この際だ、語ってしまえ!
どうやらバティアは、自分だけが愚痴のようなものをこぼしてしまったことを気にしているようだった。
――ならば!
――ほんとうの愚痴とは何かを聞かせてやろう!
何を思ったのか。
ハシュはそんなふうに捉えてしまい、流れでは黙っていようとも思ったが、結局はハシュも堪えていた日常を語り出してしまった。
無論、四月騎士団で起きた今日の災厄は口を閉ざしたままだったが……他の日常は語り出したら止まらない。
――たった、三ヵ月。
――されど、三ヵ月。
先ほどバティアを悩ましていたものを引用して、ハシュは語る。
その話を聞いて、じつのところ、まだ十二月騎士団の敷地より外に出たことがないバティアにとっては――少年兵としての二年間の修練こそ修了したが、そのまま十二月騎士団団長を受諾し、同敷地内でかつてとあまり変わらない生活をしているため――、ハシュの日常がおどろくばかりの不思議な体験談のように聞こえているらしく、真剣に聞き入ってくれるのが奇妙だが嬉しい。
そして、ときおり目を丸くしたり、おどろきでまばたくしぐさが何となく大人びてきたバティアを少年に戻しているようにも思えて、見ているハシュも楽しくなってしまう。
ただ――。
だからといって、話はひとつも盛っていないというのに……。
なぜ、冒険物語の本を読んでもらっている子どものように自分を見てくるのだろう?
ひと通り聞かされたバティアは心底感心し、そして――やはり心配を強めてくる。
「しかし……十月騎士団の伝達係って、想像以上に大変なんだね。もう夕暮れになるっていうのに、これから五月騎士団まで行くなんて」
そもそもハシュとバティアたちお散歩の隊列が出会った先にあるのは、五月騎士団の敷地しかない。
いま、ハシュたちの周囲は片側だけに林がつづくような未知の終わりで、あとは平原のような風景が広がる視界の開けたところ。近くに民家はまだ見えない。
五月騎士団に近づけば、敷地内にある官舎暮らしではない家庭持ちの文官たちが暮らす家が見えはじめ、ちょっとした町の規模が見えてくるが、それは娯楽につながるような街路ではなく、あくまでも生活を支えるていどのにぎわいがあるていど。
用向きがなければ、この時間帯で会うような場所ではない。
一方のバティアたちお散歩の隊列は、今日は昼過ぎからこの近くまでゆっくりと回り、ちょうど十二月騎士団の敷地に向けての帰路だった。
五月騎士団の敷地と十二月騎士団の敷地はちょうど、いくつもある大きな森を迂回するような、互いが枝分かれの先にあるような位置関係にある。
――だからハシュと会うことができたのか。
時間帯を考えれば会うはずがない親友に、なぜこの道のりで会うことができたのか。
バティアはようやく腑に落ちたが、時間帯を思えばかえって怪訝が深まった。
「ここからの位置だと、五月騎士団まではまだ道のりもある。ハシュの技量とその軍馬なら一時間もかからないだろうけど、でも……」
その時間見立ては往路だけの話であって、用件を済ませ、ハシュが十月騎士団に戻ろうと建物を出たころには日没しているだろう。
そうなると往路はすでに夜の世界。
いまは数年に一度の蒼月の時期に入っているので、月は幻想的で美しいだろうが……。
「ハシュ、無理はしないで」
――ハシュに夜は駄目だというのに……。
ハシュの同期たちはそれを知っているから何かと気遣えるが、十月騎士団の上官たちはその事情を聞かされてはいないのだろうか?
「その用件は明日に回せないの? 無論、そのぶん早朝からの移動で大変かもしれないけど」
バティアの気遣いに、ハシュは「ああ……」と温かいもので心がいっぱいになるが、現実という波風がすぐにそれを吹き消してしまう。
ハシュは遠い目をしながら「はは……」と乾いた笑いを浮かべてしまい、
「それをさせてもらったら、苦労はしないよ」
「そういうものなの?」
「そういうものなの」
日ごろからの酷使と奔走が、いよいよただの日常になりかけてきている。
バティアに心配されても、「よくあることだから」のひと言で済んでしまう自分たち伝書鳩の感覚が怖い。
でも……。
酷使を前提に命じられて、伝書鳩は奔走させられているわけではない。
日ごろは散々に酷使だ、奔走しっぱなしだ、と文句も言っているし、明日で済む用件だと先ほど上官も言ったので、何も日暮れがはじまっているこの時間に無理をして五月騎士団までの往復に挑まなくてもいい。
でも、そうではないのだ――。
ハシュたち伝書鳩は受け渡しを第一の目的に走っているため、書類を目的のひとつとしか捉えていないが、その内容はトゥブアン皇国の国事や国政に関わる事柄ばかりなので、信頼がなければ用件を頼むことも、書類を預けることもさせることもできない。
上官たちはつい「ついで」「ついで」の大合唱をしがちだが、ちゃんと伝書鳩の個々を見抜き、ハシュならばかならずやりきってくれるだろうと、馬術の技量と職務に対する姿勢を正しく評価しているため、ハシュは奔走できるのだ。
でも、だからといって「ついで」が積み重なるとどうなるのか。
そこはきちんと計算してほしい!
