、重たいため息をついてしまう。
人間という生き物が不可解なのか。
それとも、この騎手の思考だけが特殊に不可解なのか。
栗毛色は判断にあぐねるが、この騎手を相手に悩むのがそもそもまちがっているのかもしれない。この伝書鳩――ハシュはこうなのだから。
最初こそは思考が追いつかない栗毛色だったが、ようは壮麗な式典や祭典で見栄えのいいように動けといわれた「あれ」か、と理解するなり、そのような場で歩かされたことを思い出して当時とおなじように優美に反転する。
あのときは見世物のような気分になって嫌だったが、ハシュがさせようとしているのはそうではないらしい。
ハシュは栗毛色に回れ右をさせる。
これには栗毛色自身の足さばきが重要だが、騎手の姿勢や手綱さばきも重要になってくる。しかも自分の身体のように小回りで騎馬を反転させようとするのだから、馬術の技量も相当に必要だ。
「よっ、と」
ハシュはそれを苦もなく、乗馬に不慣れな新入生の後輩たちの前で行う。
その見事な足さばきに新入生たちが「わぁ!」と眼前の技術に感嘆の声を上げてくる。
ハシュはその声に笑んだ。
栗毛色も心なしか「当然だ」と言いたげに、機嫌よく尾を揺らす。
「ごめんね。もう帰らなければいけないところ、お散歩の隊列に勝手に割り込んできて」
ハシュは言って、そのまま十二月騎士団の新入生たちが進む方向と逆行するように栗毛色を歩かせながら声をかけてくる。
「あ……」
――ハシュ先輩が新入生たちにお声をかけている。
隊列の最後方にいた監督生はこれこそ隊列を止めるべきだと思い、停止の合図をかけようとしたが、最先頭で騎馬を歩行させたままのバティアが手を水平に伸ばして、その指先で伝えてきた合図は――不要。
ハシュもおなじように、ちょっとだけ悪戯めいた表情で自身の唇に立てた人差し指を当ててくる。大丈夫だから、とその姿勢で伝え、お散歩の隊列をそのまま前へと進ませ、ハシュだけがひとりひとりの顔を見やるようにゆっくりと逆行していく。
「今日、きみたちに会えてよかった。――俺もね、このお散歩ではじめて馬に乗るようになったんだ。世話や馬具の手入れもあって大変だったし、最初は不慣ればかりでどうしようかと思ったけど、やっているとどんどん楽しくなって」
――だから、大丈夫。
「きみたちならちゃんとした騎手になれるから。自分の速度で慣れていけばいいよ」
などと、当時監督生だったころを思い出して優しく激励を送ると、新入生たちははじめてお会いした若き文官騎士から直截言葉を賜ったことにおどろき、喜び、そしてとても素敵な方だと思う一方で、どのような言葉で返したらいいのかわからず、
「は、はい」
「がんばります」
と、礼儀に合っているかどうかはわからないが、とにかく口に浮かぶ言葉で返答する。そのようすがどこかぎこちなくて、顔も緊張していて、ハシュは先輩として「可愛いなぁ」と思えてしまい、微笑が止まらない。
ハシュがにこりとすると、左目もとのほくろまでが微笑んだように見えるので、新入生たちはそれを特徴と捉えてハシュの顔を目で追ってしまう。
柔和そうに見えて、優しげで。
それでどこかまっすぐに凛としたような、不思議な方――。
ハシュはそうやってぽかんと自分を見やる後輩たちに終始笑む。
年齢でいうと、ハシュと彼らにそう変わりはない。
差はあっても二歳かそこらだ。
だが、新入生の少年兵にとってその二歳……二年間ですべての鍛錬を習得した相手のその成果を持つ技術の差は大きく、しかも直近の先輩だろうと思われるが、相手は正式な騎士。それが武官であろうと文官であろうと、目の前に騎士が現れてしまえばどうしたって緊張してしまう。
――そんなにかしこまらなくてもいいのに……。
ハシュはほんのりと頬を染め、頬を掻く。
新入生たちはハシュのことを十二月騎士団団長と並行して気さくに会話をすることのできる素晴らしい先輩だと思い込んでいるようだが、
――俺の正体はね、ただの伝書鳩だからね!
カッコいいと思われることに悪い気はしないが、そうとハシュの見せ場を見事に成したのは軍馬の栗毛色で、自分はただ騎馬を反転させただけ!
きみたちの十二月騎士団団長とお話していたのも、同期で、親友だから!
俺がえらいわけじゃないから!
変に尊敬視されて、あとで「何だ、ただの伝書鳩か」と思い、落胆されても困るので――さすがにそれはハシュも傷つくかもしれないが、うん、確かにまだ下っ端だから仕方もないけれど――、ハシュのことは通りすがりのただの先輩と適宜に思ってくれれば……などと考えている。
それはともかく――。
ハシュはそうやってなるべくひとりひとりに声をかけて激励し、一度は最後尾まで逆行をつづけて最後方を歩く監督生の肩を伸ばした手ですれちがいざまにかるく叩き、彼にはちょっとだけ檄を飛ばして大きくうなずくと、
「よっ」
ハシュはふたたび栗毛色を反転させて、再度ゆっくりとお散歩の隊列と並行するようにおなじ方向を前に歩き出す。
――こうも自在に騎馬を操れるなんて……。
失礼ながら、どうしてハシュが騎馬隊で構成される八月騎士団に入団しなかったのか。それが不思議でならない。
ハシュのもっとも得意とするのは最速を競う競馬であるが、馬場馬術、障害馬術もお手のもとときている。反転くらいわけもないのだ。
監督生はその軽やかな動作に惚れ惚れしてしまう。
そのハシュはというと、
「――きみはまだ、馬は怖い?」
「え……?」
この隊列のなかでもっとも騎乗が不安定な新入生がいたことが最初から気がかりだったので、ハシュはそのようすを見せていた彼のそばに寄って並行する。
ハシュとしては「自分は怖くないからね」というパフォーマンスを見せるため、あえて逆行しながら和やかに声をかけて、とにかく人畜無害であることをアピールした。
それをしなくたって同期たちに言わせれば、「ハシュは人畜無害というより、見ているほうが心配になるほどおっちょこちょいだからなぁ」などと遠慮なくその印象を口にされるが、いまはそれでもいいから……と思い、新入生に向かってにこにこと微笑む。
けれども……。
「あ……」
ハシュに偉そうな気配など微塵もないというのに、それでも文官の「騎士」という印象のせいか、突然声をかけられて、しかもぴたりと並行されてしまい、馬が怖いなどとすっかり見抜かれてしまったことに恐縮してしまい、新入生はあっという間に顔を青ざめさせ、身体を震わせてしまう。
見たところ彼の性格は気弱そうで、外見もそれに漏れなかった。
自身も馬術を苦手としている自覚があるようで、ハシュの突然の指摘にすっかり震えきっている。
きっと……。
――これから叱られるのだ……。
すでにそんなふうに思い込んでいるのかもしれない。
その恐怖でいっぱいなのが、全身から伝わってくる。
――バティアがあつかいに困るって、こういうことかな……?
怖くはないよ、と体現して伝え、そのまま気軽に声をかければ大丈夫かと思われたが、それでもハシュに怖がってしまう子がこの世にいるとは!
これは早々しくじったかもしれない。
俺ごときで怖がっていたら数年後、万が一、トゥブアン皇国最大の災厄であろうあの七三黒縁眼鏡鬼畜……もとい、四月騎士団団長と対面した日には心臓麻痺起こして無事じゃすまなくなるよ!
ハシュはうっかり、そんなことを告げたくなってしまう。
無論、口が裂けたっていうつもりはないが――。
まいったなぁ……と思いつつも、ハシュは彼と並行をつづける。
そして自身が騎乗する栗毛色に、騎手として最大限の支配の圧を発しながら、
「――ぜったいに、この子の騎馬に威嚇するなんて真似はやめてね」
そう小声でつぶやき、ハシュはそのまま新入生の騎馬ぎりぎりまで近づいて、
「ごめんなさい。あなたの騎手と話がしたいんだ。すこしの間だけ近づくことを許してほしい」
今度は新入生が騎乗する老兵軍馬に向けて声をかけ、距離を詰めることを詫びる。
老兵軍馬はハシュの声に聞き覚えがあったのか、「かまわんよ」と老熟練磨のゆったりとしたようすでうなずき、自ら栗毛色と目を合わせないようにする。
ハシュはそのまま「ありがとう」と言って、ほんとうに騎手同士の足が触れてしまうのではないかと思われるくらいに栗毛色を寄せて、その距離まで詰め寄る。
それを見てハラハラしたのは、ふたりの後ろにつづく新入生たちよりも、最後方から隊列の安全を見守っている監督生のほうだった。
あんなにも接近するなんて……。
下手に騎手同士が接触してしまえば、その弾みで騎馬がおどろく危険も充分にあるし、いまは老兵軍馬も気にせず歩いているが、ハシュの騎馬はときおり騎手に背くような動きをする。万が一、ハシュの軍馬がまた並行を嫌がって足並みを乱し、それに老兵軍馬がおどろいて身体を大きく震わせ、弾みで背にする騎馬に不慣れな新入生が落下でもしたら……。
騎手や騎馬の実力に差がありすぎる接近の並行が、どれだけ危険なのか。
――それを知らぬハシュ先輩ではないというのに……ッ。
最後方で見やる監督生は隊列の安全を守る立場として、ハシュに離れるよう警告すべきかとも真剣に考えたが、水平に手を伸ばしたハシュが送る指の合図は――停止。
本来であれば、それは隊列を止めろという意味合いだったが、いまは用途がちがう。監督生に「すこしだけ黙っていて」という、ハシュにしてはかなり強硬な合図だった。
それを見せたあと、ハシュは背を向けたまま申し訳なさそうに伸ばしている手を使って、ぽんぽん、と何か大きな背を宥め叩くような素振りをして宙を叩いてくる。
急に無茶なことをしはじめて、ごめんね――。
そうハシュが詫びてきたことを察する。
だが、近づくな、と確実に言ってきているので、監督生はやや緊張してこの場の空気を壊さないよう息を飲んで留まった。
――大丈夫。
ずいぶんと危なげに見える接近並行だが、ハシュはすでに自身の騎馬と新入生の騎馬を制している。
新入生のほうはその至近距離に相当緊張しているが、ハシュも絶対に膝などの足がぶつからないよう絶妙な間合いを取っている。
それは三ヵ月前まで少年兵だったとは――二年前まで乗馬をしたこともなかったとは思えないほどの、天性の技術だった。
「すごい……」
そのふたりを目撃する新入生たちも気配を騒がせないように、だが感嘆をつぶやいてしまう。
ハシュはそのまま並行をつづける。
そして――。
老兵軍馬に跨る新入生の手を握ろうと、やや身体を見乗り出しながら自身の手を伸ばす。
「え……?」
新入生は自分の手に――直截ではなく、馬術用の手袋の上ではあるが――ハシュの手が重なったことにおどろき、驚愕で目を見開いてしまうが、ハシュはにこりと笑んだまま。
間近で見る若き文官騎士は、左目もとのほくろが印象的だった。