「バティアも気をつけてよね。誰かに用件を頼むときは、きちんと時間配分をしたり、その子の事情や技量にも充分気を配らないと」
「う、うん……、心がけるよ」
先ほどとは真逆の姿勢で強気になり、ピッと人差し指をまっすぐに立てながら、ハシュは重々に念を押す。
バティアもやや押され気味にうなずくが、一度堰を切ってしまうとハシュの口は止まらない。
先ほどまであれだけきらきらしていた目も、心なしか据わってきている。
「文官ってね。想像していた世界とは全然ちがって、書類に関してはほんとうに命を懸けているというか、書類のほうが魑魅魍魎のように跋扈しているというか。退治……じゃない、処理のためなら鬼にも蛇にもなれるんだ」
「それは……すごいね」
「行けと言われたら行くしかないんだ。それをさせる圧がすごいんだから」
「……」
ここまで語ってしまうと、さて、そもそも自分は何を話したかったのか。
ハシュはいよいよ本来を見失ってしまう。
確か……確か……――。
バティアが団長としての悩みを抱え、それを露呈したことを気にしていたので、では自分もすこしだけいまの仕事の話をして、悩みも愚痴もみんな持っているんだから安心してよ、そんな気構えでかるく話そうとしたはずなのに……。
「ご、ごめん、バティア! 俺のほうこそ斜め上に愚痴っているような、その……」
先ほどまでどうにか知恵を絞ってバティアを励まそうとがんばれたのに、どうして自分はいつもこうなのだろうか。
後ろにはかがやかしい未来に満ち溢れている後輩たち、新入生もいるというのに……。
ハシュこそ熱弁しすぎたことに気がついて、あわてて頭を下げてしまう。
だが――バティアにしたら、これこそハシュだと思えるものがあって好ましかった。
目指していた剣技の六月騎士団ではなく、武官になれるどころか、文官である十月騎士団への入団採用通知を受け取ったとき、
――もう俺、剣を握ることもできないんだッ!
幼いころからずっと憧れ、少年兵として厳しい鍛錬も積んできたのに、その夢を絶たれたハシュは酷く泣きわめき、一晩中バティアが抱きしめて慰めてもその涙を止めることはできなかった。
あのとき、項垂れた顔を上げることもできないハシュの弱々しく見えた首筋が忘れられない。
けれども……。
「でも、それを熟してしまえるようになったんだ。ハシュはすごいよ」
「そうかな?」
「うん。ハシュの奮闘を聞いていたら俺もがんばる気が湧いてきたし、何だかんだといってハシュは十月騎士団で楽しく過ごしているようだから、安心したよ」
「……ん?」
――あれ? いまの会話でそんな節あったかな?
バティアの解釈にハシュは眉根を寄せてしまう。
互いに何も語れなかった三ヵ月。ここでようやく吐き出すことができたので、それが愚痴ばかりというのは恥ずかしかったが、それでも何かを伝えたい思いは通じ合えたので、ようやく口の動きが止まると満足げにふたりは見つめ合った。
――ハシュのやや暗めの橙色の瞳。
――バティアの碧眼。
ふたりは互いの瞳の色を見つめて、そして――笑みをこぼす。
ハシュとバティアにはこれで充分だった。
ふと時刻が気になって、軍装のポケットに忍ばせていた懐中時計を見やる。時刻のわりには夕暮れの進みのほうが早いと感じられて、ハシュは周囲の空を見やった。
空にはまだ陽光はある。
日の入りもまだすこし猶予がある。
西の空には茜と黄金色が広がって、雲を不思議な色に染め上げて美しかったが、周囲の木々は森ほど鬱蒼としていなかったものの、わずかに離れた木々の奥はもう闇。
見ようによってはその隙間から漏れる筋の残光が美しいが、どちらかというとそれは黄昏色。ハシュだけではなく、騎馬に不慣れな新入生たちのお散歩の隊列にも不利な時間が近づいているのを伝えている。
ハシュは急げば騎馬をいくらでも全力疾走させることができるが、バティアたちはそうはいかない。
――バティアとは、もっとたくさんのことを話したかったな。
名残惜しいが、安全を最優先に考えればお散歩の隊列はもう十二月騎士団に戻らなければならないし、職務を考えれば、ハシュはほんとうに五月騎士団まですっ飛んでいかなければならない。
ハシュにはまだ、つぎ、があるのだ――。
情緒もへったくれもない、つぎ、が。
「ごめんね、バティア。すっかり話し込んじゃって」
今日は偶然会うことができたが、つぎの偶然はハシュに訪れるだろうか?
また、しばらく会えないと思うと寂しくなってしまう。今度はこまめに手紙を書いて送ってもいいだろうか?
ハシュの声音は心底名残惜しいものが含まれていた。
「ううん。俺たちのほうこそ十月騎士団伝達係の職務の最中を邪魔してしまって、申し訳なかった。――ごめんね、ハシュ」
「職務だなんて、そんな」
「もし、この先遅くなって何か不都合が起きて、そのことで上官に何かを言われたらすぐに俺に言って? 十二月騎士団団長がつい引き止めてしまったと、お詫びに行くから」
「そ、そんなッ、大丈夫だって」
むしろバティアたちお散歩の隊列に突然声をかけて、そのままバティアを懐かしんで話し込んでしまったのは自分のほうなのだから、悪いのは自分だ。バティアが頭を下げる必要などこにもない。
ハシュはあわてて頭を振る。
でも、バティアの性格は想像以上に律儀だ。
もし――何かがあってもハシュが黙っていたにもかかわらず、どこから聞きつけたのか、バティアが頭を下げに現われでもしたら……。
「――俺、上官たちに縛られて、逆さ吊りにされるかも……」
「ええ? ほんとうに?」
ぽつりと漏らしたハシュの想像にバティアは幾分大げさにおどろいて、くすりと笑う。
どうやら冗談だと受け取ったらしいが、さて、どうだろう?




